2013.4.21/パルコ「レミング~世界の涯まで連れてって~」 at パルコ劇場2013.6.22/ヴロツワフ・ポーランド劇場「母よ、父なる国に生きる母よ」 at 静岡芸術劇場

2013年06月24日

2013.6.16/文学座「ガリレイの生涯」 at あうるすぽっと4

約2ヶ月ぶりの観劇。

長大で見所の多い戯曲を丁寧に観客に届ける、演出及び俳優の演技だと思いました。
どの俳優も、台詞をよく聞かせてくれます。

朝日新聞の記事中で、演出の高瀬久男は昨年演出した「ナシャ・クラサ」で劇団員が見せた演技について、「流れる時をぶった切り問い直すような異質な舞台で、彼らは叙事性を損なうことなく言葉に情緒をのせ、同化した。役の姿や状況を浮かばせることができた。この劇団でブレヒトを、と強く思った」と語っています。確かにあの芝居では、役者は物語中の登場人物をなぞって演技する形式を取っていませんでした。劇中で置かれている状況を個々の俳優が自分自身の問題として引き受け、演技はその役者の(出来事に対する)受け止め方の結果として立ち現れていました。それはあの作品が描こうとしている対象、それから戯曲の語り口・構造の両面で、通俗的な芝居と掛け離れていて、従来の新劇的な演技(こういう区分けは最早通用しないのかもしれませんが・・・)では対応できなかったことが背景としてあるのかなと思います。
本作も「ナシャ・クラサ」と同様、過去の事実を基にして書かれた作品であり、また歌や踊りが頻繁に挿入されて異化効果を発揮するなどの類似点があります。しかし、基本的に本作は一人の科学者の半生を順に追っていくオーソドックスな戯曲です。そして物語の進行は、俳優たちが語る台詞に多くを負っています。そのため、どうしても役者は物語に即して台詞を観客に「説明」するようにしゃべらざるをえません。また、長台詞が多く、科学の込み入った事実関係が台詞に頻出する点も、説明的な芝居になってしまう要因と言えるかと思います。

結果として舞台のテイストは異なるものになりましたが、「ナシャ・クラサ」も「ガリレイの生涯」も、戯曲に描かれている「真実」を現代の自らの問題として受け止め、丁寧に観客に手渡すことに心を砕いている点は一緒だと思いました。



☆「Corich舞台芸術」でのこの公演のレビューはこちら 

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2013.4.21/パルコ「レミング~世界の涯まで連れてって~」 at パルコ劇場2013.6.22/ヴロツワフ・ポーランド劇場「母よ、父なる国に生きる母よ」 at 静岡芸術劇場