2016年10月16日

2016.9.17/文学座「弁明」 at 文学座アトリエ

[作]アレクシ・ケイ・キャンベル
2009年 英初演

2014年に文学座が上演した同じ作者の「信じる機械」は長く心に残る、素晴らしい芝居だった。本作は、舞台の出来ではそれに及ばないが、戯曲の密度の濃さでは負けていない。

舞台は英国の地方にひとりで住む初老の美術史家クリスティン・ミラーの自宅のダイニングキッチン。 物語は、誕生日を迎える彼女に会おうと長男ピーターと婚約者トルーディが訪れるところから始まる。ピーターはエリート銀行員としてアフリカを飛び回っており、随伴するトルーディが町中で女性から勧められて購入した、とある部族の巨大なマスクをクリスティンにプレゼントする。クリスティンは理屈っぽくとっつきにくい性格であるが、彼女の専門であるジョットの作品の意義と魅力を熱く語り、トルーディは彼女に好感を持つ。
第一幕第二場。次男サイモンのガールフレンドであるクレアと、クリスティンが1960年代から70年代にかけて身を投じた反戦運動や労働闘争で共に支え合った友人であるヒューが姿を現す。 クレアはTVの人気ドラマに出演する女優であり、高価なドレスを身に付けてやってきた。サイモンは仕事を転々とするフリーターで、現在失職中であり、精神的な不安定さを抱えている。クリスティンは彼女の仕事人生をまとめた回顧録『弁明』を少し前に出版したが、これを読んだピーターとサイモンはショックを受けた。二人の息子について一言も言及がなかったからだ。食事が進み、酒の酔いも手伝ってクリスティンとクレア、さらにはピーターも加わっての言い争いが始まる。クリスティンにしてみれば、クレアの現在の仕事は消費社会に媚びを打っているだけの浅はかなものであり、表現者としての矜持がないという。一方、クレアやピーターはクリスティンによる価値観の押し付けに強く反発する。
第二幕第一場。真夜中にサイモンとクリスティンの二人が登場。サイモンは手に軽傷を負っていて、クリスティンが注意深く診ている。息子の現在の窮乏を気に掛けるクリスティンに対して、サイモンは小さい頃の思い出を語り出す。ピーターと彼がそれぞれまだ小学校低学年ほどの頃、クリスティンと夫はイタリアで暮らしていた。ある日、二人は別れ、子供たちは半ば強引に夫が引き取ることになった。それ以降、ピーターとサイモンにとって、母親はたまに面会するだけの関係になる。少年時代に母から引き離されたことが、二人の心の奥底にコンプレックスとして潜むことになった。サイモンはその後、イタリアの母の元を一人で訪ねた時のことを語り出す。
第二場。翌朝。トルーディ、クレア、ヒューが朝食を摂っている。トルーディはクレアに、宗教が信仰者にとって持つ意味について力説する。現れたクリスティンに対してクレアは、サイモンと別れることを告げる。ヒューはピーターと二人きりになったときを見計らい、クリスティンの芯の通った生き方と澄んだ眼差しについて語り出す―。

この劇は、登場人物が自らの主張や生き方を相手にぶつけて議論をし合う論争劇である。テーマは多岐に渡る。

〇消費社会
テレビの人気ドラマに出演する仕事にプライドとやりがいを感じると力説するクレアを否定するクリスティン。彼女にしてみれば、軽薄な広告業界で男女が空騒ぎする中身のない話であり、視聴者に消費されて忘れ去られるコンテンツでしかない。

〇宗教
トルーディは敬虔なクリスチャンであり、ピーターともキリスト教会が催す集会で出会った。クリスティンはキリスト教を時代遅れで男性優位の抑圧的な価値観だと断じる。一方、カトリック教会の天井に描かれたジョットの宗教画に出会った貧しい女性が、絵の中に自らを見出し、心に希望を灯す話をトルーディに熱く語る。クリスティンにとって、キリスト教とは信仰の対象と言うよりも救い・癒し・生きる糧をそこから見出すべきものなのである。

〇家族
クリスティンが回顧録「弁明」の中で実の息子たちについて一言も触れなかったことが、この劇で繰り広げられる様々な論争や言い争いの根っこにある。彼女が自らの矜持をとうとうと語りながら、そのことに「弁明」しているという構図も面白い。
ピーターとサイモンにとって、子供の頃に母親から十分な愛情を得られなかったというコンプレックスは意識的・無意識的に自らを縛っている。だがヒューはピーターに語る。子供の傍にいてたっぷり面倒を見るいわゆる普通の母親像を演じるだけが、親の務めではない。クリスティンは自らの仕方で、親として、それ以上に一人の成熟した人間として社会の中で役割を果たす自分の姿を子供たちに見せようとしていたと。

〇仕事
エリート銀行員としてアフリカ大陸を飛び回る長男ピーターを"Still raping the Third World?"と辛らつにこき下ろすクリスティンにとって、仕事とは人生を賭して持てる力を注ぎこみ、自らを包摂する社会を良い方向へと導くことである。当然、TV業界で消費されるだけのクレアの俳優業も彼女にとって不満である。『弁明』になぜ子供たち過ごした時間への言及が全くなかったのか。クリスティンにとって仕事とは無私の態度で臨むものであり、その全てを表現した回顧録に彼女のプライベートを差し挟む必要はなかった。この価値観は多くの日本人にとって理解できるものだが、家族との生活を最も大事にするスタンダードな欧米人には異質なのかもしれない。

これだけの内容を盛り込みながら、しかし台詞はよく練られ、ユーモアに富んでいる。特に第一幕第二場ではクレアの出演するドラマを"soap opera"とからかったり、ヒューが道化役のごとく、議論応酬する場に茶々を入れるなど、笑えるシーンが多い。今回の文学座の公演では、全体として重苦しい空気が舞台上を支配し、楽しい台詞がそれほど生きていなかったと思う。演出の方針なのだろうが、もっと原文の台詞を活かす方向性の方が良かったのではないか。

我が子と過ごす時間を犠牲にして仕事に打ち込み名を成したクリスティンにとって、しかし自分の人生が本当にこれで良かったのかという葛藤は心の中から消えなかった。「弁明」の中で一言も子供について触れなかったのも、やはりどこかで負い目を感じているからに違いない。そんな彼女の琴線に触れたのがトルーディだった。一緒に書斎を見て回った彼女は、年代順に並んだ本棚の本から女性の作者のものが1950年代でなくなっていることに気付く。そして60年代から70年代が社会にとって、そしてクリスティンにとってターニングポイントとなる大事な時代だったと想像するのだ。自分が生きた時代に思いを馳せてくれる若い息子の婚約者に、クリスティンは救われる。

「文学座通信」9月号の中で本作の訳者・広田敦郎が、キャンベル氏がとあるインタビューの際に語った話を紹介している。曰く、「弁明」、「信じる機械」、そして2008年初演の「プライド」は三部作のようなものであり、これら三つの劇に共通するテーマは「inheritance(継承/遺産)」だと。技術革新のスピードが加速度的に上がり、価値観の大きな転換が進む現代、守らなければならない文化や価値を見極め、後続の世代に遺すことの困難さはいよいよ大きくなるばかりである。この点で、我々日本の観客は、クリスティンの苦悩に寄り添うことができるのだ。

余談だが、イギリス文学、世界文学に名を残す作家や作品が所々、台詞に差し挟まれる。オスカー・ワイルド、ヴァージニア・ウルフ、ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」、そしてトルストイ「アンナ・カレーニナ」。本作の軽妙な台詞と同時代の社会や風俗を鮮やかに切り取るセンスの良さ。作品世界を支える骨太の価値観。イギリス演劇の分厚さのバックボーンが一体どこにあるのかをはっきり示しているのだと思った。

theatergoer_review at 16:21│Comments(0)TrackBack(0)

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