2012年11月30日

マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響樂團のベートーヴェンチクルス (1) 小川榮太郎


交響曲3番、4番(11月26日、サントリーホール)
交響曲1番、2番、5番(11月27日、サントリーホール)

ヤンソンスは來日の度に、必ず藝境を進歩させ、オケとの關係をより熟成したものにしてくる。樣々な指揮者を聽いてきた。彼よりも偉大な人、好きな人はゐるけれど、こゝまで、毎囘、確實に進境を示す人は、他に聽いたことがない。

今囘のチクルス、前半を終へ、いづれも素晴しい出來である。私見では、1番が最もよく、ついで3番、2番、4番、殘念ながら大編成で臨んだ第5は、私には微温的で物足りなかつた、喝采は凄かつたけれど。
1番の青春の憂愁と喜びに、こんなに敏感に寄り添つた演奏は、私にはちよつと記憶がない。フルトヴェングラーのレコードがテンポは遲いが、さうした青春の詩情を湛へてゐる、ヴァルターもとても良かつた。その後、ドイツの青春――クロプシュトック、ゲーテの――を、自分の青春として感じられない世代になると、この音樂のさうした詩情を身體で感じてゐる人の演奏とは違ふ、外側からのアプローチになつてしまふ。それが古樂派であれ、大編成の近代アプローチであれ。
さうした中で、ヤンソンスのは、久振りに、この曲に手放しの若さの感傷を歌ひ、しかも輝かしい朝の日差しに、音樂がまぶしく輝く樣を味ははせてくれた。3樂章の挑戰的な快速、そして4樂章の喜ばしい爆發、演奏は細心の注意で各パートが音樂の喜びに溢れながら、萬全のハーモニーだ。

2番。エクストラガヴァンスの典型、ベートーヴェンが自分の世界、音樂史的な革命の時代にはつきり踏込んだのだが、まだ、それをどう形にして良いか分らないといふ作品だ。エネルギーの持て餘しの傑作と言はうか。ヤンソンスは、古樂器以來の鋭角的な演奏とは對極的なやはらかい芳醇な響きで、しかし鮮烈な演奏を展開する。たゞ2樂章はもつと手放しで歌つて良かつたのではないか、そして4樂章はエクストラガヴァンスに思ひきつて身をあづける方が好きなのだが。

3番は、特に1樂章が素晴しかつた。變ロ長調のトゥッティが、鋭いアタックと立て續けの轟音で始まる。なるほど、この和音がいきなり聽衆をノックアウトしたであらう初演當時の有樣が想像された。この出のアタックは、本來かういふものだつたのか、フルトヴェングラー流の堂々たる開始でも、音だけで虚假威しをするやうな意味での古樂スタイルでもなく。主和音を堂々と鳴らすのに、聽き手の方向感覺を一瞬奪つてしまひ、その驚天動地の中で、威嚴と優しさに滿ちた第一主題が低い聲で歌ひ出される、若きベートーヴェンの聽き手と同時代精神に投げ付けられた手袋なのか。――さうした驚きの渦に、私自身瞬時に迷ひ込まされた。
ヤンソンスの氣迫はたゞならない。その後も、さはやかでぐいぐいと進行する。かと言つて、どの細部も表現と歌をはしよつてはゐない。實に注意深い愛情と喜びが演奏に濕潤してゐる。第2主題は夢見るやうに空中にただよつて、冥想のやうだ。足取りを取り戻して掛け上がつての鋭いフォルテの打音は、何と美しい「轟音」だらう!
ルノアールの果物のやうに暖いくまろらかな音の質感、奏者それぞれが音樂への愛で緊密に繋がつてゐる人間的でしかも高度な合奏、これほど色調が調和してゐるにもかゝはらず、古樂竝の透明なテクスチュア、そして一貫した音樂表現への緊張――5年前には、ずつと平板だつたこのコンビの音が、こゝまで成熟するとは!
展開部も委細かまはず進行するが、音樂の表情は自然に深く豐かだ。再現からコーダへの移行の緊張感と、そのまゝ力みもなく高まり續け、メロウなのに最大限の昂揚感でをはる見事なコーダだ。
2樂章は、充分に豐かな世界なのだが、もつと踏外しへの冒險が欲しい。音樂が深刻になることを怖れては、この曲で突如、音樂史の奇跡に踏込んだベートーヴェンの天才の戰きが傳はらない。音樂は葬送行進曲の儀禮的な古拙に則りながら、絶えず深淵に浸つてゐる。この境目が難しい。しかし、ベートーヴェン自身が、そこから大きく踏み外してゐる。マジョーレの醇化された感傷、そして古代悲劇のやうな三重フーガ。このやうな破格な音樂は、破格に扱はねばならない。ヤンソンスの親密な音樂作りは、このやうな巨大さへの困難な登攀といふ性質とは相反するのだらうか。平板さや物足りなさは全くないのだが、聽き手にぎりぎりの何かを要求する苛烈さがないと成立しない音樂世界といふものがあり、こゝはさういふ場所なのである。
その意味で、全體に最も物足りなかつたのは《第5》である。最近のベートーヴェン演奏では珍しく、絃樂パートを擴大したカラヤン時代のスタイルの編成で、響きは厚みを増したが、それが音樂的な強さや高さにならないのが、音樂の難しいところであらう。
フルトヴェングラーの巨大なモットーの提示、カラヤンやクライバーの峻烈極まるスピードと重量感は過去のものとなり、1樂章が力みなく歌謠的なまでに美しく歌はれるのは、最近の巨匠派――バレンボイム、ティーレマン――に共通してゐる。私は、必ずしもこの行き方を是としないが、今はそれはおくとして、それでも音樂の丈、そして緊張、ニュアンスの多彩さによる奧行といふ點で、ヤンソンスは圓滿過ぎる。流れるやうな演奏の中で、實は樣々な葛藤が演じられてゐるといふのではなく、細部が奇麗に解決され過ぎてゐる。
さうした印象は、どの樂章を通じても變ることがない。2樂章の變奏曲の限界を超えた多樣な可能性、3樂章の不氣味で不定型な世界、そして4樂章の法外な爆發――いづれも、ロマン派美學に決定的な形を最初に與へた未聞の世界――が、この人の圓滿なアプローチで、豐かさの中に解消してしまふのである。
空疎だといふのではない。
氣迫充分、緻密で美しく、パワーも大きさもある。その意味では、間違ひなく「名演」である。
しかし「名演」では覆へない音樂的な意味――といふものへと、はみ出してゆくぎりぎりの對決の世界が《第5》だらう。それは何もフルトヴェングラー、ティーレマンのやうなフォルムの變更と法外な爆發によつてだけ到達できる世界ではない。私が數しれず聽いてきた生演奏で一番感動したのは、チェリビダッケ、バレンボイム、ティーレマンではなく、朝比奈隆の演奏だつた(彼のレコードにあの素晴しさが入つてゐるわけではないからお間違なく!!)。素朴な、實直に樂譜を音にしてゆく氣合だけのベートーヴェン。でも4樂章の途中から、私は涙が止まらなくなつてしまひ、本當にびつくりしたことを今もありありと覺えてゐる。
音樂に降りる神の形は樣々だ。だが、それが降りてくることを信じられなければ、ベートーヴェンをやる意味はないだらう。
後半のヤンソンスに、それを期待したい。


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2012年11月02日

聖なる奇跡、再び――ティーレマンのブルックナー(2)小川榮太郎

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ヴァグナー:トリスタンとイゾルデ「前奏曲と愛の死」/ブルックナー交響曲第7番ホ長調
クリスティアン・ティーレマン指揮 ドレスデンシュターツカペレ(10月26日サントリーホール)

1樂章は、ソナタ形式といふよりも、3つの主題が、なだらかに生起し、自由に交歡しながら3度繼續される、と言つた方がいゝやうな音樂。ティーレマンはゆつたりと構へながら、この生起から生じる歌と波瀾とを、無限に優しい眼差しで見守つてゐる。第2主題の泣きたくなるやうな稚いリリシズム、第3主題の孤獨な散策の足取りから、時に高まるトゥッティも、とにかく優しいのである。
そして、オーケストラの響き! 前囘ティーレマンとドレスデンの相性に就て、疑問符を付けたが、一週間足らずで撤囘させていたゞく他はない。高弦のプラチナの輝き、光の絲を放つやうな燦めき、低弦は深々と、しかし威壓的でない包容力で音樂のベースを守る。木管も今日は實に強い表現力を示してゐる。そして金管! このやはらかい壯大さは何だらう。合奏としての強さと味はひの濃さ。音色が絡み合ふ萬華鏡のやうな搖らぎ。もうその鳴り響きを聽いてゐるだけで滿足といふ美しさである。ティンパニの轟きも、合奏の中に融け込んでゐる。
トゥッティの美しさは、信じ難いほどだ。アルプスの山竝が、青空の中に現出する、壯大な幻覺のやう。
1樂章末尾はやゝ控へ目な印象だが、これは普通どうしても輕くなつてしまふフィナーレコーダを、最大限巨大なものにする爲のバランスであることは、後で明らかになる。
2樂章は、音樂的にも演奏の緊張の高さでも、今日のクライマックスだつた。バレンボイムの前囘來日時の演奏が、この2樂章に非常に深い陰影を與へてゐたが、ティーレマンのは、寧ろ、こゝでもさうした表出としての深刻な味はひではなく、やはり、ひたすら無心に美しい。ひたすら優しい。4小節のマルカートに悲劇の剛毅さをうち出す以上に、7小節のディミヌエンドに限りない優しさの涙が光る。音樂はどんな瞬間も、無心に歌はれ、無心に深い。
あのワルツ主題の美しさには、最早、どんな地上の言葉も似つかはしくないといふ氣がする。樂章後半のブルックナークレッシェンドと大クライマックスも、あんなに大きな音樂が、あんなにやはらかく響くのを私は初めて聽いた。最近DVDにもなつたチェリビダッケ指揮、ミュンヘンフィルの來日公演の時は、こゝで、音響がサントリーホールの許容を完全に超えてしまひ、感動よりも音に疲れてしまつたことを、今思ひ出す。同じ時のブルックナーの第8交響曲、こちらは、響きのコントロールも、限界的な精神の糾問としての音樂の内容も、比類を絶した經驗だつたのだが。
さうした比較は別にして、とにかく私は、こんなに歌ふフォルティッシモといふものを聽いたことがない。この繰返されるトゥッティの間、音樂は、音響の伽藍ではなく、ひたひたと波打ちながら、優しくやはらかく歌つてゐるのである! そしてその歌は、絶えず沈默の中から生まれるやうな靜けさへと、寧ろ聽き手をその沈默へと吸ひ込むやうである。
その後、ヴァグナーへの哀悼の音樂が厳かに奏され、あの靜謐な祈りに戻つてゆくコーダを語ることは、もう殆ど神について語ることに近いだらう。
かうした絶美と限界的な音樂への沒入の後、第3樂章は、ユーモラスな慰謝だ。この樂章がこんなに待ち遠しく響いたのは、私には初めてだ。輕快だが柄は大きい。大きいが、味はひはこまやかだ。一つ一つの音型や樂器バランスが、オケの自發性によつて生まれるからであらう。とにかく音樂が生きてゐる。そして、スケルツォのトリオでのティーレマンの歌が凄いのである。頑是ない子供の無垢と叡智――懷かしさの感傷に包まれて、胸は一杯だ。
フィナーレ。本來かなり輕いこの音樂をどう扱ふか、カラヤンまでの世代が餘り作爲なく流してゐるのに對して、チェリビダッケの巨大化、バレンボイムのドイツ風フモールの限りを盡くしたチャーミングな音樂作りが、最近の大きな解釋上の成果であらうか。ティーレマンは輕快に始めるが、氣が付いた時には、途轍もない巨峰を麓から見上げるやうな大きさで曲尾を飾るといふ、一種の魔法めいた音樂作りに成功してゐた。
1樂章冒頭主題のヴァリエーションである第1主題は羽毛のやうに輕い。コラール風の第3主題の冥想は深い。兩者が融け合ひながら音樂は徐々に巨大な相貌に變じてゆく。テンポ變化はバレンボイムに一番近いが、後半練習番號U、247小節からのリタルランドとア テンポを繰返す場面を通じて、バレンボイムとは違つて、徐々に腰を落としてゆく。これで音樂が巨大な印象を獲得するのである。そして、コーダ直前、全奏で、主題をそれぞれに變型して奏するところのリズムや音色の絡み合ひの、無類の面白さに夢中になつてゐると、ラングサムがホール一杯に廣がる。大河が大洋に出る瞬間のやう。その豐かな殘響の中から、懷かしいホルンが、コーダを導き出す。
巨浪のやうなクレッシェンドの果てに、1樂章の第1主題が再歸し、ホール全體はさながら雄大な音宇宙。私は、終止の、ゆつたりと引き延ばされたオルガンサウンドが、黄昏の微光のやうにホールを染め上げ、黄金色の殘響が深い沈默に返つてゆくのを、たゞ茫然と眺めてゐた、やがて妻になる人と深く寄り添ひながら。
區切られた聖なる時間――。


それにしても、我々は、なぜ、俗世になぜ戻らねばならないのであらうか、こゝにこそ人生の眞理があるならば! これが現代社會の一遇を占める音樂興業といふ名の兒戲ではなく、人生の確かな響きのありやうそのものだとしたら! ブルックナーが孤獨で苦しい生涯から發見したこの音樂世界の確からしさに匹敵する何を人類は他に見出し得たといふのだらう。がらくたのやうな英雄の夢、がらくたのやうな富、がらくたのやうな性愛、がらくたのやうな哲學、がらくたのやうな文明、がらくたのやうな合理化、近代といふ名の全がらくた………

神に,そして神の創造物たる自然をこれ程美しく歌ひあげたブルックナーに感謝する。そしてブルックナーの第7交響曲のこれほどの聖性を、初めて教へてくれたティーレマンに深い敬愛の念を。(この項了)


theclassic at 10:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0) クリスティアン・ティーレマン 

2012年11月01日

聖なる奇跡、再び――ティーレマンのブルックナー (1) 小川榮太郎

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ヴァグナー:トリスタンとイゾルデ「前奏曲と愛の死」/ブルックナー交響曲第7番ホ長調
クリスティアン・ティーレマン指揮 ドレスデンシュターツカペレ(10月26日サントリーホール)


こんなに美しいといふことがあつていゝのだらうか?
美しいといふことが極みを超えれば、それは喜びや幸福といふよりも、美の鞭にしたゝかに打たれる、一種の精神的な限界への挑戰になる。今夜のティーレマンとドレスデンシュターツカペレは、そのやうな音樂の限界に達してゐた。
來日の度に、公演最後にブルックナーを持つてきて、こゝで己の眞價を問うてきたティーレマン。ミュンヘンフィルとの第5交響曲、第8交響曲に續き、ドレスデンシュターツカペレとの初來日では、第7交響曲である。しかし、5番、8番の時とは違ひ、1晩1曲ではなく、前プログラムにヴァグナーのトリスタンが入る。ドイツ在住の城所孝吉氏によると、9月1日のドレスデン就任コンサートでの《第7》が、ティーレマンらしからぬ淀みないテンポでの明るい演奏だつたといふ事で、その爲かとも思はれたが、實際に聽いた今日のブルックナーは「輕快」どころか、ゆつたりとしたテンポ、特に第1,第2樂章は、沒頭する程にテンポが遲くなる、あのティーレマン時間の、限りない「豐饒の海」だつた。信頼の於ける城所氏の印象に間違ひがあるとは思はれないから、全歐から聽衆が集つての就任コンサートでは、ティーレマンは、祝祭風の演奏をした、或いは限界への挑戰ではなく、音樂による挨拶をした、といふことであらうか。
ならば、東京の聽衆こそさいはひだ、今日のティーレマンこそは、自身の限界に挑戰し、オーケストラと共に音樂に沒入する忘我、忘我の沈潛へと音樂を誘ひ、ブルックナーと深い交歡の時間を味はひ盡くしてくれてゐたのだから。

前プロのトリスタンも勿論歴史的名演だ。《前奏曲》の強く大き過ぎる構へにはやゝ違和感があるが、《愛の死》が極限的なソットヴォーチェとスローテンポで陶醉を内側に内側に確かめる法悦の時間、そして曲尾ぎりぎりになつて、ふわりと音樂がクレッシェンドしてゆき會場が波のやうに搖れるあのエクスタシーは、比類ない。休憩中の會場では、この一曲でもう充分だといふ聲さへあちこちで聽かれた程だつた。


そして休憩後、ティーレマンが再び登場し、會場が鎭まる。緊張した靜寂――第1樂章が始まる。
だが……。
それは本當に始まつたのだつたか? 弦のトレモロが微かに空氣を振はせる。殆どきこえないほど微かな震へだ。チェリビダッケのやうな表現意欲に滿ちた意味深いピアニッシシモではない。空氣の美しい震へである。その震へに導かれ、チェロからきれいな湧き水のやうに、メロディーがゆつたりと流れ出す。如何にも自然だ。自然だが淡泊なのではない。實に豐かに滿されてゐる。
歌つてゐる。本當に豐かな歌だ。だが歌ひ込んでゐるのではない。それは留めやうもなく、流れてゆく。意味も思ひも含まない。とにかく比類なく美しい流れが、流れてゆく。
ティーレマンが歌つてゐるのではないやうだ。では、彼はオーケストラを歌はせてゐるのか。それとも、どうも違ふ。
彼らが歌はうとしてゐるのではなく、彼らを通じて無心の歌が流れ出してゐる。自然の風景が、一切自己など主張しないのに、彼らからまばゆいばかりに無限の色彩美が溢れてくるやうに。
さう、ティーレマンとオーケストラは、自ら歌ふのではなく、共に待つてゐるのだ。そして慈しむやうに眺めてゐるのだ。
だが何を? 彼らの音によつて歌が促され、會場の隅々までゆつたりと滲透してゆくのを。
それならば歌ふ主體は誰なのか?
おそらく誰の歌でもない。確かにそれはブルックナーの歌であり、オーケストラの團員が心を籠めて自分の歌に温めて、會場に解き放つたものではある。だが、個人的な歌ではない。自然が歌ふ歌を、ブルックナーが孤獨な靜かな時間の中で、神との對話を通じて寫し取つた、さういふ無垢な歌に、己の歌を歌はせるためには、歌ふ主體があつてはならない。だから、ティーレマンは待つのだ、ベートーヴェンやブラームス、ヴァグナーの場合と違ひ、ブルックナーの場合には。(この項續く)


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