ザ･クラシック評論:ウィーン国立歌劇場

ウィーン国立歌劇場

2008年11月14日

小澤＝ウィーンの《フィデリオ》（３）小川榮太郎

（承前）大きな問題とは、かういふ事だ、つまり、ひよつとすると、こゝには、純粹な意味での小澤氏の指揮者としての技倆を超えた、日本人のオペラ指揮の今後の課題が露呈してはゐなかつたであらうか。そもそも、小澤氏が、通常のコンサートレパートリーとしてのレオノーレ序曲第3番を纏められないやうな水準の指揮者でないのは、私も承知してゐる。小澤氏を聽く事は殆どないが、以前、齋藤記念オケとの、極めてきちつと纏まつて、響きも充實した《第９》のＣＤを聽いて、感心した事がある。今日のやうな慘事とは、まるで次元が違ふ出來榮えだつた。
すると、今日の上演は、何だつたのか。……小澤氏を、音樂をスコアの解析に還元して、客觀的な美として提出する立場を堅持した上で、その餘は、情熱で補ふといふタイプの指揮者だと言つても、さほど間違ひではないだらう。この點に關しては、以前、遠藤浩一氏の小澤征爾論を、角南君が論じた處が、正確な議論だと思つたから、讀者には、御面倒でも、それを讀んでいたゞければ幸ひだ。なるほどかうした小澤氏の行き方は、スコアの複雜な處理が求められるやうな場合には、オーケストラにとつて、教育的で親切だと言へるし、ドイツ主流レパートリーでは、感情的な昂揚の要素を前面に出す事で、聽衆を喜ばせる事も出來るだらう。その基礎にあるのは、明快な指揮の技術と耳で、管弦樂の解析と、その取り纏めの高度な能力が、氏の世界的な成功の根據となつた譯だらう。
だが、この行き方では、音樂は、純粹に音響的な事象と情熱とに還元され、單純化されてしまひもするだらう。氏が、さうした行き方のまゝ、慌たゞしいキャリアを築き續け、つひに、オペラの殿堂の頂點に立つてしまつた時、氏の人生に於て、綜合的な文化の素養の中で、音樂を捕へたり、音樂の意味を深めるといふ成熟の時間が、事實上、なかつたのではなかつたらうか。そして、オペラ指揮、それもウィーンのやうな場所でのオペラ指揮―それも音樂監督である！―では、氏のやうな單純明快過ぎる音樂理解、或いは音樂との關はり方は、致命的でなかつたかと、私は訝る。文化や言語への不十分な理解は、オペラ指揮者としての信任に、根本的に關はるだらうからだ。その爲、監督といふ稱號ではありながら、結局は、團員の信任を得られぬまゝ、こゝまで來てしまつた結果が、今日のひどいアンサンブルだつたのではあるまいか。
無論、信任不信任などといふ話になれば、これは政治的にも、人情の上からも、デリケートな問題なので、以上は、私の放言に過ぎない。だが、今囘の來日で、當初豫定されてゐた演目を考へると、この放言は、あながち、たゞの出鱈目とは言ひきれなくなるだらう。結果として、小澤氏の《フィデリオ》とムーティの《コシ》に落著いたものゝ、豫定では、小澤氏に託されてゐた演目は《イドメネオ》であり、相方は、ムーティではなく、ティーレマンの《マイスタージンガー》だつた。ギャランティーの問題で、ティーレマンの來日が不可能になり、差しへられたのが、今囘のプログラムだつたといふのが、主催者の説明だつた。この當初のプログラムでは、どう考へても、目玉はティーレマンのヴァグナーにあり、現音樂監督小澤氏は添へ物にしか見えない。假に音樂監督がフルトヴェングラーやカラヤンだつたとして、來日公演で、彼らの方が《イドメネオ》で、相方の若造に《マイスタージンガー》なんて事があり得るだらうか？

今囘一緒に來日したムーティは、私は評價しない指揮者だが、プログラム中のインタビューで、《コシ》のレチタティーボの重要性から説き起し、オペラでの「歌詞」の、決定的な役割を強調してゐた。如何にも當然の發言だらう。ティーレマンは、自分が振るオペラの歌詞は全て暗誦してゐるといふ。この純血種のドイツ主義者にして、イタリアオペラでさへ丸暗記だと聞いた時は、驚いた。クラシカジャパンのドキュメンタリー番組で、プラシド・ドミンゴが、練習指揮者時代のティーレマンの逸話を話してゐた。確か《パルジファル》のピアノパートをティーレマンが彈いてゐたのだが、ピアノの譜面臺を覗いたら、そこには全く違ふオペラの譜が置いてあつたさうだ。《パルジファル》如きは、空で覺えてゐて、どこでも彈けてしまふので、合間を偸んで別の曲を勉強してゐたといふ譯だ！昨年の來日公演で、バレンボイムは、《ドン・ジョヴァンニ》《トリスタン》《モーゼとアロン》（！）を全て暗譜で指揮してゐた。歌唱パートの暗譜は、當然、歌詞に及ばねば、意味がないのだから、バレンボイムは、スポーティーな意味で暗譜をこなしてゐたのではなく、言語の側からも、徹底して作品を消化してゐた事を、これは示す筈だ。
オペラの暗譜指揮が絶對的にたゞしいと言つてゐるのではない。（フルトヴェングラーは、それを不要であり、危險だとして却けてゐた。）たゞ、一流のオペラ指揮者には、單なるスコアの解析者以上の能力、端的に言へば、文藝批評家としての第１級の作品の讀みも又、要求されてゐるのだといふ事を、言ひたいだけだ。第１級のオペラ指揮者は、優れた文學解釋者でもあり、優れた人間通でなければならない。それには、音樂的な解析と同等に、文學的な掌握もなければならないし、その消化の程度は、凡そ徹底したものでなければ、オペラの音樂的な充實を支へるのは、本來、困難な筈だ。さうした作品の咀嚼力が、オペラ指揮者の、現場の信任を作る。オペラ小屋での現場感覺と言はれるものの實態は、この文學的な素養と深く關はつてゐる筈だらう。現場の人間が、そんな言ひ方をしないのは、文學的な理解などと氣取つた言ひ方を嫌ふ、獨特の反インテリ氣質によるものに過ぎないだらう。トスカニーニやクナッパーツブッシュのやうなオペラ小屋の偉大なる親方が、俺は文藝評論家だなどと言はないのは、當然だが、だからと言つて、彼らが、現場を支へる強烈な放射力の由來は、オペラへの文學的な理解の深さにも與つてゐるのは、間違ひないからである。
私の臆斷では、オペラ指揮者としての小澤氏には、さうした面が餘りにも缺けてゐたのではあるまいか。

だが、それならば、これは、小澤氏一人の個人的な資質の問題ではないだらう。戰後日本の文化力全般の、底の淺さの問題と言ふべきだらう。日本の音樂教育に、文化理解への脈絡が缺けてゐるばかりではない。そもそも、現代日本の高等教育には、さうした多領域の文化への、とりわけ文學といふジャンルへの、喜びと敬意に滿ちた探究の促しが、全くない。現代日本人の、文學的素養は、極端に缺落してゐる。今日知識人の會話でさへ、文學上の重要な古典が全く潤滑油の役割を果たせてなくなつてゐる。ハムレットや源氏、漱石でさへ、會話に用ゐれば、かへつて座が白けるやうでは、オペラもへつたくれもありはしない。それに又、オペラを消化する以前に、歌舞伎十八番さへ、日本の教養人の文學的な素養からすつぽりと缺落してゐるのが、實情である。吉田健一が、「比較文學といふ言葉が最近流行してゐるが、さういふ言葉を使はなくても、文學について考へれば、それは比較文學になる。」と書いたのは、昭和３０年頃だつたらう。それから半世紀、今日の日本では、比較文學といふ言葉は大學での市民權を得たが、知的日常の風景の中での比較文學は寧ろ亡びてしまつた。
幅廣く、文學上の古典を讀み味はふといふ喜ばしく、また、刺激的な習慣が行き渡つてゐない社會から、優れたオペラ指揮者が出るのは、如何にも困難だらう。オペラは音樂に織りなされた、文學的な夢だ。ヴァグナーは、勿論、優れた劇作家であり、本人は音樂家といふよりも、自分を詩人だと考へてゐた。ヴェルディの作品の最大の素地は、シェイクスピアの熟讀であつた。今日、オーケストラ指揮を目指す日本の音樂學生が、スコアの解讀よりも、シェイクスピアに夢中になる一時期を持つことはあるのだらうか？さういへば、これ又、クラシカジャパンの《ティーレマンと子供たち》といふドキュメンタリーで度膽を拔かれた事がある。十歳前後の子供たちと、ティーレマンが、音樂を巡つて會話するのだが、何と、この子供達、《トリスタン》の２幕の、“愛の二重唱”に、死の豫感があるか否かを論じてゐたのである！性愛の何たるかを知らぬ癖に、生意氣なガキだと言ふ前に、生意氣なガキを生めない我が社會の貧しさを歎く、素直さを持ちたいものだ。
橋本左内（寫眞）が《啓發録》を書いたのは、15歳の時である。帝大生小林秀雄青年が、少年大岡昇平のフランス語の家庭教師で、文法の前に、いきなり講讀に使つたテキストは、ヴァレリーだ。こんな種類の逸話は、我が國にも、大日本帝國時代までなら、幾らでもあつたのである。大人と看做せば、子供は大人になる。子供を大人と遇せない弱さが、こゝまで貧弱な文化小國を作つてしまつたのか。易しく、解り易くと、離乳食にもならないやうな齒ごたへのない文章を與へて、子供子供とあやしながら育てれば、どんな利口も馬鹿になる。
……いやはや、話が、現代日本の文化論に及んでは、さすがに氣恥かしい。この邊りで、筆を擱く事にしたい。（この項了）

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2008年11月13日

小澤＝ウィーンの《フィデリオ》（２）小川榮太郎

（お斷り）私の記事の繼續性を配慮して、角南君―非常に親しい間柄なので角南氏といふ他人行儀は、書いてゐて氣はづかしい。以後、角南君と書く事にする。―が、ご自身のグルベローヴァの評論を、私の前囘の小澤＝ウィーンの《フィデリオ》の下に置いてくれた。最新記事を追つて讀んで下さつてゐる方は、讀み落しされるかもしれない。遡つて、角南君の原稿を一讀下されば、幸ひと思ひ、始めに一筆しておきます。

（承前）以上、今囘も話が脱線したのではなく、これこそが、今囘の本題である。以上のやうな歴史の大海を泳いでゐるといふ自覺、その榮光と悲慘とが、ベートーヴェンの音樂、就中《フィデリオ》のリアリティを支へてゐたエートスだとすれば、今日それはどうなつてゐるだらう。政治の巨惡は、大衆の心の闇といふ微細な惡へと擴散的に解消してしまつた。今日先進諸國では、政治は巨大な惡を構成する、抵抗の對象ではない。現代の政治＝經濟は、誰にも反對出來ぬ人間の慾望の、廣域な達成の爲の手段といふ裝ひで、私どもを内面から犯す。人々は、自分の心の中の惡が、政治的に容認されてしまふ事で、抵抗の根據としての、理念としての自由への、純潔な確信を持てなくなつてゐる。慾望を刺激させられ續けた大衆は、鼻先でそれを擽られ續けてくれるシステムの合理性には、抵抗し得ない。彼に出來る事は達成者になるか、落伍者になるといふ事だけだ。暫く前、勝ち組、負け組といふ淺薄で嫌な言葉が世を風靡したのも、その爲であつたらう。その意味で、精神的な領分を捨てて、金に賣り渡したのは、私たち一人一人であつて、政治に強制された譯ではない。互ひの慾望を誘導し合ふといふ社會構造の大空母に、私たちは皆、自ら、乘つたのだ。
かくして、榮光ある政治犯は、現代先進國ではあり得ない。性犯罪者や詐欺犯や收賄犯に成り下がる他はない。フロレスタンが、癡漢の常習犯や詐欺犯では樣になるまい。だが、現在の日本を見れば、檢察、警察とメディアとは殆ど一體化して、恐らく、抵抗の思想も言葉も、政治的行動も、社會からは實態が見えぬまゝ、揉み消されやう。逮捕された段階で、事實上の社會的劣惡漢だと決め付けられ、それを誰も疑はないといふ、心理上のデモクラティック・ファシズムが、現に實現されてしまつてゐるのだから。
ヨーロッパの實情は知らない。だが、最近のヨーロッパ人の《フィデリオ》を聽く限り、彼らも、又、この音樂に籠められた、抵抗を信じる者の斷乎たる純潔の物語への共感には、最早生きてゐないのではあるまいか。
もつとも、今日の公演が、日本人のものなのか、ウィーン人のものなのかは、よく解らない。と書いてしまつた事で、私は、辛い地點に辿り著いてしまつた。演奏には觸れたくない氣持があるからで、それは、必然的に小澤征爾氏を批判する事になつてしまふからだ。いつも云ふやうに、私は人の仕事を批判する事で、奇妙な優越を味はひたいのでも、又、自分とは別の考へ方をする人を不快にさせたい譯でもない。この稿でも、演奏評から逃げる事も考へた。
だが、小澤氏は“大物”である。しかも、現在、音樂評論の世界は、殆ど業界保護團體と化して、批評を抛棄してゐる。日本の業界評論家達は、今春の、東京オペラの森での小澤氏の《エフゲニー・オネーギン》、あの劣惡極まるオケのコンディションと指揮さへ、襃め立ててゐたくらゐである、恐らく、音樂雜誌は、今度も、氏に對する批判を載せないだらう。
個人的な評價を抛棄すれば、それは如何なる意味でも、批評ではあり得ない。襃める對象のみを選ぶのは批評の自由だし、又、或る對象の美點を努めて發見しようとするのも、批評の自由である。だが、今日、日本の音樂評論界を領してゐるのは、批評の凍結であり、“大物”や“スター”には無難な贊辭を捧げるといふ暗默の了解である。
さうした状況が蔓延してゐる以上、私が、今、小澤氏への批判の口を緘する事は、寧ろ、批評家の良心に反するであらう。
それにしても！日本の音樂批評もかつては論爭的で、健全だつた。私が子供の頃は、吉田秀和、遠山一行、野村光一、大木正興、福永陽一郎、宇野功芳などの各氏を始め、皆、云ひたい事を、文章力の差はあつても、それぞれ堂々たる日本語で發表してをられたものだ。それが最近はどうだ。いつの間にか、音樂界からは、批評の聲はすつかり消え、情報通のレポートと、大本營發表ばかりが跋扈してゐる。さもなければ、オタクのお喋りだ。近年では、吉田氏は温厚な微笑を浮かべながら、綺麗な批評しかお書きにならないし―年齡から當然だし、それはそれで勿論立派な事だ―、宇野氏の判斷は、最近、亂暴に過ぎ、疑問を覺える事が餘りにも多くなつた。遠山氏もお書きにならなくなつてゐる。日本の音樂批評に、品格のある論爭の時代を再びとの思ひは切である。（念のために補足しておくと、音樂學の優れた仕事がある事は評價してゐる。例へば、『レコード藝術』が本格的で立派なショスタコーヴィチ、シェーベルク論の連載を續けてゐるのは立派と思ふ。）

だが、それでもなほ、小澤氏の立場への敬意と斟酌の氣持がある事は、言つておきたい。小澤氏は、ウィーン國立歌劇場といふ魑魅魍魎の住む伏魔殿で、世界の頂點を極めた人だ。日本人として、それがどれ程ハンディキャップの多い孤軍奮鬪であつたかは、想像を絶するだらう。コンサート指揮者として有能だつた小澤氏だが、オペラの場合は、言葉から文化慣習の問題まで含め、管弦樂の指揮とは、話はまるで違つてくる。氏のウィーンでのキャリアは、榮光の喜びより苦しみが大きかつただらうと、想像してゐる。そして、その苦しみと、その中でキャリアを保持した氏の功績は、藝術政策上、日本人音樂家の世界進出にとつて、貴重な經驗であつたらうと考へたい。さうした側面からは、私は氏を評價してゐる。
だからこそ、終演後、小澤征爾氏に捧げられる大きな歡聲に、私は、複雜な思ひを味ははなければならなかつた。それは一方では奇妙な安堵であり、一方で、しかし、こんな事でいゝのかといふ、ある種辛い感情である。私は愛國者だし、今述べた理由からも、日本で氏の公演が好意的に迎へられる風景を見るのは、不愉快ではない。だが、私の耳が間違つてゐなかつたとすれば、今日の公演の足を引つ張つてゐたのは、正しくその小澤氏の指揮だつた。
歌唱の水準は、フロレスタンのロバート・ディーン・スミスとレオノーレのデボラ・ヴォイトを筆頭に、國際的にも極めて安定した高いレベルにあつた。彼らは單に歌がうまいといふ以上に、歌唱で音樂の場面そのものを引つ張つてゆくだけの、音樂的求心力を備へてゐる。２幕のフロレスタンのアリアや、レオノーレの強い表現力は、今日最も聽き應へがある場面だつたらう。小澤氏指揮するウィーンフィルも、かういふ箇所では、濃密な伴奏を付ける。ところが、小澤氏の指揮が主導すべき場面になると、ウィーンフィルは一體どうしてしまつたのかと言ひたくなる程、だらけて、ばらばらなのだ。アンサンブルの纏まり、ホールトーンへの配慮、歌唱とのバランス、又、音樂の進行する方向やクライマックスなどが、私には、餘りにも見えてこない。混亂した印象である。オケのミスと音樂的な混亂とが耳について、音樂の方向を見失つてしまふ事が何度もあつた。小澤氏のベートーヴェンに感動出來ない事はあり得るにせよ、卒なく纏めはするのだらうと豫想してゐた私は、音樂の基本がこれ程こなせてゐないといふ印象は、實は、想像してゐなかつた。大分以前、ラトル指揮ベルリンフィルの《フィデリオ》が、同じ上野の文化會館で上演された時、貧血症の痩せ細つた演奏に閉口はしたが、こんな統率力不在の混亂はなく、彼の明晰なコントロール下にオケはあつた。
今日のオーケストラパートには、音樂に、奇妙な崩壞感覺が付纏つてゐた。腹立ちよりも、悲慘さを感じたのは、私の感傷なのであらうか。だが、フィナーレ前のレオノーレ序曲第３番の熱のなさは、私には、ショックだつた。２幕は全體に、オケも調子を上げて來てゐるといふ手應へがあつたので、そのまゝ、昂揚した―標準竝みの―レオノーレ第３番くらゐは聽けるかといふ期待が芽生えかけてゐたからだ。それがどうだらう、まるで、こゝだけが、陷沒したやうに空疎だつた。一體、どういふ事なのか？
何も、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュの名前など出さずとも、現在のコンサートで、今日のよりはましなレオノーレ序曲は、幾らでも聽けるだらう。最初の和音の中身の詰つてゐない響きにまづ驚いた。プログラム冒頭ならば、オケが暖まつてゐないのは仕方ないが、こゝまでの音樂を演奏してきて、何故これ程、熱さも、響きの注意深い纏まり感もない音を出せるのか。その後、靜かに木管が音階を下降する箇所からして、先日、クラシカジャパンで聽いたバレンボイム指揮ウェスト＝イースト＝ディヴァン管の注意深い響きや和聲感とは比較にならない。どこに行く當てもないと言つた風情の、何とも頼りない進行振りである。その後も批評の必要のないダラダラした演奏が續く。何とも鳴りが惡い。とにかく、反應が鈍い。アンサンブルの熟成感がない。音樂の先を自分達の嗅覺で讀んでゆかうといふ自發的な意志が、オケに感じられない。これは無意識なのか、それとも彼らの小澤への意識的な輕侮によるのか。
先日、ムーティの《コシ》では、最初アンサンブルに締りのなかつたオケも、後半は、決め所は決めて、冱えた音、モーツァルトらしい音がしてきて、ほつとしたものだつたが、今日は、この期に及んでさへ、何とも下手糞に聽こえるのである。よく日本の批評に見掛ける縱の線が合ふ合はないといふ次元ではない。響きも音樂的な方針も、全て、ばらばらなのだ。
次のフィナーレは救ひだつた。國立歌劇場の合唱がさすがに骨太な昂揚感で、辛うじてベートーヴェンを聽いたといふ充實の氣配を齎してくれたからである。演出と舞臺も大變良かつた。今囘は、《コシ》《フィデリオ》ともに傳統的で穩健、しかも豪華な演出で、しかも、いつぞやのメトの《ヴァルキューレ》のやうに黴臭くはない。批評家を挑撥する面白さなどに心を勞する事のない、大人の仕事であり、本物の舞臺のプロの仕事である。
……少し問題を大きくとらへて考へたい事が出て來たので、豫定を超えて、もう１囘、書き繼ぎ、次囘で稿を閉ぢたいと思ふ。（この項續く）

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2008年11月10日

小澤＝ウィーンの《フィデリオ》（１）小川榮太郎

ベートーヴェン作曲：歌劇《フィデリオ》ウィーン國立歌劇場管弦樂團、合唱團指揮：小澤征爾演出：オットー・シェンクフロレスタン：ロバート・ディーン・スミスレオノーレ：デボラ・ヴォイトロッコ：ヴァルター・フィンク他（11月1日於神奈川縣民ホール）

聽きながら、又、聽き終へてからも、ベートーヴェンの音樂のリアリティが、現在、著しく乏しくなつてきてはゐまいかといふ、私の年來の淋しさを、反芻してゐた。ベートーヴェンの音樂は、長年、誰の音樂よりも私に近づき、その強い膂力で、全身を浚つてくれるものだつたが、今日のそれは、ずゐぶん遠くで鳴つてゐて、私には、直かな體温が感じられなかつたからだ。
《フィデリオ》は、ベートーヴェンの作品の中で、私には、昔から、充分な共感を覺えにくかつたから、そのせゐもあつたのであらうか。だが、その一方で、フルトヴェングラーのレコード―彼のベートーヴェンの中では、評判が良い方だとは云へないが―の、歌心に心燃燒しながら、聽き入つた記憶はあるのである。今日に限らない、近年の上演で聽く《フィデリオ》が、殆どいつも寒々しく響くのは、どうしてなのだらう。
急いで付け加へれば、私の隣の方は、フィナーレで感涙を流してをられたやうだつた。私が、これから書くことになるかなり手嚴しい感想が、公正だと云ふつもりはない。大昔、カルロス・クライバーの《第７》を人見記念で聽き、私が涙を流してゐた時、斜め前の男性は、鼾をかいて寢てゐたものだ。藝術の批評は、いつだつて、不確かな主觀を通じて、經驗の、意味ある分析に至らうとする隘路に過ぎない。

かつて、《フィデリオ》は、ヨーロッパ人にとつて、自由といふ理念による、精神的昂揚の、極めて大きな支柱であつた。ナチスドイツに占領されたウィーンで、フルトヴェングラー指揮の《フィデリオ》を聽いた渡邊護氏の文章を讀んで、感動した事がある。今、その文章が手許になく、記憶だけで書くので、間違つてゐるかもしれないが、氏は、聽衆は皆、《フィデリオ》が抵抗の音樂である事を知つてをり、特に囚人の合唱の場面では會場から啜り泣きが起つたと、書いてをられた筈である。その自由への熾烈な思ひに、會場は強く一體化したといふ。
この囚人の合唱に就ては、戰後1950年のフルトヴェングラーの指揮も素晴しい。不完全な音のレコードでも確認出來るし、生演奏を聽いた人の感動を讀んだ事もある。いづれにせよ、こゝに《フィデリオ》の主題の中心があるのは間違ひない。オペラにさうした“主題”を持込んだのがベートーヴェンの失敗の原因だつたと云へるかもしれないが、しかし、實際に出來上つた《フィデリオ》を積極的に評價しようと思へば、囚人の合唱の崇高な悲痛のリアリティに、中心を見ない譯にはゆかないだらう。こゝを缺いてしまへば、フィナーレの昂揚は、賑やかで單調なお囃子に過ぎなくなる。囚人の合唱とフィナーレの、それぞれ強大な感情上の緊張に掛けられた巨きな橋が、《フィデリオ》といふ作品なのだ。
グスタフ・マーラーが、フィナーレの前に、《レオノーレ》第３番を插入した時に考へた事も、その事だつたであらう。マーラーは、おそらく、このオペラの、政治的拘束から、完全な自由への飛躍に、充分な納得と反芻の時間を與へる事で、その飛躍の表現の強度に、聽衆が耐へられるやうにと、《レオノーレ》第３番を終幕前に置いた、私はさう理解してゐる。
先に紹介したフルトヴェングラーの1950年の上演は、傳説的な上演で、確かドナルド・キーン氏も、實際に聽いての生々しい感動をどこかに書いてをられた筈だ。氏とは別にも、フィナーレ前の《レオノーレ》第３番がをはつた時に、既に、拍手が何十分も鳴り止まなかつたと書いてゐる人さへある。それは、その部分の演奏が素晴しかつただけではなく、《フィデリオ》といふ作品全體の精神的な強度――極限的な抑壓から、壯大な解放へ――のリアリティが、フルトヴェングラーの上演によつて呼びさまされ、自分たちは、それを共有してゐるのだといふ聽衆の思ひが、餘りにも生々しかつたせゐでもあつたらう。
フルトヴェングラーといふ指揮者が、ナチスに屈伏した音樂家だつたのか、それとも抵抗した音樂家だつたのかといふ不毛な問ひは、彼の歿後半世紀を過ぎた今でも、依然として、世界中でしばしば議論されてゐる。これが不毛だと私がいふのは、20世紀の戰爭と政治に對して、犬死にをしない抵抗など、―ハリウッド映畫の中ででもない限り―誰にも不可能だからだ。付け加へれば、犬死さゝれる前には、悲慘な各種の拷問の責苦があり、家族の破滅もあるだらう。さうした全ての、單純で絶對的な悲慘さを賭け金にしない抵抗など、どう考へても不可能だらう。20世紀型の全體主義に抵抗せよと他人に要求するのは、自分の血を一滴も流さぬまゝ、他人に向かひ、どんな拷問にも耐へた擧句犬死にせよと、要求するのに等しい事だ。だが、他人にこんな要求を平然とするのは、全體主義が非人間的であるのと同じくらゐ、非人間的な振舞ひではあるまいか。
1950年に《フィデリオ》を指揮するフルトヴェングラーに喝采してゐた人々を批判するのも、同じやうに易しい。諸君は、５年前まで、ナチスを默認し、ユダヤ人の殲滅を默認し、諸君の中の或る者は、ナチスに共感してゐたのではなかつたのか。收容所で死んでいつた人々は、諸君のやうに、解放を味はふ事もなかつた。戰後に《フィデリオ》を聽く事だつて出來ずに、悲慘な死に方をしたのだ。それもこれも、諸君皆の勇氣が缺けてゐたからではないのか。かうして《フィデリオ》で、今更のやうに解放を歌ひ上げ、喝采を送るのは勝手だが、諸君の中に、誰一人レオノーレがゐなかつたのはどうした事だ。實人生でレオノーレたらうとしなかつたあなた方が、他人樣に解放してもらつた擧句、《フィデリオ》に醉ひしれるのは、笑止千萬ではあるまいか？
その通りだ。笑止千萬な話だらう。だが、笑止千萬ではない人生が、それならば、どこにあるといふのか。アメリカに亡命したトーマス・マンやアルトゥーロ・トスカニーニが、それだけでヒューマニストとしての免罪符を入手し、その事に道徳的躊躇を感じる處か、その免罪符を得々と拜領してゐるといふ能天氣振りは、笑止千萬である上に、醜態ではなかつたのか。しかも話はややこしい。私は指揮者トスカニーニの途轍もない偉大さを疑ひ得ないし、作家マンは、二十世紀で最も私の尊敬する作家の一人なのである。體制内での抵抗は極度に困難だが、亡命が、より正しかつた譯でもない。自分が、當時の状況に置かれたら、亡命先で、マンのやうな強者のヒューマニズムを振囘したであらう可能性は低いが、それは自分が彼程強者ではあり得ないといふ單純な理由に基くとしたら、彼らを論ふ私も又、笑止千萬の沙汰なのである。……
ユダヤ人の殲滅といふ強烈な“惡”の前に抵抗できる道はない。共産全體主義の惡が、今から20年前に自壞したのと同樣、ナチスも自壞したので、自壞の前に體制内に強烈な抵抗があつて、自壞が促されたのでもないし、又、ナチスを打ち破つた連合國の側の政治的立場が、正義だつた譯でもない。人間の惡は、まことに計り知れない。
私の信ずる偉大な藝術は、人間の善に光を當てる。ゴヤやドストエフスキーでさへも、そのフォームへの明澄な意志によつて、人間の善性への強烈な囘歸が目論まれてゐると、私は受け取る。だが、それは現實からの避難ではない。精神の王國を信じなければ、人生は慾望と惡に汚れてをはるだけのものだ。だが、大多數の人間は、汚物の中で、慾望と怨嗟と暴力の中でなど、生きたくはないだらう。藝術は、さうした人間の中の、善への、平安への懇願といふ心の働きと切り離せない。（誤解されてゐるのとは違ひ、フロイド、バタイユらのやうな「解體的思想家達」でさへ、明らかに、この人間的な善の再建を試みた人達であつた。善への堅牢な接近を意圖した爲に、どんな反論も許さぬ土臺を作らうと考へた擧句、逆に、善の土臺を破壞する流れを加速させてしまつたのが20世紀前半までの重要な思想だつた、私は簡單に言へば、さういふ理解をしてゐる。）（この項續く）

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芸術に感動するということ――グルベローヴァの「ロベルト・デヴェリュー」／角南敬

　その声は決して「美しい」という言葉が適切ではなかったように思いました。美しい、というよりも鬼気迫る声。愛する男ロベルト・デヴェリューの心を他の女に奪われた一人の女、その一方で、国家の反逆罪を問われたその男に裁きを下すことのできる、絶対権力を持つ「女王」でもあるエリザベッタの怒りと葛藤――その凄まじい情念が乗り移ったかのようなグルベローヴァに、私は圧倒されてしまったのでした。そしてクライマックス。ロベルトの死刑執行を知り、狼狽し、狂乱するエリザベッタ＝グルベローヴァが“王位をジェームズに！”と絶唱したその瞬間、私の目には、熱い涙がこみ上げてきたのでした。
　人はなぜ芸術に感動するのでしょうか。美しいから、それとも巧みな技巧に圧倒されるから、それとも…否、それは高貴な精神に打たれた時、と申し上げたい。グルベローヴァを聴いた今、私はその意味を知ったように思います。
　繰り返しになりますが、グルベローヴァの声は心地よい、うっとりするような美しさでは決してなかった。コロラトゥーラ・ソプラノという紋切り型で片付けられるような、技巧だけの声ではなかった。鬼気迫る――それは隣に座っていた方もおっしゃっていたから、そう聴こえたのは私だけではありますまい――ベルカント＝“美しい歌”というイメージからは想像もつかない声。否、単なる美しさや華麗さを超えた、真に迫る声。これこそが芸術の至高の姿なのだと。そしてそれに触れた時の衝撃。あの瞬間を思い返えせば、芸術とは何か、という命題にもっと真剣に迫らなければならない、と申し上げずにはいられないのです。
　技術について言えば、音程や発声法など、衰えた部分もあったのかもしれない。しかし、それでは言葉足らずです。グルベローヴァはその技量も素晴らしいのでした。舞台上の他の歌手も美しさや魅力は充分でした。しかし、エリザベッタ本人そのものとしか言いようのない真に迫った凄み、演技と声色、表出力が一つになったグルベローヴァの歌唱は、小手先の技量では到達できないものなのでしょう。そのうえで、東京文化会館の空間全てを声で満たしてしまったかのようなあの響き。それは今まで私が生で聴いたどの歌手よりも圧倒的だったのです。
　グルベローヴァの話ばかりになってしまいましたが、この日（2008年11月８日）の公演は、他の歌手も水準以上であったと思わせる出来で、さらに、ムーティとの来日公演では“がさつ”に聴こえたウィーン・フィル＝ウィーン国立歌劇場管弦楽団も素晴らしかったのでした。例えば、ロベルトと彼が思いを寄せていたサラとが出会うシーン（第１幕第２場）の弦楽器の甘美な調べなどとても魅力的で、かつ情景に適切な音楽を奏でていました。もっとも、演奏会形式というものはおそろしいもので、途中、フルート奏者同士が険悪な表情を見せるなど、“普段着”の姿が垣間見られたのはご愛嬌というところでしょうか。指揮者のフリードリッヒ・ハイダー（グルベローヴァの夫君らしいのですが、パンフレットにその旨紹介がなかったのはなぜでしょう）も、“夫婦愛”の賜物か、歌手を上手くサポートしていたように思います。この日は観客の反応も熱狂的で、オーケストラがはけた後も、絶えることなく拍手が続いたのでした。これほどの名演を３階真正面という特等席（隣の方は“天井桟敷だ”なんて嘆いていたけどとんでもない！）で聴けると、正当な対価を支払うことの喜びを感じるものです。
　そしてこの「ロベルト・デヴェリュー」というオペラそのものの魅力。これほど緊張感の高い作品が存在することを知ったのは、大きな収穫でした。ベルカント・オペラという表現だけでは物足りないような、人間ドラマを強烈に歌に昇華した作品のように思うのです。もっとも、このエリザベッタを演じるためには、グルベローヴァのような円熟した年齢、というのも必要なのかもしれません。なぜならば、エリザベッタ自身、若い女王ではなく、退位を決断せずにはいられないほどの高齢なのですから。
　しかし、あらためて思うのです。女の情念というのは、かくも技巧を超えた空前絶後の声で表現せずにはいられないものなのか。「魔笛」の“夜の女王”しかり、ルチアの狂乱の場しかり――嗚呼、何と強烈な――女の情念の美しさ、素晴らしさ、畏ろしさよ！

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2008年11月02日

グルベローヴァの“壓勝”小川榮太郎

ガエターノ・ドニゼッティ《ロベルト・デヴェリュー》ウィーン國立歌劇場管弦樂團、合唱團指揮：フリードリッヒ・ハイダーエリザベッタ：エディタ・グルベローヴァサラ：ナディア・クラステヴァロベルト：ホセ・ブロスノッティンガム公爵：ロベルト・フロンターリ（10月31日於東京文化會館演奏會形式による）

私の音樂上の神々は、バッハ、ベートーヴェン、ヴァグナー、ブルックナーで、司祭は、フルトヴェングラー、チェリビダッケ、バレンボイム、ティーレマン、……云つて見れば、私は、その敬虔な僕に過ぎない。この言ひ方には無論誇張があるにせよ、しかも、グルベローヴァがどれ程優れた歌手であるにもせよ、ドニゼッティの演奏會形式の上演で、Ａ席49000圓といふのは、二の足を踏んだし、氣乘りはしないまゝ、聽き始めたといふのが、正直な處である。だが、聽きをはつてみれば、この數年の來日オペラの中でも、昨年のバレンボイム＆マイヤーの《トリスタン》以來の、偉大な音樂經驗だつた。會場の反應も、この２上演が、他を壓してゐたし、それは當然の事だらう。
一にも二にもグルベローヴァが超絶的に素晴しい。彼女が立つことで、音樂には途端に、炎が燈り、芯が通る。ハイダーが日本ではマイナーな指揮者だからと云ふことではなく、どう不注意に構へてゐても、グルベローヴァにしか、眼も耳もゆかない。求心力といふのは、眼ではつきり捕へられる具體的な力である。昨年のベルリン國立での求心力が、完全にバレンボイムにあつたのが、誰の眼にも見えたであらうやうに、今日の求心力は、壓倒的にグルベローヴァにある。彼女が、音樂的現象の中心に立ち、全てはその強烈な磁場の圈内での事件のやうにしか見えない。
實は、事前に、ＮＢＳから配られてゐた情報紙で、ウィーン在住の山崎睦氏が、最近ウィーン國立歌劇場に登場したグルベローヴァに就て、「驚異といふ言葉を奇跡に變へても良い、とにかく壓倒的なエディタ・グルベローヴァに客席はグーの音も出ず、完全にノック・アウト状態だ。」と書いてをられたのを、讀んではゐたのだが、眉に唾を付けてゐたのである。ところが、今となつては、私こそが、「山崎氏の言葉に何も付け加へる必要はございません」と云ふ以外、グーの音も出ない始末である。まだ、今のグルベローヴァを聽いてゐない方！以下を讀む暇があつたなら、何とかして、チケット入手に奔走されては如何だらう？《ロベルト・デヴェリュー》は昨日の段階で、殘席が20あるかどうか。しかし、オペラ・アリアの夕べもあり、値段はずつと安い。みなとみらいの公演に至つては、12000圓のＣ席も僅かながら殘つてゐるやうだ。繰返したい、今のグルベローヴァは、奇跡である、かつての彼女がさうであつた以上に。
《ロベルト・デヴェリュー》といふ作品自體の素晴しさを知つた事も、收穫であつた。イタリアオペラの中で、特筆すべき緊張度の高い作品であると思ひ、今まで全曲演奏を聽いた事がなかつた不明を恥ぢてゐる。岡本稔氏の解説には、今日の指揮者のフリードリッヒ・ハイダーの言葉として、「《エレクトラ》にも匹敵する程の凝縮度」との言葉が紹介されてゐる。さういふ言ひ方迄してしまふと、誇張のにほひが滲んでしまふが、充分レパートリーオペラ化に値すると斷じて構はぬ名作とは云へるだらう。
だが、それもこれも、エリザベッタにグルベローヴァを擁しさへするならばと云ふ事でないと云へるのかは、實は、解らずにゐる。さうなると、グルベローヴァの魔法の杖に觸れさへすれば、大概の作品は、傑作と化する、さういふ話になりはしまいか。いつも書く事だが、名作といふものはない、名演奏があるだけなのである。演奏の瞬間にしか音樂は實在せず、その時間の意味を決定的にするのは、演奏家の肉體だけだからである。
それにしても、グルベローヴァが驚異的な技術の持主で、還暦を過ぎた今日でも、コロラトゥーラの精妙さを維持し續けてゐるのは、噂には聞き及んでゐたが、生演奏で、これだけ全人的に迫りくる歌を聽かせてくれると迄は、正直に云つて思つてゐなかつた。
彼女のコロラトゥーラの、音程の正確さ、リズムがまるでもたつかない點、高音での強弱やニュアンスのコントロールの完璧さは、歴史上の大歌手たちのレコードを確認する限り、空前絶後のものである。その定説は、今夜も證明されたし、私の耳にもはつきりとゞく。年齡を考へれば驚異的なのではなく、年齡を考へずとも驚異的な事を、60代の歌手が、舞臺でやり遂げてゐる。だが、それで、彼女が、歌と言ふ營みをどう生き、どのやうなエリザベッタを現出させたのか、それこそは、音樂の體驗にとつて、遙かに大切な事だらう。
今日の感動の鍵は、その意味では、彼女の年齡にあつたと、逆に言ひたい氣がする。若い頃の彼女の歌が、私には今一つ好きになれなかつたのは、技術上の完璧さが、歌唱としての膨らみを疎外する程まで行つてしまつてゐて、精密な機械のやうに聽こえてしまふ場合がある點だつた。だが、今日私が聽いたのは、技術的な難題を最高度にこなす事が、同時に、音樂的な強度を飛躍的に高める事に成功してゐる、一人の大音樂家の藝術である。年齡と共に、技術的な課題を、正確に處理する肉體的な能力が低下するのは、彼女でも、他の歌手と變らなかつたであらう。その爲に、さうした技術上の課題を、以前よりも一層丁寧に、音樂的なイントネーションや強弱法、フレージングなどを、綜合的に勘案して、内からも外からも、あらゆる工夫の微妙な線の上を歩みながら、解決しなければならなくなつた筈であらう。今日の彼女からは、歌唱の技術的な課題の解決が、そのまゝ音樂的な意味を深める事になつてゐるといふ印象を受けた。その意味では、歌唱の充實は、グルベローヴァの超絶技巧といふ素材に加へられた年輪から來てゐる。グルベローヴァの、年齡との戰ひそのものから齎されてゐる。
最初のアリアで、既に、魔法の杖は振られた。１節として、月竝に流される箇所はない。フレージングとデュナーミクが完全に一體となつて、聲の美と、感情の表出の意表を出る斬新さの連續とは、麻藥のやうに效いてゐる。（かうブログに書いただけで、大麻關係の法律に引つかかりはしないだらうか。何しろ、近年の日本は尋常ではない管理社會、無言のマス・ファシズムめいた空氣が強くなつてゐる。たゞ、生きてゐるだけで、社會的に糾彈されたり逮捕され兼ねないやうな不氣味さが増してゐる。呼吸をするやうに他者との關係の距離を計れてゐた、それぞれが惻隱の情で、世の中を廻してきた日本人の美質を、どのやうなイデオロギーがめちやくちやに毀したのだらうか！例へば、船場吉兆のおかみの老後をぶつ潰す資格がある人間が本當にゐるのか。老骨を野に晒させる程の惡がそこに本當にあつたのか。國を擧げて非難する程の事であつたのか。人の人生など“正義”（？？？）の爲には踏み潰して構はぬといふやうな風潮が、結局は己自身を不幸にする事に、人々はいつ氣づくのか。この數日も、安全なカップ麺やら安全な瓶詰水といふイデオロギーの騷音が、メディア上を吹き荒れてゐるが、さうした一つ一つが、生き難い社會を作り續け、結局自分の首を締めてゆく事に、いつ人々は氣づくのか？自分が攻撃的なクレーマーになるといふ事は、廻り囘つて、職場や近隣付合ひで、自分が異常なクレームに苦しめられる事になる、單純な理窟ではないか。首相に、カップ面の値段を尋ねるやら、バー通ひを取上げるやらして、庶民感覺の缺如を難ずるに至つては、最早低能兒のダダである。やはらかさのない硬直した糾彈口調が、世の中に、どれ程、蔓延してゐる事か！人の微細な“惡”（？？？）をそこまで氣にする暇があるならば、自分の大腸菌の數でも氣にしてゐたらよからう！）

……味氣ない餘談になり、申し譯ない。しかし、私の生涯を振返つても、今日のメディアの釀し出してゐる程、日本が異常に攻撃的な社會であつた記憶はない。國民に垂れ流される言葉の暴力を思ふと、音樂も無邪氣には樂しめなくなる思ひである……

……ドニゼッティは、老女王エリザベッタ―エリザベスⅠの事である―の苦しい戀と、權力者としての威嚴、女の弱さ、さう云つた心の搖れを、綿密な書法で描き、餘す處がない。エセックスとサラの戀は、遙かに單純なベルカントで、魅力的だがすつきりと纏まつてゐる。ドニゼッティ自身、他のパートに較べ、老女王の造形に打込んでゐるのは、はつきりしてゐる。ハイダーが《エレクトラ》を持ち出しのは、この作の、さうした心理主義的な傾向が、エリザベッタに關しては、極めて前衞的なものだと言ひたいが爲だらう。グルベローヴァは、さうした複雜な、殆ど、瞬間に、怒りと愛慕とを行き來する動搖を、内部から噴出する炎のやうに歌ひ拔く。氣が附いてみれば、正確な歌唱などと云ふ話は、どこかに忘れて、たゞ、このエリザベッタの激情の嵐の、暴風圈に卷き込まれてゐる自分がゐる。こゝにあるのは、大藝術家だけが達成し得る、完璧なフォームである。徹底的に突き詰められたフォームを通じてのみ、初めて、人は、どこをとつても自在に波打つ感情などといふ化けものに形を與へる事が出來る。彼女の奇跡的な造形力は、「感じたまゝを表現すればいゝ」とか、「即興的な身體運動に無意識の人間が表現される」などといふ甘つたれた、根據のない“前衞”的藝術觀に對する、古典主義的な藝術制作の側からの、完膚無きまでの反論になつてゐると言へるだらう。極度に研ぎ澄まされたフォームが突き止めたのが、エリザベッタの“エス”ではなかつたとは、誰にも云へまい。極限的なリアリティは、フォームの表面に於てしか機能しない。
最終の、狂亂のカヴァティーナに就ては、口を閉ざさう。信じ難い光景だつた。最後の高音――絶對音感がない上、スコアも手許にないので、音高は確認出來ない―が囁くやうな透明なピアニッシモから始まり、オーケストラのトゥッティを背後に從へて、強烈なクレッシェンドへと高まる時、私に、茫然とする以外の、何が可能だつたらう？（この項了）

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2008年10月31日

ウィーン國立歌劇場來日公演モーツァルト《コシ・ファン・トゥッテ》（10月27日於東京文化會館）

（承前）
……先に、《コシ》が餘り好きでないと云つた。無論、この曲には美しいパッセージは澤山あるが、この作品には、モーツァルトの衰へも又、はつきりと聽こえてしまつてゐ、私には、少々痛々しさが強過ぎるからだ。私は近年のモーツァルトの神話化に、一向に同情のない人間である。素晴しい音樂、素晴しい人間、卓越した天才。だが、小林秀雄がスタンダールを引用して云つてゐるやうに、モーツァルトでは、「肉體の占める容量は與ふ限り少ない」と云ふのは誤りで、逆に、モーツァルトは、肉體的なコンディションが、極端な迄に音樂に反映する人なのではないだらうか。それ程、彼には、音樂が生理的なものだつたと云つてみてもいゝ。
例へば、バッハやハイドンの曲から、彼らの生活心情や健康状態が分る事は滅多にない。ベートーヴェン、ロマン派の作曲家でさへさうである。ハイリゲンシュタットの遺書を書いた時、ベートーヴェンは第2交響曲の活力に溢れたフィナーレを作曲してゐた。あれを遺書と呼ぶのは後世の誇張で、あゝして言葉を叩き付ける事で、自己を積極的に救つてゐた、それはさうに違ひあるまい。あれは、確かにくよくよした遺書などでは全くない。だが、モーツァルトならば、あゝした絶望に追ひ込まれた時、第2交響曲のやうな音樂を書きさうにはない。もつと、やはらかく己の絶望に寄り添つた音樂を書くだらうと思ふ。私は、モーツァルトの曲に、しばしば、生活上の充實や、生理的・心理的な不如意の深い表出を嗅ぐ。
例へば、彼は交響曲の39番、40番、41番のやうな對照的な曲想の音樂をほゞ同時に書いた。そこから、100人のこゝろを持つシェイクスピアのやうなモーツァルトといふ傳説が誕生する。しかし、この3曲は、同じ魂の告白――或る確かな成熟と、衰弱の豫感と、深く癒し難い處まで進行してしまつた悲しみとの入り交じりに、凝つと見入つてゐる、一人の男の獨白ではないのか。39番がギリシア彫刻のやうに晴朗で、40番が疾走する悲しみ、41番が、王者の威嚴。まことに然り。だが、そのいづれもが、降り積もる悲しみに笑つてゐる。邪心のない輝き、冬の日射に照された朝の海のやうな、感情の重たさのない靜かな悲しみに滿ちてはゐないであらうか。41番にさういふ悲しみを聽けない時、フィナーレのフーガの壯麗さとは、一體何であらうか。
《コシ》を、ダ・ポンテの臺本からオペラを分析して、面白い事を云ふのは、私にとつて赤子の手を捻るよりも易しい。例へば、プログラムに掲載されてゐる、岡田曉生氏の『いつ悲劇に轉落しても不思議ではない喜劇』は、さうした深讀みの典型である。このプログラムは全體に大變充實したものだし、岡田氏の原稿も、私には勉強になつたのだから、以下はケチを付けてゐるのではなく、異を唱へてゐるだけの事と受取つていたゞきたい。少くとも、專門家の蘊蓄は、批評家のお喋りよりは役に立つと云はれゝば、批評は、誰かの役に立つと思つて書いてゐるのではないなどと、白ばつくれる以上の智慧は、私にはなささうだからである。
その上で、あへて云ふのだが、岡田氏が、ラクロ『危險な關係』やゲーテの『親和力』を引用しつゝ、この作に、「戀愛遊戲がいつの間にか本氣になつていうことで生じる悲劇のカタストロフ」の感覺を見ようとしてゐるのは無茶だらうと思ふ。まづ、第一に、性に關しては、教會のタブーや、一夫一婦制への機知溢れる、或いは深刻な疑義提出は、ルネッサンス以後のヨーロッパ文學には、廣く見られる主題ではあるまいか。この時期のヨーロッパ文學の專門的な知識はないから、岡田氏が云ふやうに、この時期に、スワッピングが、ヨーロッパ文學の主題として特に際立つやうになつたと云へるのかどうかは、斷定できない。だが、假に岡田氏のその假定を認めるとしても、ラクロやゲーテの作に見られるやうなカタストロフの氣配は、このブッファにはまるでない。をはり近くなつての、男達の怒りにも、女たちの浮氣心と悔い改めにも、悲劇への豫感、眞實の感情の滾りが餘りにもなさ過ぎる。『危險な關係』は、本當に危險な物語なので、戀愛遊戲の一節一節でさへ、觸れると血が吹き出さうに生々しい。ゲーテは云ふまでもあるまい。
《コシ》には、臺本にも、音樂にも、さうした人性の傾向への、深い洞察や造形は讀み取れない。《ドン・ジョヴァンニ》《フィガロ》《魔笛》には間違ひなくあつた、音樂による人間性の洞察の魔法が、この作からは、痛々しい程、消えてゐる。夫婦交換譚のカタストロフへの深讀みなどよりも、私が、遙かに氣になることは、この音樂に聽き取れる、モーツァルトの、肉體と想像力の衰弱の豫感の方である。題材への眞の共感がモーツァルトになかつたからかとも思はれるが、さうだとすれば、それも又、彼の中で、或る衰へが進んでゐたといふ事にならないか。
その、内なる滅びが、本當に深刻になつた時、この天才は、自分の身を剥ぐやうにして《魔笛》と《レクイエム》を書き殘した。あそこ迄自分の肉體的な要素に對して殘酷になれる天才に就てなら、スタンダールの言葉を引用しても構ふまい。
だが、《コシ》では、まだ、肉體から見放された魂の、痛々しいまでの澄明な自由はない。しかし、腕をふるつて、音樂的な充實の限りを生み出す力のあつた《フィガロ》や《ドン・ジョヴァンニ》の頃の、力感は、明らかに失はれてゐる。レチタティーヴォには、《ドン・ジョヴァンニ》からの流用と思はれるパッセージが頻發する。彼の作品は、その多くが、濫作と云ふべきスピードで書かれてゐる。後世の爲に一曲一曲を獨創的なものに彫啄しようとしたベートーヴェンとは譯が違ふのだから、曲同士の細部の重複は、若い頃から幾らでもある。私はそんな事を云つてゐるのではない。《コシ》の細部に聽かれる《ドン・ジョヴァンニ》との類似は、仕事を急いだ爲といふ以上の、或る衰弱、或る樂曲統御の巨大な能力の喪失の氣配が、濃厚だ、私はさう云つてゐるのである。
……「女はみんなかうしたもの」といふ標題に、別段女への洞察がある譯ではない。音樂は、《ドン・ジョヴァンニ》が確かに、男の或る深い業と魅力とを示し得てゐるやうには、女の何かを射當ててはゐないやうだ。「女はみんなかうしたもの」と云ふのは、當然、男の目に映じた女である。モーツァルト自身の、妻への思ひの投影と見る見方もある。だが、男こそ、皆、貞節漢などではない事は、誰もが知つてゐる。モーツァルトが《コシ》の2人の男のやうに、女に純潔を要求出來る程、身邊の奇麗な男だつた譯でないのは、おせつかひな傳記作者らが明らかにしてゐる。無論、貞節漢でないからと云つて、ドン・ファンになれる譯でもない。なりたくてドン・ファンになれるものではないのは、男なら皆、我が身を顧みて、體驗から痛い程知つてゐる處なのである。「弱き者、汝の名は女」と云へたバイロンが例外だつたので、男も女も、性愛的な誘惑の前には、己自身こそがまことに弱く、愛慾は餘りにもしばしば擦れ違ひの悲喜劇を演じ續けるのが、通例であらう。
音樂を聽きながら、私は、こゝろの中で、しばしば「男はみんなかうしたもの」と呟いてゐた。さう呟きながら聽いても、音樂は、一向に姿を變へて現れては來ない。モーツァルトの肉體の中で、魔法が效かなくなり始めてゐる。男でも女でも構はない事柄を巡つて、美しいコロラトゥーラが際限もなく續くのは、オペラ好きには贅澤な時間かもしれないが、私には、正直な處、奇妙に憂鬱な時間であつた。以上、一向に樂しくない感想だ。上演を樂しんだ方には、まことに恐縮な次第である。（この項了）

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2008年10月30日

ウィーン國立歌劇場來日公演モーツァルト《コシ・ファン・トゥッテ》(1)（10月27日於東京文化會館）小川榮太郎

指揮：リッカルド・ムーティ演出：ロベルト・デ・シモーネフィオルディリージ：バルバラ・フラットリドラベッラ：アンゲリカ・キルヒシュラーガーグリエルモ：イルデブランド・ダルカンジェロフェッランド：ミヒャエル・シャーデ他

或る演奏を聽いて、水準の高い上演だつたといふやうな、藝のない感想しか浮ばないのは、その公演が、良かつたと云へるのか、要するに通り一遍の美人と擦れ違つたといふやうなものに過ぎなかつたといふ事なのか。
私は、以前から、《コシ》の音樂が餘り好きではない。今日の上演は、極めて水準の高い演奏ではあつたが、私に、《コシ》を聽く事の幸福や、或いはそれを聽く事の危さを教へてくれるやうな、突拔けた表現の強さはなかつた。私の隣に坐つてゐた女性が、幕間で話掛けて來られた。こちらから初對面の人に話掛けるのは不得手な方だが、先方から話し掛けられるのは、嫌ひではない。内氣な話好きなのだ。だから、彼女の話は樂しく聞いたのだつたが、この方は、全てのオペラの中で《コシ》が一番好きだと云ふ。
……さういふ人がゐても當然だらう。批評を公にする難しさは、かういふ處にもある。《コシ》が本當に好きでなければ、決して聽こえてはこない筈の、樣々な色調が、そこにはきつとある筈だらう。傑作には、好きな人にだけ初めて、打明けてくれるやうな深い祕密が必ずある。それは、通り一遍な氣持でこれに觸れる者には、聽こえてはこない。批評が、對象への、さうした強い感動や反撥に動かされてのものでない限り、彼は、その作品の、その演奏の、最も美しい祕密を聞き逃してゐるに違ひない。かうして、對象に對して通り一遍な關心以上の深入りをし損つた批評は、その對象に夢を掛け、思ひを籠めた人々の、私的な領域に深く根ざされた體驗を、絶えず、微妙に傷つける。しまひに、本當に好きな事に就てしか書かなくなつた小林秀雄の氣持は、さうした機微に渡るものでもあつた筈だ。
それでも、私は、今、通り一遍の感動をも、努めて言葉に直さうとして、日々、批評を書いてゐる。かうして、本當の美と出會へなかつたといふ私の傷心の、或いは誤解の、或いは復讐された冷淡さの、一聯の記録が出來上る。是非もない事である。生きるといふ事は、濃密な經驗だけで出來上つてゐるのではない。多くの凡庸な時間を度外視して、人生は成立たぬ。そして、或る藝術の體驗を凡庸にしたのが、上演者なのか、私のぼんやりしたこゝろだつたのか、それはいつでも、本當には定かでない。

さて、今日の上演は、まことに正統的で穩やかなものであつた。舞臺は、ロココ風の建築物で縁取られ、アントワーヌ・ヴァトーを聯想させる風景畫が飾られてゐる。登場人物の衣裳も、作品の舞臺であるナポリの海の風景も、典型的に十八世紀的で、これは、オペラの贅澤で傳統的な空間をまつたうに感じさせてくれる、久々のモーツァルト上演だつた。
演奏は、優れた粒ぞろひの歌手が、自由に歌唱を樂しみ、ムーティは、伴奏に徹してゐる。以前のこの指揮者のモーツァルトでは、オーケストラパートが、例の、直線的で陰影に乏しいアタックの連續で、ニュアンスをすりつぶしてしまひ、私は樂しめなかつたが、今日は、控へ目だが、やはらかな陰影にも缺けてゐない。成熟と云ふべきなのだらうか。尤も、序曲はたどたどしく、幕が開いても暫くは、餘りにも、緊張感や和聲感がなく、どうなる事かと心配したが、オーケストラの音色も徐々に暖まると、ウィーンフィルのアンサンブルは、さすがに、安心して身を委ねる事は出來、しかも、單調に墮してはゐない。去年來日したバレンボイム＆ベルリン國立の《ドン・ジョヴァンニ》が、徹底した巨匠指揮者の藝術で、全ての力の源泉がバレンボイムにあつたのとは較ぶべくもない、實に、のんびりとした日常的な音樂だが、それは、それで惡くはないのだらう。
今囘の演奏で、日常性といふ言葉を超えてゐた部分があるとすれば、それは何と云つても歌手の優秀さである。レコードでならともかく、舞臺上演でこれだけ過不足ない重唱の均整が續くのは、生半可な事ではない。歌手全員が優秀であつた事を踏へた上で云へば、聲の存在感では、グリエルモ役のダルカンジェロが卓越してゐた。フェッランドのシャーデは、情感の籠つたピアニッシモが美しい。フリットリとキルヒシュラーガーは、容姿も美しく、後者の幾分ほつそりしたコケットリーの方が、日本人好みだらうが、歌唱はそれぞれに完璧だ。演出は、着替の場面などでは相當露骨なお色氣路線だが、まあいゝだらう。優美で適度な味付けである。もつとも、私がお色氣路線に大して、まあいゝだらうと云ふのは、要するに、音樂的充實の度合が大したものではなかつたといふ含意はある。こゝは事々しく構へず、“大人”になつて、キルヒシュラーガーの美脚、そしてネグリジェからかすかに透けて見えた黒いパンティーに、演出上の深い企みを感じたとでも、書けばいゝのだらうか。だが、たとひ微かではあつても透けて見える事を知らずに演出してゐる事は考へられないのだから、あれは演技時着用の“僞裝”パンティで、本當のパンティではなかつたと考へるべきなのだらうか。それとも、僅かに透けて見えるといふ程度なら、本當のパンティを見せても構はないと、キルヒシュラーガーが決意の上での、“本物”だつたのだらうか。だが、そもそも、白いネグリジェに黒いパンティといふ取り合はせは、意圖したものでなければ不自然のやうな氣もする。
――吉田秀和氏や遠山一行氏の批評ならば、こんな品のない話題には觸れまい、おまへ、下品だぞと云ふ聲もあるだらうが、しかしそれを云ふのなら“文學の神樣”志賀直哉にだつて、『ヴィーナスの割れ目』といふ、まことに裏も表もないそのまゝの題名の隨筆がある。エロは、永井荷風や谷崎潤一郎だけの專賣特許ではない。キルヒシュラーガーのパンティの“黒”に當てられ、あれが“本物”だつたかどうかにこだわるのは、日本の近代文學傳統に則つた迄で、私個人の關心の表明ではない。
ところで、以上の與太話は、結局オペラは、指揮者の藝術だといふ私の年來の主張を裏書きもしてゐるので、つまり、オペラで指揮者が伴奏に徹してしまへば――カラスとゴッビの《トスカ》やモナコの《道化師》でもない限り、特にドイツ系オペラでは――所詮、舞臺付ガラコンサートになりをはる。音樂的な求心力が不在だと、個々の歌唱は樂しめても、音樂全體の語り掛けが消えてしまふ。《ロンドン交響曲》や《第５》が、奏者の名技性で聽かせる曲でないのと同樣、《コシ》も、歌手たちの歌の巧さだけで、聽かせる曲ではない。なるほど、この作品は、歌唱の名技性の要求では、モーツァルトの作の中でも、相當に難度が高い。作者がそれを狙つて書いたのは明らかである。だが、巧さで聽かせたのは、當時の興行であり、この作を古典として、今日、定著させようと上演者らが考へてゐるのであれば、巧さを超えた、音樂的な意味の領域にかゝはらずには、濟まされない筈である。
ムーティは、若き日に、カラヤンから持ち掛けられた《コシ》でザルツブルクデビューを果たして以來、この曲を得意としてゐるとされてゐる。だが、幾らさうした話を聞かされた處で、今日の指揮に、作品への深い洞察を感じろといふのは、無理な話だ。そして、ムーティの指揮が、音樂の側からこの作のドラマと思想を深追ひしなければ、結局、《コシ》が作品として強い語り掛けをしてくる期は逃げる。それは玉のやうな歌と優美な伴奏による流麗な美の連續ではあつても、音樂劇としての意味は、美の中に消えてしまふ。だが、そもそも、意味の中でしか、美は持續し得ないものなのではあるまいか。キルヒシュラーガーの黒い下着にこだわつてみせたのは、實は、それを云ひたかつたからでもある。（この項續く）

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2008年05月19日

ヴァグナー作曲《トリスタンとイゾルデ》全曲ウィーン國立歌劇場管絃樂團指揮クリスティアン・ティーレマントリスタン：トーマス・モーザーイゾルデ：デボラ・ヴォイトマルケ王：ロベルト・ホル小川榮太郎

以下、5月20日午前に改稿したものを掲げる。19日深夜に掲載した初稿が、睡魔との鬪ひで餘りに不充分であつた爲だ。御諒承願ひたい。

今、全曲を聽き終はり、茫然として、陶醉境にゐるところである。《トリスタン》を全曲通して聽くのは、昨秋のバレンボイム／ベルリン國立歌劇場／ワルトラウト・マイヤーの來日公演以來だが、今日の演奏は、レコードにもかゝはらず、あの壓倒的な感銘におさおさ劣らない。このレコードは、發賣された當初の批評が、―日本のティーレマン評では毎度のことではあるのだが―芳しいものではなく、何となく、通して聽く機會を逃してゐた。それを今になつて急に聽かうと思ひ立つたのは偶然に過ぎない。
この所、マーラー以後の音樂を、おさらひしようとしてゐて、また、コンサートに通へば、しばしば聽かされるはめにもなり、辟易してゐた。赤い布切れを前にした鬪牛よろしくいきり立ち、20世紀音樂に對して、“暴言”を吐くのは、讀者には申し譯ない仕儀ながら、毎度のことになつてゐる始末だ。私の場合、食はず嫌ひではなく、喰つて嫌ひだつたものを、もう一度じつくり食べてみようと思つてみて、實際味はひ直してみたら、以前思つてゐた以上の不快を覺えてゐるのだから、世話はない。
マーラーやストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチを“消化”しようと懸命に努力してゐるクナッパーツブッシュなど考へられまい。ならば、マーラー以後を冷評一語で葬り去る批評家がゐてもいゝではないか？そんな自問自答を繰返しながら、内實、實に嫌な氣分を拭へぬ日々が續いた。さうした中で、久々に、自分の本當に好きな音樂をじつくり聽きたくなつたといふ以上に、このたび《トリスタン》を聽いた理由は特にない。
聽いて改めて思ふのは、驚くべき作品であり、驚くべき演奏だといふ一事に盡きる。ティーレマンの指揮の、作品への踏込みは、大膽不敵で、寧ろ、作品論の側から改めて、徹底した私の《トリスタン》理解を示してからでないと、この演奏に私の直觀した偉大さを、讀者に納得していたゞくのは難しさうである。だが、さうした本格の《トリスタン》論の試みといふ話は、近日中の宿題にとつておき、今日は感想のデッサンにとゞめておくことにする。
それにしても、こゝでのティーレマンの感化力が如何に強いかは、彼の、大づかみに曲の核心を取り押さへての、寸分も搖がぬ自信に、あのウィーンフィルが、完全に心醉し、催眠術に掛けられてゐる樣を聽けば明らかだらう。第１幕の前奏曲からして、音樂の流れはとにかくぶつといのである。ずしんと響く低音が唸りながら、巨浪のやうに音樂の全體が搖れる。重心の低さは、モダニズムの洗禮を受けてゐるフルトヴェングラー以上だし、音樂の自由な搖らぎは、クナッパーツブッシュにはなかつたものである。無論、どちらの特色も、戰後ドイツでは、強く忌避されて長きを閲してきた。ベーム、カラヤンの《トリスタン》は、さうした「殘滓」を積極的に取り去つた「反省ドイツ」の戰後的表情で貫かれてゐる。
音樂は、政治から自由たり得るかといふ問ひは、ナチズムやソ聯共産黨との絡みだけで問はれるべきことではない。日本自身が第２次大戰で敗戰した爲に、自分の足で立つことを不可能にされてしまひ、その結果いまだにどれ程苦しんでゐることか。（必ずしも、自虐史觀、靖國問題、南京事件なる虐殺の意圖的な誇張などを指してゐるのではない。もつと深く日常的な日本人の在り方を失つてしまつたことが、更に重要だと私は考へてゐるが、それは別のところで書くべきことだらう。）ベームやカラヤンの戰後の演奏樣式を、戰後政治、聯合軍、NATO體制への、敗戰ドイツの迎合と見ることも出來るだらう。勿論、ドイツは單に戰爭に敗北したのではなく、ナチズムのユダヤ人虐殺といふ十字架を背負つた。ユダヤ人問題とヴァグナーを切り離すことは、戰後のドイツ藝術界最大の主題だつた。しかし、それが、戰後のスマートなヴァグナー樣式の正當化になるかどうか。それは問題を誤魔化す、囘り道に過ぎなくはなかつたか。
今日、さうした「戰後レジーム」からの脱却と、新しい秩序への樣々なけはしい驅引の時代は、世界規模で既に始まつてゐる。中國とロシアといふ、祕密主義の内政で、戰後６０年の間に、ナチス以上の數の虐殺に責任があるとさへ推測されてゐるこの２つの「帝國」は、新たな秩序の中心者然として、惡びれもせずに、世界の表舞臺に伸し上がつた。彼らは１つも「反省」なんぞしてゐないし、これからもするつもりはないだらう。我が國では、戰後レジームの脱却を唱へた優れた若い首相がマスメディアの汚れた醜い手で速かに屠られたが、ドイツでは、その同じ時代に、音樂の中で、明確に、「戰後レジーム」からの脱却を宣言する指揮者が、強い支持を受けてゐる。それがティーレマンであり、さうした新たな民族的な表現の率直な探求の、この演奏は、１つの大きな成果だらう。
以上は、わざと誇張して、政治と絡めた書き方をした。だが、ドイツがヴァグナーからゲルマン臭を拂拭し、日本がお詫外交を續けてゐる間に、世界の時計は、今、何時を指してゐるのだらうか。音樂の運命は、さうしたことと切り離せない。ティーレマンが代表してゐる音樂の在り方への評價は、「戰後レジーム」への評價如何と切り離せない。アバド、ラトルなどの、如何にも戰後レジーム的な紳士が、この人の音樂に何を聽いてゐるか。それは恐らく、純粹に藝術的な次元にとゞまるまい。
いつも通り、餘談にわたつたが、この重たいヴァグナーの感銘には、少くとも、私には、「戰後レジーム」の欺瞞をはなから無視して、ヴァグナーの核心に挑まうとするティーレマンの器量の大きさと、切り離せないやうに思はれる。秋に聽いたバレンボイムも、ティーレマン同樣の、重たい音樂だつたが、バレンボイムのは、遙かに微細な和聲的な感覺が研ぎ澄まされてゐて、どのフレーズも、信じられないほどこまやかなダイナミズムの伸縮の、無數の波長に覆はれてゐた。ティーレマンの方は、それに較べるとより野性の解放のやうなふてぶてしい押しの強さできはだつ。前奏曲に關して云へば、フルトヴェングラーの、極めて高度な繼承を達成してゐたバレンボイムに對して、寧ろ、クナッパーツブッシュにより近い傳統の繼承者に聽こえた。
このティーレマン盤はライヴだけに、一幕では、必ずしも歌手の聲が全開といふ譯にはゆかないが、それでも、イゾルデとブランゲーネの掛合ひからして、既に充分、演劇的迫力に滿ちてゐて、多少の瑕瑾は忘れさせる程、緊張度は高い。たゞ、バレンボイムの時のマイヤーの、心理の襞に底知れず寄り添つて、まるでヴォルフのリートのやうに扱はれてゐた歌唱を堪能した耳で聽くと、あれ程細かい味はひは、こゝにはない。もつとも、歴代の名盤で、あのバレンボイム＆マイヤーの１幕前半に匹敵する程精妙な歌唱は、クライバー＆プライスしかないだらう。それに、クライバーとプライスのは、誰かも書いてゐたけれど、徹底した解釋ではある代はり、ヴァグナー演奏とは最早云へなくて、殆ど《ペレアスとメリザンド》の世界。「戰後レジーム」どころの騷ぎではない。あれはあれで、嘘僞りのない、非政治的人間による、徹底的に研ぎ澄まされたヴァグナーである。それやこれやを思ひ合せると、今日聽いたティーレマン盤は、何と云つても、この何十年すつかり封印されてゐた、あのヴァグナーサウンドの洪水で、まづ、耳を喜ばせてくれるだけでも、驚きである。もつてまはつた書き方になつたが、この喜ばしいサウンドの達成の背後には、ティーレマンの政治的な勇氣があると、私は云ひたかつた。私の云ふ政治的勇氣とは、音樂家が政治的主張をすることではなく、音樂行爲の中心にあつて、音樂を如何なる政治から守り、音樂そのものに語らしめる勇氣のことである。この人の出す音の純粹な喜びは、無邪氣無頓着なものではない。
それから、歌手のドイツ語の發音。これは、もう、昔のレコード、特に、演劇竝みのディクテーションを歌手に要求してゐたフルトヴェングラーに匹敵する程、明快で、子音の發音もしつこい程。私は、徹底して語學を疎かにした人間で、こんなことを書くだけでも、知つたかぶりの謗りは免れないのだが、そんな人間の耳にも、このドイツ語の發音の徹底的なことは、耳をそばだてる程だつた。
しかし、演奏全體の出來榮えとしては、１幕は所詮序の口である。この演奏の、聽き手の心を掴む力は、２幕、そして３幕と鰻のぼりに昂揚する。とりわけ、３幕では、レコードを聽いてゐるといふことを完全に忘れさせる程だ。前奏曲の凄絶な詠歎がかぶりを振つて低弦で歌ひ出されると、その悲嘆の巨浪は、早くも私を呑込んで否應がない。音樂の大きな身振は、こけ威しではなく、實質的な内容でぎつしり詰り、充實しきつた響きにいつも裏付けられてゐる。
だが、何と云つても、２幕、３幕を通じて、この演奏最大の特徴は、じつくりと歌ひ込まれる音樂の、丹念で呼吸の深い悲劇と、燃燒し昂揚してゆく場面での凄じいアッチェルランドとの、きはだつてドラマティックな對比だらう。２幕で戀人同士が出會ふ場面や、３幕のトリスタンの獨白の劇的な抑揚、特に、イゾルデの船が近づいてくる邊りの興奮は、何とも強烈でめまひを覺えてしまふ。レコードでのフルトヴェングラーは、かうしたところは、ずゐぶん控へ目な指揮なので、正規録音で、かうした緩急の最も激しいのは、今までのところ、クライバー盤だ。しかし、クライバーの指揮は、こと《トリスタン》のやうな曲では、テンポの變化も、響きそのものも、何とも割切れ過ぎ、スマート過ぎる。ティーレマンの指揮は、同じやうなアゴーギグでも、その中に、葛藤や抵抗やらの樣々な味はひが盡きない。準備された滑らかさは徹底的に排除されてゐる。響きも音樂も、割切れたスポーティーなところは全くない。、一囘一囘のアッチェルランドには、賭けのやうな冒險が生む、物凄い生命力と重量感がある。イゾルデの船の場面では、トリスタン以上に、管絃樂が、歡喜に喘ぎ、のたうち、興奮の極で聲を嗄らして悶絶する。それは、苦痛に滿ちた憧れといふ、この作品の根本的なモティーフには如何にもふさはしい。
それに、この邊りになると、１幕で感じられた演奏の微妙な喰ひたりなさはすつかり消えて、音樂的な緊張と歌唱の輝きと演劇的な深みとは、渾然一體となつて、味はひは壓卷だ。かうして音樂的な多樣性がやゝ未整理のまゝ、思ひがけない感興を次から次へと生み出してゆく時、この作品は、１頁ごとに、全く未知の、新しい祕密を明らかにしてゆく新しい音樂となつて誕生し直してゐるやうだ。イゾルデの愛の死まで、たゞもう音樂に釘付けとなつた私は、聽き終はつた時には、生き殘つた登場人物たち同樣、激甚な感動で、全く言葉も出ない有樣だつた。

このティーレマン盤は、最も首尾一貫して整備された《トリスタン》レコードではないが、生氣に富み、大膽に演劇的な激情と厚みとがあり、管絃樂演奏の骨太なことでは、フルトヴェングラー以降の主要レコードの全てを凌駕する。歴代の《トリスタン》レコードが、全て大指揮者と大歌手よる名盤であることを思へば、これは、驚くべきことだ。私自身は、おそらく、近い將來執筆することになるトリスタン論の中で、最も重要で繰返し聽く演奏として、フルトヴェングラー盤、クライバー盤と竝び、ティーレマン盤を選ぶだらうと思つてゐる。しかも、その中で、自身の樂しみとしてもつとも多く手にとるのは、おそらく、このティーレマン盤である。
かうして書いてゐる内に、發賣時の『レコード藝術』での、消極的な評價の中身が、だいぶ思ひ出されてきた。記憶に誤りがなければだが―撰者は、グラムフォン社が、久々の《トリスタン》全曲盤に、アバドを起用せず、ティーレマン指揮の、それも傷の多いライヴ録音を採用したことを歎いてゐたと思ふ。豫算から來る窮餘の策と云ひたかつたのだらう。蓼食ふ蟲も好き好きといふ他はないが、ヨーロッパの耳が、《トリスタン》レコードの指揮者として、アバドではなく、ティーレマンを、それもセッション録音ではなく、ライヴを選んだことに、私は率直に感謝したい。（この項了）

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