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イケてない10代
冬川 智子
メディアファクトリー
2009-10


 ……という本を立ち読み。まあ、エッセイです。
 思わず笑ってしまったんですが、要するにそれは、主人公の「鳩っぽ」の感覚が痛いほどわかるからで、確かにこんなこと思ってたなあ、と。

 簡単に言うと、「高校デビュー」を夢見る、ちょっと大人しい感じの女の子が、それに失敗して、男友達も作れず、おしゃれな女の子のグループにも入れず、自身の冴えない高校生活を嘆く、という漫画。

 しかし、考えてみると、別に高校生活って、恋愛だけじゃないよね、と。
 大人になってみると、そんな負け犬じみた言い訳の一つもできるようになるわけですが、とはいえ、思春期の最中は、そうもいかない。
 青春群像を語る上では、スポーツを巡る物語も、恋愛ものと同じくらいあるのですが、恋愛にばかり興味があって、それに憧れていたりすると、そちらには目が向かないわけです。
 高校生の青春とはちょっと違いますが、たとえば、『グラゼニ』という野球漫画を読むときも、主人公の野球人生という、メーンの物語、すなわち年俸がどうとか、試合での活躍がどうとか、そういう部分よりも、ヒロイン(この漫画では、定食屋の看板娘の女の子)との恋愛事情の話ばかり、注目してしまう……みたいな心境があるわけです。
グラゼニ(17)<完> (モーニング KC)
アダチ ケイジ
講談社
2015-01-23


 ……まあ、とりあえず、世の中には、「青春」=「恋愛」という等式のみを認識して、思春期を過ごしている、あるいは過ごした人間も多いわけです。

 さて、話を『イケてない10代』に戻すと、主人公の悩みは単純で、彼氏ができないこと。
 単純だけれども、解決するのが非常に難しい問題だ。
 彼氏ができないのはさておいて、クラスの男子と話すことすらできないのがこの主人公だ。
 もちろん、その背後には、見た目に関するコンプレックスがある。自分は、「おしゃれグループ」のように華やかではない。少しおしゃれをしようとするけれど、それは「自分には似合わないんじゃないか」だとか、「高校デビューしてるけど、あの子似あってないわ、と陰口をたたかれるんじゃないか」とか、そういった心配が頭をもたげてきて、結局、大人しく、控えめな外見のまま。外見に自信が持てないから、積極的に、男子に話しかけることもできない。
 他方、女友達に関しては、仲良くしている女の子はいるが、二人とも男の子とふつうに話せて、彼氏もいる。思春期特有の、性に対する関心もあって、ヤッた、ヤらない、ホテルに行った、行かない等々。そんな会話に、どう参加していいのか困る。

 こうして、色々と書きならべてみると、男と女の悩みは、さして変わらないということに気付く。
「話しかけられない」というのは、たとえば、自分も周りみたいに、隣の席の相手と、軽口や冗談を言い合ってみたいとか、そういう願望が叶えられないことなのだ。
 こういう悩みは、男女関係なく、抱くものだ。とくに、思春期ということもあって、「気になっている相手」に対しては、なおさら悩むものである。
 軽く話しかけたら、相手は自分を見て、「何こいつ、友達でもないくせに」という反応をしないだろうか。この点が非常に気がかり。冗談めかして話しかけても、「は?」という反応をされる公算が大。とても声を掛けられない。
 著者は、これを「結局は、嫌われたくない、自分が傷つきたくない」といった趣旨でまとめるが、とはいえ、傷つきたくないというのは人間の心情で、こういう不安を馬鹿にするわけにもいかない。

 ここで、悩みの種を分析するとき、「外見に自信がない」ということが、問題の解決を妨げていることがわかる。
 要するに、話しかけられない理由というのは、相手との関係が乏しいからなのだが、「自分の外見が美しい」と言えるのであれば、もっと積極的にかかわって行けるのだ、と。
 これは、反対から考えてみると、「見た目が良ければ、急に話しかけても大丈夫」という認識が、実は背後に存在するのである。
 相手を自分に置き換えた時、「あんまり仲良くない人から話しかけられても困る」と考え、「は?」という反応を恐れるのだが、他方、「仲良くなくても、見た目の良い人から話しかけられるのは困らない」という認識があるから、「外見に自信のないこと」が、「話しかけられないこと」に接続するのである。

 この認識が、間違っているとは言い切れない。
 誰だって、かわいくない子よりはかわいい子と、カッコよくない人よりはカッコいい人と、話したいと思うだろう。もちろん、個人にもよるが、そういう認識の方が、数としては多いと思っている。

 とはいえ、「外見に自信がないから、話しかけられないのは仕方ない」とやってしまっては、そこで終わりである。もちろん、見た目を良くするよう、努力することはできるが、化粧だったりエステだったり、果ては整形だったり、なかなか金がかかる。そもそも外見というのは、自分にはどうしようもできない部分もあるから、これを理由にして問題の解決を諦めるのは、やや潔すぎる。
 また、見た目の良さを、少々特別視しすぎている嫌いもある。
 テレビに出ている芸能人と比較すれば、それは劣ると言えるかもしれないが、同じ中高生の中で、外見の差にはっきりとした優劣をつけるのは難しい。

 さらに、見た目に関して言うと、誰しも自分をかわいい、カッコイイと思う反面、ダサイと思う部分も抱えている。
 要するに、あの人は「全体的に」かわいいから、カッコいいから、「特別なんだ」と思わないことである。たいていの場合、自分のことを全部「好きだ」と肯定できる人間はいない。誰しも、外見には自信を持っていないもの、とも言えるのだ。

「全面的にかわいい、カッコいい」など、相手を特別視したがる人は、自分をも特別視したがる傾向があると私は思っているが(そして、そういう傾向は、人間には普通、備わっているものだと思っているが)、相手も自分も、さして変わらない、という感覚を持つことが、相手とコミュニケーションをとるにあたっては、重要である。相手が特別で、自分はそうでない、と思ってしまったら、コミュニケーションを取るのに怖気づいてしまうのは、考えられることだからだ。だから、相手も自分も、特別ではない、と意識することが必要になる。
 そして、これに則って考えてみると、「自分が話しかけるのに、そのきっかけを待っている」という場合、相手の方も、それを「待っている」のだと解釈することは可能である。
 中高生の話であるから、それを念頭に置いて考えてみると、「同じクラスにいる奴と、別に話したくない、友達になりたくない」と考えている人は、いないことはないだろうが、かなり稀な人種である。また、仮に相手が、かわいくない、かっこよくないから、あまり話したくないな、と思ったとしても、それを理由にコミュニケーションを拒絶することは、まずない。というのは、そんな理由で他人を拒絶する奴は、周りから排斥されてしまう、と考えるのが通常だからだ。
 すると、見た目が良くないから、コミュニケーションを拒絶されることはなく、まだ友達じゃないから拒絶されるということもない。
 何より、向こうも、きっかけさえあれば、しゃべってみたいと思うのが普通ではないだろうか。仲良くなれるかどうかは、しゃべってみてから判断すればよく、そりが合わないと考えれば、それ以上、仲良くしなければいいのである。しかし、その判断をするためにも、しゃべってみなければわからない。肌が合わないと思っていたけれど、しゃべってみたら良い奴だった、というのはよくある話だ。

 さらに、自分も相手も一緒、大して変わらない、という発想は、相手が男で自分が女でも、またその逆でも、大きな違いはない、ということにつながる。
 男も女も、異性としゃべってみたいという感覚に変わりはない。そして、よほどのことがない限り、コミュニケーションの最初の段階で、拒絶されることはまずない。相手もまた、自分のことを知りたい、と思っている。ただ、その扱いに困っているだけなのだ。異性の扱いというのは、どうしても、「性」という、道徳的に隠されているべき物の存在を意識させる。この取扱いに困るのは、いわば当たり前のこととも言えるのだ。

 ということだから、自分はこうこうこうだから、相手と話すことができない、という風に考える――もっと言えば、「相手と話す資格がない」かのように、思わないことである。
 話すためには、資格が必要なほどの「特別」な相手は、通常いない。また、話す相手が限定されている人間というのも、通常いない。
 相手も自分も同じ人間なのだから、しゃべって何が問題なのか。こういう風に意識することが重要だ。ちなみに、どちらも同じくらい優れた人間だ、と思うよりは、どちらもどうせ大したことのない人間なのだから、と思う方が、気楽で良い。

 ……このように書いてきてみると、その昔書いた、「好きな人の連絡先を聞けないということ」という記事に関しては、見解を改めなければならない箇所もあると思う。
 子どものような人は、「相手の立場に立って物事を考えられる」と書いてはいるが、その「相手の立場」とは、「完全な相手」ではなくて、「自分の分身」であるのだから(もちろん、自分も相手も、同じように大したことない、という発想は、一面に置いて、相手の立場から物事を考えている。しかし、上記の記事は、そういう文脈で物事を語っていないように思う)。

 最後に注意点をいうと、話す時は、相手の目を見ることが大切である。まだしゃべったこともない人間に、目を合わさずに話しかけられても、それが自分に向けられた行動だと判断するのは難しい。そうすると、相手からしたら自分は、宙に向かって話しかけている「挙動不審」な人間であり、関わりたくないと考えるのが通常だからだ。
 口調がやや変になるくらいは、緊張しているということで、流してもらえる。誰だって、初めて人と話すのは、緊張するのだから。

 ……さて、そうすると、「しかしいったい、相手とは何を話せばいいのか?」という疑問が、真面目な人には湧いてくるのではないか。
 この問題もまた、ある種の人にとっては、なかなか解決の難しいものがあると思う。
 別の機会に、また考えてみたいと思う。
 

 悩んでいると、そのうち、悩むことそれ自体に、満足し始めてしまう危険がある。
 その危険を取り除くには、何のために悩んでいるのかを意識しなければならない。
 とはいえ、何のために、すなわち、何かの問題を解決しようとして、その方法に思い悩むというのであれば、それはまだ楽である。
 あまり悩む必要がない。自分に出来ることは限られているから。

 悩むことそれ自体が目的となっている場合、そもそも、何か解決すべき問題があるのかどうか、見つめなければならない。
 それは、あると言えばあり、ないと言えばない、といった類の問題である。
 このあいまいさ、相対性が、悩みをより深くする。
 合理的で、効率的であることを考えると、すなわち、自分の行動は、無駄のないものにしたい、ということを考えると、問いの立て方の時点で、立ち止まってしまう。
 こんな問題を、問題と捉えて、はたして何か意味があるのか、と。
 確かに、「解決しようとする」作用そのもの、運動そのものに価値を見出せば、それはいかなる問題であっても、意味があると言うことができる。
 しかし、これはすぐにわかることだが、こうした「運動そのもの」は、運動者自身を除いては、まったくの無価値である。
 その点が、悩める者には大きな障害となる。
 他の人の役に立っていない、という感覚が、どうしても付きまとってしまう。生産性のなさは、自信を喪失させやすい。
 自分を特別な存在だと思っている者は、なおさらである。
 こうして、何を為してよいかわからず、結局、悩み続けることになる。
 とくに、こうした人間はえてして、悩むことが高尚だと、考えてしまう場合がある。

 確かに、悩むことは、悪いことではない。
 それは、たとえば、何かの決断をしなければならないときに、選択肢を比較し、吟味検討する場合である。
 どちらの選択肢にも、メリットとデメリットがあり、かつ、それなりの合理性もあるという場合、これは非常に悩ましい選択となる。
 どちらをとっても良く、どちらに転んでも、不正解とは言えない。
 しかし、どちらを取ったとしても、必ず何か、うまくいかなかったり、デメリットを背負い込まなければいけなくなる。いわば、リスクのようなものだ。
 こういう場合に、短絡的に片方を選んでしまうのは、具合が悪い。よく、「仕方がない」という言い方で、簡単にどちらかに決めつけてしまうことがあるが、あまり良い態度ではない。こういう場合にこそ、悩まなければいけない。
 ただし、最終的に決断を下さなければいけないのだから、悩み続けることもよくない。
 こうして、双方のリスクを勘案したうえで、片方のリスクを選ぶことになる。
 そして、ここで悩むべきことは、選んだからこう、ということに限らない。選んでしまって、ある程度結果が出始めていたとしても、はたしてその選択が正しかったのか、注視し続けなければならない。それは、後の選択の機会における判断の素養となるのだから。

 ……と、こういう意味で、悩むことは、悪いことではない。選択を前提とした悩みは、むしろしなければならないものだ。
 けれども、選択をせずに悩み続けることは、本質を見誤っているように思う。
「生きるために食う」のであって、「食うために生きる」のではない、という趣旨のことが、武者小路実篤の『人生論』の一節にある。それと同じで、悩むこともまた、選択するために悩むのであって、悩むために選択するのではないことは明らかだろう。

 ということで、解決すべき問題を、ともかく立てることが重要である。そして、その通り行動してみなければならないだろう。
 悩むということは、行動を選択するためにある。
 ありきたりのまとめなのだが、ありきたりであるということは、大きく間違ってはいない、ということでもある。
 ともかく、何らかのことを課題と認識し、行動した後で、本当に課題と言えるものだったのか、悩めばよい。
 夏休みも、あとわずかなのだから。 

 突然、あるものの名前が思い出せなくなって、困ることがある。
 あの、むずむずとした感じ。
 思い出せればスッキリするのに、なぜか喉の奥で引っかかったようになって、出てこない。
 放っておけば、そのうち思い出すだろう。
 そもそも、いまこの場で、即座に思い出せなければいけないようなこともない。
 しかし、どうしても、気持ちが悪い。
 もちろん、Google検索にかければ、たちどころにわかる。
 けれど、私はいま、そういうことがしたいのではないのだ。
 私は、「思い出す」ということをしたいのであり、「思い出した時の爽快感」を求めているのだから。

 で、今回の私は、哲学者の名前で、それが起こった。
 かなり有名な部類に入るのに、どうしても出てこない。

「ゲルマン系の名前なんだよなー」
 とか、
「ショーペンハウアー、みたいな長さなんだよなー」
 とか、色々つぶやいてみるが、出てこない。困った。

 その人を語る上での、キーフレーズはわかっている。
「語りえぬことには、沈黙せねばならない」
 これだ。
 その著作の最後の一文に、こう書いてある人だ。もうお分かりの人もいるだろう。
 しかし、私はこれが、出てこなくなった。
 あー困った。
 クイズの早押し問題で、いまこれを出題されたら、後悔すること間違いなし。

 おお、そうだ、思い出したぞ。
『論理哲学論考』だ。
 それは、さっきの言葉が出てくる著作の名前。岩波文庫の青いやつ。
 これが出てくれば、書いた人の名前もつられてわかるんじゃないかな。だって、『純粋理性批判』と言えばカントだし、『意志と表象としての世界』と言えばショーペンハウアーだし、『時間と自由』と言えばベルクソンだ。
 ……ところが、この『論理哲学論考』だけが、どうしても出てこない。
「なんでだろうなあ、昔よく遊んだのになあ、論理哲学論考で」
 などと、意味不明の独り言。それくらい、思い出せないのだ。

 ぐわわゎゎ……

 そうして、精神的にのたうち回ること数分。
 諦めて、私は、検索ワードに、「論理哲学論考」と打った。
 答えは、ものの1秒でわかった。

 ああ、ウィトゲンシュタインだ。

 なるほどねえ、ウィトゲンシュタインねえ。いたねえ、そんな人……

 まあ、こういう方法で思い出しても、のたうち回っていれば、自力で思い出した時の、半分くらいの爽快感はある。

 それにしても、哲学者の名前と著作を思い出すのに苦労するとは、本当に自己満足でしかない。
 思い出したところで、まったく役に立たない。 
 しかし、それゆえに、気持ちいいのだ。 

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