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 以前の告知でも書きました、「共幻文庫サイト」での、法律相談ブログの件。
 今日更新した第三回では、「さんかれあ」というアニメ作品から、「死なせてしまった人が、ゾンビとして生きかえったら、処罰されるのか!?」という疑問をテーマに、検討した結果を書きました。

すみれふぶき先生の法律談議 第三回「さんかれあ」

  さて、この記事では、作中のヒロインであり、本件の被害者である「散華礼弥」の父・「散華団一郎」の行為をメーンに取り扱っていますが、余談として、主人公・「降谷千紘」が、ゾンビとなった礼弥ちゃんと家で暮らすことになる、という点についても、取り扱いました。

 記事を読んでいただくとわかりますが、ゾンビは法律上、動く死体であり、死体であることに変わりがない以上、これを埋葬せず、勝手に自分の家に「持ち帰ってしまう」のは、死体領得罪に当たります。

刑法第190条【死体損壊等】
 死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する。 

 さて、ここで「すみれ先生」が、あることを指摘します。
 そもそも、降谷くんが「ゾンビと生活できる」のは、なぜだったか。
 作品を知っている方ならお分かりの通り、これは、「ゾンビに萌える!」という少年が、かわいい女の子のゾンビと生活するお話です。
 つまり、降谷少年が死体を領得してしまったのは、ゾンビに萌えるから! いわば、ゾンビをこよなく愛しているから、とも言えます。

「ゾンビ」と考えると、少し特殊な気もしますが、たとえば「死体愛好者――ネクロフィリア」の亜種、と考えてみるとどうでしょう。
 死者に対する人の対応は、文化、風習、それぞれです。死者に対して愛情を抱いてしまうことも、考えられなくはない。とくにそれが、生前親しかった人の死体であれば、なおさら……

 こういう感情が、一般的かどうかはともかくとして、人間が持ちうる感情であることは、ある程度のコンセンサスがあるのではないでしょうか。

 さて、そうすると、彼がやっているのは、「ゾンビ萌え!」という自らの嗜好を満足させる行為なのだ、と言えなくもない。要するに、お酒が好きな人がお酒を飲み、煙草が好きな人が煙草を吸う。野球を見るのが好きな人が、野球を見る。これと変わりはない。
 この点が、少し気にかかるというのであれば、「自分の好きな人と、交際する自由」というのはどうか。家長的な父親に反対されながら、私はこの人と一緒になるんだ! と恋の炎を燃え上がらせる乙女もいるでしょう(――実際、作中の、礼弥と団一郎の関係は、これに似ているところもある)。
 人生において、人が人を愛する自由というのは、まさに人格的な利益として保護されるべき、基本的な人権であるはずです。そして、ただ心の内で愛するだけでなく、その気持ちを行動に表すこともまた、これは保障されていなければなりません。だからこそ、「好きな人と交際する自由」があるはずではないか! こう考えてくると、なるほど、人権問題のような雰囲気がでてきます。

 憲法には、直接、「好きな人と交際する自由」を定めた条文はありませんが、こういった一般的な行為の自由は、いわゆる「幸福追求権」として、憲法13条で保障されている、と言われています。

憲法13条【個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉】
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


 つまり、ゾンビを持ち帰る行為を、死体領得罪で処罰するということは、「好きになったゾンビと交際する自由」を制約し、これはひいては、「死者を愛する自由」というものを制約することになるわけです。
 そうすると、本来、刑法の「死体領得罪」というのは、国民の死者に対する敬虔・崇拝の念を侵害する行為を処罰するものです。そして、死者に対する敬虔・崇拝の念の表し方は、程度の差こそあれ、人それぞれあっていいはず。ゾンビに萌える、という価値観から、ゾンビの女の子と一緒に暮らすというのが、自分なりの、死者に対する敬虔・崇拝の念の表し方なのだ、と言うことも可能なのではないか。だとすれば、個人の死者を愛する自由を制約してまで、この法律で処罰するということは、そもそも本末転倒ではないのか。

 こういう議論もまた、可能なのではないかと、考えていました。

 そんなはずはない! という見解も、当然ありうることです。
 ゾンビ萌え、と言えば軽い雰囲気がありますが、ようするに、「死体が性的興奮の対象となりえる」という趣旨が潜んでいます。その性欲が「異常かどうか」はさておき、性欲というものが入って来ていますから、それが「死者に対する敬虔、崇拝の念」に基づいていると言えるのでしょうか。
 しかも、死体には、遺族がいる場合も当然あります。その場合、死者とまったく無縁の人の「死体愛好」という性格と、遺族の「普通に埋葬して、弔ってやりたい」という感情を比較した場合に、後者を重く見て、そういった感情を一般的に害するであろう、死体の領得行為を処罰するという選択をすることが、まったく不合理といえるのかどうか。

 上述の、憲法13条には、「公共の福祉」による制限がある、ということが規定されています。これは、一般的な社会秩序、のように考える傾向もありますが、一番念頭に置かれるべきは、他者の人権との衝突の場合です。
 死体を愛する自由もありますが、同時に、その死者の遺族が、自らの思う形で、死者を弔ってやりたいという自由も、人権として認められるべきであることは、否定できません。
 自分の娘が、死んだ後も死体愛好者の手の下にある、というのは、簡単に受け入れられる状況ではないでしょう。

 と、このように考えて来ると、やはり「ゾンビに萌える自由」を大々的に主張して、そういった嗜好を持つ人に対して、死体遺棄罪、死体領得罪を適用するのは、人権の制約であり憲法違反だ! とするのは、ややバランスを欠く解答と言えます。
 同罪は、個人の自由そのものを保護するものではなく、「国民の死者に対する敬虔・崇拝の念」といった、いわゆる「風俗」意識を保護するものなので、こういった特殊な嗜好を持つ者を処罰することに、抵抗があることは否定できません。
 しかし、こういった規定の背後に、遺族個人個人の感覚があることを想定すると、不合理な条文とも言えないでしょう。

 さて、そうすると、では、具体的に、今回の場合に降谷君を処罰することに、問題はないでしょうか? こういう疑問もまた、実際に法律を適用する場面で、議論されてよい点です。

 彼は確かに、「ゾンビ萌え」を自認していますが、礼弥の死体を持ち帰る(……というより、彼女が付いてきた、という面もあるのですが)という選択をしたとき、彼はまったく、自らの嗜好――性欲を満たすためのみに、彼女の死体を領得したわけではないでしょう。
 また、他方で、遺族である団一郎が、礼弥に対して「性的虐待」半歩手前のような行為を繰り返していた父親であることを考えると、彼の、娘を弔いたいという感情を、どこまで汲み取るべきなのか。画一的に、団一郎は遺族で、降谷千紘は他人だから、やはり団一郎が優先されるべきと言ってしまっていいのか。
 さらに、ふつうはありえないのですが、今回は「死者の意思」も関わってきます。ゾンビとなった礼弥は、団一郎の束縛から逃れたい、という強い願望を持っています。

 このような点を踏まえると、降谷千紘を死体領得罪で処罰することに、やはり抵抗はあります。
 もっとも、死者は死者として、きちんと埋葬されるべきであり、それが死者に対する崇拝の念の表し方であり、他人が勝手に死体を持ち去っていいはずはない……というのが、犯罪の成否に関しては、妥当なところではないでしょうか。
 そうすると、結局、上記のような事情は、降谷君の量刑を考える上で、酌量されるべき事情となるにすぎない、ということになるでしょうか。
 死体領得罪は、3年以下の懲役ですから、加重されない限り、執行猶予が付きます。その可能性は、非常に大きいと言えるでしょう。また、検察官の裁量で、そもそも不起訴となるかもしれません。
 この辺りは、実際に法律を運用することになる、実務家たちの正義が問われる点ですね。
 

(※)本文中では一切触れませんでしたが、降谷くんは高校生ですので、少年法の適用があります。そもそも、起訴されて、刑事裁判になる、ということはなく、少年審判、という形で、保護処分が下されることになります。 

イケてない10代
冬川 智子
メディアファクトリー
2009-10


 ……という本を立ち読み。まあ、エッセイです。
 思わず笑ってしまったんですが、要するにそれは、主人公の「鳩っぽ」の感覚が痛いほどわかるからで、確かにこんなこと思ってたなあ、と。

 簡単に言うと、「高校デビュー」を夢見る、ちょっと大人しい感じの女の子が、それに失敗して、男友達も作れず、おしゃれな女の子のグループにも入れず、自身の冴えない高校生活を嘆く、という漫画。

 しかし、考えてみると、別に高校生活って、恋愛だけじゃないよね、と。
 大人になってみると、そんな負け犬じみた言い訳の一つもできるようになるわけですが、とはいえ、思春期の最中は、そうもいかない。
 青春群像を語る上では、スポーツを巡る物語も、恋愛ものと同じくらいあるのですが、恋愛にばかり興味があって、それに憧れていたりすると、そちらには目が向かないわけです。
 高校生の青春とはちょっと違いますが、たとえば、『グラゼニ』という野球漫画を読むときも、主人公の野球人生という、メーンの物語、すなわち年俸がどうとか、試合での活躍がどうとか、そういう部分よりも、ヒロイン(この漫画では、定食屋の看板娘の女の子)との恋愛事情の話ばかり、注目してしまう……みたいな心境があるわけです。
グラゼニ(17)<完> (モーニング KC)
アダチ ケイジ
講談社
2015-01-23


 ……まあ、とりあえず、世の中には、「青春」=「恋愛」という等式のみを認識して、思春期を過ごしている、あるいは過ごした人間も多いわけです。

 さて、話を『イケてない10代』に戻すと、主人公の悩みは単純で、彼氏ができないこと。
 単純だけれども、解決するのが非常に難しい問題だ。
 彼氏ができないのはさておいて、クラスの男子と話すことすらできないのがこの主人公だ。
 もちろん、その背後には、見た目に関するコンプレックスがある。自分は、「おしゃれグループ」のように華やかではない。少しおしゃれをしようとするけれど、それは「自分には似合わないんじゃないか」だとか、「高校デビューしてるけど、あの子似あってないわ、と陰口をたたかれるんじゃないか」とか、そういった心配が頭をもたげてきて、結局、大人しく、控えめな外見のまま。外見に自信が持てないから、積極的に、男子に話しかけることもできない。
 他方、女友達に関しては、仲良くしている女の子はいるが、二人とも男の子とふつうに話せて、彼氏もいる。思春期特有の、性に対する関心もあって、ヤッた、ヤらない、ホテルに行った、行かない等々。そんな会話に、どう参加していいのか困る。

 こうして、色々と書きならべてみると、男と女の悩みは、さして変わらないということに気付く。
「話しかけられない」というのは、たとえば、自分も周りみたいに、隣の席の相手と、軽口や冗談を言い合ってみたいとか、そういう願望が叶えられないことなのだ。
 こういう悩みは、男女関係なく、抱くものだ。とくに、思春期ということもあって、「気になっている相手」に対しては、なおさら悩むものである。
 軽く話しかけたら、相手は自分を見て、「何こいつ、友達でもないくせに」という反応をしないだろうか。この点が非常に気がかり。冗談めかして話しかけても、「は?」という反応をされる公算が大。とても声を掛けられない。
 著者は、これを「結局は、嫌われたくない、自分が傷つきたくない」といった趣旨でまとめるが、とはいえ、傷つきたくないというのは人間の心情で、こういう不安を馬鹿にするわけにもいかない。

 ここで、悩みの種を分析するとき、「外見に自信がない」ということが、問題の解決を妨げていることがわかる。
 要するに、話しかけられない理由というのは、相手との関係が乏しいからなのだが、「自分の外見が美しい」と言えるのであれば、もっと積極的にかかわって行けるのだ、と。
 これは、反対から考えてみると、「見た目が良ければ、急に話しかけても大丈夫」という認識が、実は背後に存在するのである。
 相手を自分に置き換えた時、「あんまり仲良くない人から話しかけられても困る」と考え、「は?」という反応を恐れるのだが、他方、「仲良くなくても、見た目の良い人から話しかけられるのは困らない」という認識があるから、「外見に自信のないこと」が、「話しかけられないこと」に接続するのである。

 この認識が、間違っているとは言い切れない。
 誰だって、かわいくない子よりはかわいい子と、カッコよくない人よりはカッコいい人と、話したいと思うだろう。もちろん、個人にもよるが、そういう認識の方が、数としては多いと思っている。

 とはいえ、「外見に自信がないから、話しかけられないのは仕方ない」とやってしまっては、そこで終わりである。もちろん、見た目を良くするよう、努力することはできるが、化粧だったりエステだったり、果ては整形だったり、なかなか金がかかる。そもそも外見というのは、自分にはどうしようもできない部分もあるから、これを理由にして問題の解決を諦めるのは、やや潔すぎる。
 また、見た目の良さを、少々特別視しすぎている嫌いもある。
 テレビに出ている芸能人と比較すれば、それは劣ると言えるかもしれないが、同じ中高生の中で、外見の差にはっきりとした優劣をつけるのは難しい。

 さらに、見た目に関して言うと、誰しも自分をかわいい、カッコイイと思う反面、ダサイと思う部分も抱えている。
 要するに、あの人は「全体的に」かわいいから、カッコいいから、「特別なんだ」と思わないことである。たいていの場合、自分のことを全部「好きだ」と肯定できる人間はいない。誰しも、外見には自信を持っていないもの、とも言えるのだ。

「全面的にかわいい、カッコいい」など、相手を特別視したがる人は、自分をも特別視したがる傾向があると私は思っているが(そして、そういう傾向は、人間には普通、備わっているものだと思っているが)、相手も自分も、さして変わらない、という感覚を持つことが、相手とコミュニケーションをとるにあたっては、重要である。相手が特別で、自分はそうでない、と思ってしまったら、コミュニケーションを取るのに怖気づいてしまうのは、考えられることだからだ。だから、相手も自分も、特別ではない、と意識することが必要になる。
 そして、これに則って考えてみると、「自分が話しかけるのに、そのきっかけを待っている」という場合、相手の方も、それを「待っている」のだと解釈することは可能である。
 中高生の話であるから、それを念頭に置いて考えてみると、「同じクラスにいる奴と、別に話したくない、友達になりたくない」と考えている人は、いないことはないだろうが、かなり稀な人種である。また、仮に相手が、かわいくない、かっこよくないから、あまり話したくないな、と思ったとしても、それを理由にコミュニケーションを拒絶することは、まずない。というのは、そんな理由で他人を拒絶する奴は、周りから排斥されてしまう、と考えるのが通常だからだ。
 すると、見た目が良くないから、コミュニケーションを拒絶されることはなく、まだ友達じゃないから拒絶されるということもない。
 何より、向こうも、きっかけさえあれば、しゃべってみたいと思うのが普通ではないだろうか。仲良くなれるかどうかは、しゃべってみてから判断すればよく、そりが合わないと考えれば、それ以上、仲良くしなければいいのである。しかし、その判断をするためにも、しゃべってみなければわからない。肌が合わないと思っていたけれど、しゃべってみたら良い奴だった、というのはよくある話だ。

 さらに、自分も相手も一緒、大して変わらない、という発想は、相手が男で自分が女でも、またその逆でも、大きな違いはない、ということにつながる。
 男も女も、異性としゃべってみたいという感覚に変わりはない。そして、よほどのことがない限り、コミュニケーションの最初の段階で、拒絶されることはまずない。相手もまた、自分のことを知りたい、と思っている。ただ、その扱いに困っているだけなのだ。異性の扱いというのは、どうしても、「性」という、道徳的に隠されているべき物の存在を意識させる。この取扱いに困るのは、いわば当たり前のこととも言えるのだ。

 ということだから、自分はこうこうこうだから、相手と話すことができない、という風に考える――もっと言えば、「相手と話す資格がない」かのように、思わないことである。
 話すためには、資格が必要なほどの「特別」な相手は、通常いない。また、話す相手が限定されている人間というのも、通常いない。
 相手も自分も同じ人間なのだから、しゃべって何が問題なのか。こういう風に意識することが重要だ。ちなみに、どちらも同じくらい優れた人間だ、と思うよりは、どちらもどうせ大したことのない人間なのだから、と思う方が、気楽で良い。

 ……このように書いてきてみると、その昔書いた、「好きな人の連絡先を聞けないということ」という記事に関しては、見解を改めなければならない箇所もあると思う。
 子どものような人は、「相手の立場に立って物事を考えられる」と書いてはいるが、その「相手の立場」とは、「完全な相手」ではなくて、「自分の分身」であるのだから(もちろん、自分も相手も、同じように大したことない、という発想は、一面に置いて、相手の立場から物事を考えている。しかし、上記の記事は、そういう文脈で物事を語っていないように思う)。

 最後に注意点をいうと、話す時は、相手の目を見ることが大切である。まだしゃべったこともない人間に、目を合わさずに話しかけられても、それが自分に向けられた行動だと判断するのは難しい。そうすると、相手からしたら自分は、宙に向かって話しかけている「挙動不審」な人間であり、関わりたくないと考えるのが通常だからだ。
 口調がやや変になるくらいは、緊張しているということで、流してもらえる。誰だって、初めて人と話すのは、緊張するのだから。

 ……さて、そうすると、「しかしいったい、相手とは何を話せばいいのか?」という疑問が、真面目な人には湧いてくるのではないか。
 この問題もまた、ある種の人にとっては、なかなか解決の難しいものがあると思う。
 別の機会に、また考えてみたいと思う。
 

 悩んでいると、そのうち、悩むことそれ自体に、満足し始めてしまう危険がある。
 その危険を取り除くには、何のために悩んでいるのかを意識しなければならない。
 とはいえ、何のために、すなわち、何かの問題を解決しようとして、その方法に思い悩むというのであれば、それはまだ楽である。
 あまり悩む必要がない。自分に出来ることは限られているから。

 悩むことそれ自体が目的となっている場合、そもそも、何か解決すべき問題があるのかどうか、見つめなければならない。
 それは、あると言えばあり、ないと言えばない、といった類の問題である。
 このあいまいさ、相対性が、悩みをより深くする。
 合理的で、効率的であることを考えると、すなわち、自分の行動は、無駄のないものにしたい、ということを考えると、問いの立て方の時点で、立ち止まってしまう。
 こんな問題を、問題と捉えて、はたして何か意味があるのか、と。
 確かに、「解決しようとする」作用そのもの、運動そのものに価値を見出せば、それはいかなる問題であっても、意味があると言うことができる。
 しかし、これはすぐにわかることだが、こうした「運動そのもの」は、運動者自身を除いては、まったくの無価値である。
 その点が、悩める者には大きな障害となる。
 他の人の役に立っていない、という感覚が、どうしても付きまとってしまう。生産性のなさは、自信を喪失させやすい。
 自分を特別な存在だと思っている者は、なおさらである。
 こうして、何を為してよいかわからず、結局、悩み続けることになる。
 とくに、こうした人間はえてして、悩むことが高尚だと、考えてしまう場合がある。

 確かに、悩むことは、悪いことではない。
 それは、たとえば、何かの決断をしなければならないときに、選択肢を比較し、吟味検討する場合である。
 どちらの選択肢にも、メリットとデメリットがあり、かつ、それなりの合理性もあるという場合、これは非常に悩ましい選択となる。
 どちらをとっても良く、どちらに転んでも、不正解とは言えない。
 しかし、どちらを取ったとしても、必ず何か、うまくいかなかったり、デメリットを背負い込まなければいけなくなる。いわば、リスクのようなものだ。
 こういう場合に、短絡的に片方を選んでしまうのは、具合が悪い。よく、「仕方がない」という言い方で、簡単にどちらかに決めつけてしまうことがあるが、あまり良い態度ではない。こういう場合にこそ、悩まなければいけない。
 ただし、最終的に決断を下さなければいけないのだから、悩み続けることもよくない。
 こうして、双方のリスクを勘案したうえで、片方のリスクを選ぶことになる。
 そして、ここで悩むべきことは、選んだからこう、ということに限らない。選んでしまって、ある程度結果が出始めていたとしても、はたしてその選択が正しかったのか、注視し続けなければならない。それは、後の選択の機会における判断の素養となるのだから。

 ……と、こういう意味で、悩むことは、悪いことではない。選択を前提とした悩みは、むしろしなければならないものだ。
 けれども、選択をせずに悩み続けることは、本質を見誤っているように思う。
「生きるために食う」のであって、「食うために生きる」のではない、という趣旨のことが、武者小路実篤の『人生論』の一節にある。それと同じで、悩むこともまた、選択するために悩むのであって、悩むために選択するのではないことは明らかだろう。

 ということで、解決すべき問題を、ともかく立てることが重要である。そして、その通り行動してみなければならないだろう。
 悩むということは、行動を選択するためにある。
 ありきたりのまとめなのだが、ありきたりであるということは、大きく間違ってはいない、ということでもある。
 ともかく、何らかのことを課題と認識し、行動した後で、本当に課題と言えるものだったのか、悩めばよい。
 夏休みも、あとわずかなのだから。 

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