仲の良い友だちと話している分には、お互いに共感するところが多いと思う。

 しかし、世の中、共感できる意見ばかりではないわけで、というよりむしろ、共感しづらい意見の方が多い場合もあるだろう。
 そういうときに、無理に共感する必要はなくても、相手の立場、すなわち、相手がその見解に対して肯定的な印象を抱くことへの理解が、ある程度は必要なのではないか。

 もちろん、言葉で言うのは簡単だが、実践するにあたってこれほど困難なものはない。相手の立場を想像するということは、突き詰めれば、自分の感受性が狂っていると想像することになるのだから。

 そんな感じで、友人と盛り上がった後に、はたして何も言わず、無条件に共感していてよかったのだろうか、と少し思った。
 が、考えてみると、その友人としゃべっていた内容というのは、だいたい、上に述べたことに近いのだ(……私の理解によれば)。
 つまり、何を言うにしても、見解の違う立場への想像力は必要だと、こういうことである。

 ……もっとも、やはりこれは、「当事者」としての立場では難しい。
 実際に、共感されないことによって、自分の周囲に味方がいないことによって、大層息苦しく感じている人は大勢いる(……のだと思う。この辺り、言い切れるほど、自分は他人を見ていない)。
 しかし、彼らのポジションにおいて、他人への想像力を働かせるべきだと言ったところで、およそ無理難題だと思われるのだ。そもそも、自分の権利を主張するのにやっとなのだから。

 そういうわけで、「当事者」ではない、「第三者」的な立場からの視点が重要になる。
 ここで大切なのは、その「第三者」は、どちらか一方ではなく、双方に対して想像力を働かせなければならないのだ。Aの立場から見、Bの立場から見、そして最後に自身の立場、すなわち、より客観的な視座に立って、物事を判断するべきだろう。

 要するに、こういう見解に対する「共感」を、友人との間で楽しんでいたわけだが……。
 さて、これに反対する立場を想像するのは、なかなか厄介な気もする。

「しかし、それは口先だけで、あなたが完全な『第三者』となることはできないでしょう。なぜなら、あなたは必ず、AかBかのどちらか、あるいはその双方と、社会を共通にするのだから。したがって、AかBのどちらかに共感しうる立場にいるはずである」

 ……みたいな、批判になっていないような批判しか思いつかない。
 まあ、「あなた」というのを、「判断する人一般」という風に置き換えてみると、それらしくは聞こえるかもしれない。
 とはいえ、こうした言い分を通すとすると、つまるところ、「判断を下せるのは、全知全能の神のみ」のような結論に行き着かざるを得ないと思う。「神」という存在は、人間と社会を共有していないだろうから。
 現実世界がゲームであれば、それでもいいかもしれないけれど、現実はそうではない、というのが一般的・普遍的な了解事項だと思う。 
 そうすると、やはり、人間が人間の見解に対して判断を下す以上は、ある程度は仕方なく、その一方で、判断する者がなるべく「第三者」的な立場、「神」的な立場に身を置こうとする努力をしなければいけないのだろう。その上で、その判断を受け入れる必要があるだろう。

 ……まあ、つらつらと書き連ねてきたが、法学部というのは、だいたいこういうことを学んでいるのです。
 どことなく、原告と被告と裁判所、という三面関係と似ているでしょう?