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なんだか、切ない印象を受ける言葉です。
言葉は一つですが、その背景には、いろいろな現実が潜んでいます。
いま、とても幸せなのに。
この幸せも、やがて失われてしまう。
そういう儚さ、虚しさ、やりきれなさが見え隠れします。
とはいえ、これに対する返事も、私たちはどこかで知っている。すなわち、
「それが『いま』というものだ」
というもの。
なんだかはぐらかしたような言い方ですが、しかし「いま」とは、「永遠に続かない」性質を持っている、ということを、私たちはすでに了解しているのではないか。
そういう気がしています。
そうすると、問題は、この「了解」はいかにして生ずるのか、という点です。
私たちは、学校で、「今、というのは、永遠に続かないものなんだよ」とは教えられません。「これはキリンって言うんだよ」、「これはゾウ」、「これはリンゴ」等々。そういう風に、言葉を教えるようには、「今」というものは教えられません。
むしろ、それと気づかぬうちに、「今」とは「そういうものだ」という感覚が芽生えているのです。
一つの言い方として、それは「あらかじめ知っている」というものがあります。
これは、人間に身についている、「時間感覚」と言うべきでしょうか。
つまり、人間の「時間感覚」とは、「今は永遠には続かないこと」を「知っている」という点にあるのではないか。
ただ、これでもやはり、前の問いを言い換えたに過ぎない。結局、「それを知っているというのは、どこからくるのか」という問いに答えられない。
もう一つは、「今」とは、「永遠に続かないもの」として「切り分けられた」ものだ、ということ。
これは、どちらかと言えば、「経験的に知る」というにおいが強い。
というのも、「切り分ける」という発想は、「空間的思考」に依っているからだ。
ここでは、「空間を切り分けられるのはなぜか」という問題が、先ほどの、「了解の根拠」を問うものとなる。
カント的に言えば、「空間」とは「人間に与えられた直観の形式」であり、物事を認識するための作用として、人間に初めから備わっている能力だ、ということになる。
こうした「空間」を把握する能力に従い、「時間」を空間的表象に引き直して、「今」を、「切り分けられるもの」として認識する。
これが、「いまは永遠に続かない」ことを「知っている」ということの意味だ。
そう、言えなくもない。
だが、これでは結局、「なぜ今は永遠に続かないのか」という問いに、うまい答えをつけることができない。「今とはそういうものなのだ」というのが答えであるが、だとすると、この質問者は、「何を感じてこの問いを発するのか」という点を、つかみ切れていない気がする。
そうすると、「永遠に続かないのはなぜか」という問いを持って、その対象としているのは、「今」と言い表して良いものなのだろうか。
むしろ、もっと別の、違うものを指しているのではないか。
そういう疑問が浮かんできた。
それにしても、「なぜ、いまが永遠に続かないのでしょう?」という問いは切ない。
考えてみると、自分が書いた『ハイド』に出て来るヒロインもまた、そういう儚い気持ちに満たされていたのではないか、とそう思えてきた。