ロープを知る

The Official Blog of Model Ship Builder's Club "The ROPE"

2015年12月

こんにちわ。

たまたまWOWOWで11月に放送された映画の中に、17世紀の英蘭戦争を題材にした映画があったので鑑賞したところ、帆船の戦艦同士の戦闘シーンが多く、HPのDVD紹介に掲載しても良いかとと思いご連絡します(すでにご存じかもしれませんが)。

2015年の映画ですが公開されなかったようで、私もWOWOWで観て映画の存在に初めて気づきました。

映画はオランダ共和国の提督、ミヒール・デ・ロイテル(1607年~1676年)を主人王にした映画ですが、海戦シーンがほぼ半分を占める様な映画です。艦隊同士の戦術や操船などを鳥瞰したシーンもあり、船上で攻撃を受けたシーンなどは非常にリアルに撮影されていると思います。

DVDは2016年2月の発売予定なのでまだ手に入れることは出来ませんが、WOWOWの映画紹介ページURLを下記に貼り付けます。アマゾンのサイトでは「提督の艦隊」で検索すると確認されます。

提督の艦隊|映画|WOWOWオンライン
http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/107323/index.php?m=01

(会員:小野 享司 記)

(注)こちらのブログに「提督の艦隊」を詳しく紹介してあります。

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2015年(平成27年)のザ・ロープ創立40周年記念行事の一つとして6月に行ったイギリス南部の旅行に続いて国内旅行を企画した。瀬戸内海は古代より大和に通ずる海上交通の要衝であるが、中でも芸予諸島はその中間に位置しており、寄港地としてまた船の修理地としても各時代を通して大いに栄えたところである。6組のご夫婦を含む22名が参加、11月10日から13日までの3泊4日の旅行となった。

最初に全員福山に集合し、尾道から『瀬戸内しまなみ海道』に入り、六島七橋をめぐり、主として近世に活躍した村上水軍ゆかりの地を中心に訪れた。続いて『安芸灘とびしま海道』にわたり、同じく六島七橋をめぐり、主に江戸期の北前船をはじめとする通商航路として繁栄し遺構の残る港町を訪ねた。呉に入ってからは倉橋島の和船歴史館、大和ミュージアム等を訪問。最後は江田島にわたり海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)を訪れ、海路にて広島にわたり現地で解散する旅であった。

いずれの地でも高齢のボランティアガイドの方たちの熱心な案内に旅の楽しさも倍加したことが印象的であった。ややハードなスケジュールではあったが、歴史を実感することができる有意義な旅であり、全員元気で4日間を通して楽しく相互の懇親を深めることができた。参加された4名の方に代表して旅行記を書いていただいた。

今回のツアーは現地集合、現地解散ということもあり、新幹線を利用される方、飛行機を利用される方、前日の内に福山近辺まで入られ倉敷市内を観光された方、あるいは姫路城等を観光された方など、それぞれ思い思いの方法で新幹線福山駅改札口前に集合した。

集合時間の11時50分には全員無事到着といきたかったのだが、お一方が到着時間を勘違いされ1時間程遅れるとの連絡が入り、ツアーでお世話になるニコニコ観光の常務さんに後から車で追いかけてもらうようお願いし、我々は用意された観光バスに乗り込み、本日の最初の目的地、因島水軍城に向けて出発。6名の方が奥様を同伴、10名の方が単身で参加者は総勢22名である。

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因島大橋より瀬戸内を望む

晴天に恵まれ、旅の初日から大変気分がいい。今回のツアーに同行してくださる女性ガイドの荻野さんの軽妙な説明を受けながら、尾道市内を抜け、いよいよ「しまなみ海道」へ。新尾道大橋を渡り最初の島<向島>の色づき始めた紅葉を楽しみながら、さらに因島大橋を渡り<因島>に。

ここには室町・南北朝から戦国時代まで瀬戸内海で活躍し勇名をはせた村上水軍にまつわる資料を展示した因島水軍城がある。昨年本屋大賞を受賞して一躍ベストセラーとなった和田竜さんの小説{村上海賊の娘}の影響もあり、今や大変な注目を集めている村上水軍に関する歴史資料が多数展示されているところだ。

村上水軍はもともとは一つの家であったといわれているが、因島村上・能島村上・来島村上の3家に分家した後も互いに強い同族意識を持っていたという。毛利元就と陶晴賢の厳島合戦で毛利に加勢して勝利をもたらし、また織田信長との木津川口海戦で織田水軍を壊滅させたのは、まさにこの中の一つ因島村上水軍である。

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因島水軍城の麓で

この因島水軍城は海岸線からかなり離れた丘陵地の丘の上にあり、昭和58年に築城されたもの。もちろん村上水軍の城として実際に使用されたものではない。因島村上氏の残した武具・甲冑・遺品・古文書等とともに彼らが使用していた船の模型も展示している全国でも珍しい城型の資料館なのだ。

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因島水軍城(手前は因島村上水軍旗‐上の線は2本)

我々のために館内の展示物について説明をしてくれたボランティアガイドの方は、我々の団体が帆船模型を作っていることや船に興味を持っていることを旅行社から予め知らされていたようで、村上水軍が使用していた三種の船、安宅船(あたけぶね=船首から船尾まで総矢倉として、厚い板で装甲された船。装甲には、矢や鉄砲を撃つための隙間がある。指揮官が乗った船)・関船(せきぶね=早舟ともいう。とがった船首とスマートな船体をした船。板などで装甲するのと同時に軽量化も図られていて、軽快な動きができる)・小早(こはや=小型の早舟(関船)のこと。ほとんど装甲していないので、関船よりさらに軽快な動きができる)について詳しく説明をしてくれたうえ、メンバーからの質問に対しても丁寧に答えてくれた。

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因島水軍城の内部ー左から「小早船」「安宅船」「関船」

見学を終えバスに戻ると、福山駅集合時に遅れたメンバーがここで何とか追いつき合流。全メンバーが揃ったところで次の目的地<大三島>にある大山祇(おおやまずみ)神社に向け出発だ。因島から<生口島>へつなぐ生口大橋を渡り、更に<大三島>へとつづく多々羅大橋を渡って<大三島>に入る。

ここには日本総鎮守と呼ばれ、全国に約1万社余りの分社を持ち、古代より山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めてきた大山祇神社がある。境内中央には樹齢約2600年のご神木である大楠が鎮座しており、境内横手にある宝物館には国宝・重要文化財に指定された鎧・兜・刀剣類が数多く収蔵・展示されている。源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定を受けた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっているという。

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大山祇神社ご神木‐樹齢2600年の古楠
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大山祇神社拝殿

近代においても、日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちが参拝。現在でも海上自衛隊・海上保安庁の幹部などが参拝されているそうだ。ここを訪ねる前は日本総鎮守ということもあり、勝手に壮大かつ荘厳なイメージを抱いていたが、いざ来てみるとむしろ質素で素朴な感がする社殿と境内に、“なかなかいい雰囲気の神社だな”との印象をもって参拝した。

参拝を終え、次の目的地<大島>の村上水軍博物館へ向けて出発。大三島橋を渡り伯方の塩で有名な<伯方島>を通り抜け、さらに伯方大島大橋を渡って今日の宿泊地でもある<大島>へ入る。実は途中の<伯方島>には学生時代に来たことがある。同じサークルの同期だった“村上君”の故郷で、夏休みに訪ねて行って泊めてもらった記憶がある。いま思い返せば当時彼の近所の家々がみんな村上性であった。皆さん村上水軍の末裔だったのかもしれないなー、そんなことを考えているうちに今治市村上水軍博物館に到着した。そうか、ここ<大島>は広島県ではなく、四国・愛媛県の今治市に入るわけだ。

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大三島海事博物館

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村上水軍博物館前の能島水軍の「小早船」のレプリカ(軍旗の上の線は3本)

戦国時代、来島・因島・能島の村上三家はその強力な海の武力を背景に、瀬戸内海の広い地域を支配し、国内の軍事・政治や海運の動向をも左右していく。来島城を本拠とする来島村上氏は早くから守護大名河野氏と結びつき、因島村上氏は大内氏のち毛利氏の有力な水軍となる。そして、現在の今治市宮窪(能島)に本拠を構えた能島村上氏は三氏の中で最も独立性が高く、村上武吉はどの大名にも臣従せず、独自の姿勢を貫いたようだ。

この武吉の時代に全盛を謳歌する能島村上氏は、西は九州から東は塩飽諸島に至る海上交通を掌握し、戦時には小早舟を巧みに操り、火薬を用いた戦闘を得意とした。その一方で、平時には瀬戸内海の水先案内、海上警護、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担う重要な役割を果たしたのである。この村上武吉とその娘“景”の波乱万丈の生き方を描いた小説がベストセラー{村上海賊の娘}だ。

閉館時間が迫る時間に到着したにもかかわらず、館長自ら映像を交えながらの村上水軍にまつわる説明をしてくれた。メンバー各々が熱心に館内見学をしたこともあり、退館するころには閉館時間を過ぎていたが、我々以外の見学者は誰もいなかったようだ。

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左から「安宅船」「関船」「小早船」

一日の観光予定をすべて無事終了し、一路、本日の宿泊地である「海宿 千年松」に向かう。この宿の売りは、すぐ目の前に広がる美しい砂浜、地元漁師採りたての新鮮な海の幸、瀬戸の絶景が一望できる海水露天風呂、楽しみですねー。

旅館に到着すると、確かにすぐ目の前には砂浜が広がり、宿は他に一軒もなく、まるでプライベートビーチのよう。割り当てられた部屋に落ち着き、早速用意された浴衣に着替え、部屋のテラスに出てみれば夕闇迫る今治市の夜景、瀬戸の小島郡の絶景が一望できる。

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「千年松」の前面海岸‐対岸は四国、今治

海水露天風呂を浴びてさっぱりしたところで、全員お揃いでの夕食会。田中会長の挨拶と遠路はるばる青森から参加された肴倉(さかなぐら)会員による乾杯の音頭で宴会は始まり、美味しい料理を堪能しながら、参加者一人ひとりが自己紹介を兼ねた挨拶をし終始なごやかで賑やかな雰囲気で大いに盛り上がりました。しかしまだツアー初日。参加者の平均年齢を考慮し、翌日に備えて当初の予定時刻を少し過ぎたところでお開きとなった。
(市川三郎記)

→しまなみ海道、とびしま海道、大和ミュージアムを訪ねてーその2

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瀬戸内海の夕景

2日目は「安芸灘とびしま海道」を中心に瀬戸内海の西側をバスとフェリーで巡り、最後に平清盛ゆかりの音戸の瀬戸で終わる旅である。1日目の水軍とはちょっと異なる視点で、平安時代から江戸、明治時代にわたる瀬戸内海を舞台にした日本の歴史とロマンを巡る旅でもある。

四国に近い大島南端のお宿は、すぐ前の砂浜から絶えず潮騒が聞こえ、その向こうには遥か来島大橋、四国の今治まで見渡せる非常に素晴らしいロケーションを持つ。2日目は早朝この朝日に輝く海辺の散策から始まり、自慢の地元食材を使った美味な朝食を堪能した後、8時30分に全員バスに乗り込み旅がスタートした。

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早朝この朝日に輝く海辺の散策(上)、お宿の前で海をバックに(下)

1日目の「瀬戸内しまなみ海道」ルートを一部戻った後、今度は大三島を西に走り、島の西端にある宗方港からはバスに乗ったままフェリーに乗り込み、「とびしま海道」の起点岡村島に向かう。何故両海道を繫がないのかと最初疑問に思ったが、その疑問はすぐ解けた。船から見る景色は橋上からのそれとは全然違うのだ。走る船のデッキから潮風に当たりながら眺める瀬戸内海の海面や島々は、その表情まで肌で感じられる。時間に余裕があれば、是非船旅をお勧めしたい。

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(上)来島大橋(対岸は今治)、(中)大三島 宗方港から乗船、(下)宗方港から岡村島へ向かうフェリー船上

大崎下島の御手洗地区散策では、国の重要伝統的建造物群に指定された船宿、商家の町並みが整然と残されているのにまずビックリ。最盛期には300人程の遊女を抱えた日本最古の遊郭の一部や演芸場も残っている。ボランティアガイドさんの丁寧な案内で隈なく地区内を散策、乙女座という懐かしい造りの演芸場では民謡まで披露して頂いた。

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大崎下島‐江戸時代の気配が残る御手洗地区の町並み

江戸~明治にかけて北前船の中継貿易港として西日本の物流の拠点となり、商人の町・大阪の次に栄えた町の面影が偲ばれる。また幕末には坂本龍馬、西郷隆盛、桂小五郎、高杉晋作らも訪れ、四国同盟はこの地で結ばれたことを知る。なるほど監視が行き届かない優位性だけではなく、地図で見ると薩長土と京都との距離関係からも最適な場所であることが判る。

「何故これだけの町並みが残っているのか」であるが、昭和32年の売春防止法の施行によりこの地区は急速に衰退し、その後の経済発展にも乗り遅れた為、皮肉にも古い町並みが建て替えられることもなく残ったとのことである。今ではこの荒れ果てていた町並みも島民の努力により国からの指定を受けて復元され、観光の島としての再生に取り組んでいる訳である。

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若胡子屋(わかえびすや)跡。主屋の梁に屋久杉を使うなどの贅をこらした店構え、最盛期には遊女や芸妓を100名以上抱えていたという

「御手洗」という地名はこの地を訪れた菅原道真が厠で手を洗ったことから由来しており、現在その地に天満宮が建立されている。天満宮といえば梅の木だが何故か境内のほとんどが桜だった。気象風土の関係で梅は育たないのかもしれない。樹木といえば大崎下島に限らず瀬戸内海の島々では蜜柑を中心に柑橘類栽培が盛んで、いたるところに蜜柑一袋100円の無人販売所がある。お蔭でバス内では常に新鮮な味覚を楽しんで貰うことが出来た。

また、船宿跡に造られた元船大工さんの作業場を訪れた時は、遊女を乗せて沖の船まで運んだという「おちょろ船」や「北前船」の模型を前にして、一瞬にして皆さん帆船模型モデラーに戻り、目がきらきら輝いたのにはビックリ。ガイドさんは予想外の長滞留にはらはらであった。

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85歳の元船大工(上)と「おちょろ舟」(下)

次に訪れた下蒲刈島の三之瀬地区は、朝鮮通信使が来日の際、盛大なもてなしをした歴史を持つ地区である。現在は豊かな自然と日本古来の風習を生かした全島庭園化事業を精力的に進めており、毎年朝鮮通信使再現行列等のイベントも行われている。この地区の主な施設建造物として松濤園、白雪楼、蘭島閣美術館があるが、建物、お庭、展示物のいずれも見応えがある。中でも対岸の島や海を借景とした松濤園の回遊式庭園は四季折々に楽しめる。

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下蒲刈島 三の瀬地区(向こうは蒲刈大橋)

三之瀬御本陣芸術文化館は朝鮮通信使来訪当時の外観を復元し、内部には使用された帆船の模型やおもてなしの様子を示すジオラマも展示されている。皆さんの目はやはり帆船模型に集中したのは言うまでもない。我々帆船模型モデラーにとって、その船の外観形状や構造だけではなく、その船が使われた歴史的背景を知ることもこの趣味の醍醐味であり、その意味でこの島の訪問も大変有意義であった。

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朝鮮通信使船の模型(韓国 元仁古代船舶研究所製作)

最後に訪れた音戸の瀬戸は、とびしま海道から一旦本土に上り、山陽道を西に走って呉から再度南下したところに位置する。平安時代、平清盛が夕日を招き返し、1日で切り開いた(実際は10ヶ月の工事を経て、最後の仕上げが1日)という伝えのある景勝地である。現在は客船、貨物船、高速船等が引っ切り無しに運航する海の要所となっている。シンボル的存在の旧音戸大橋に付属の「らせん型ループ橋」は実際に通行するとしないとでは大違いで、その規模の大きさに全員から感嘆の声が上がる。

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音戸大橋(通称 日招き大橋、向こうは旧音戸大橋)

音戸の語源は「穏渡」から来ており、戦前は海軍基地への敵の侵入を防ぐため、浅くて狭かったという。戦後に漸く今日のように拡張されたとのことである。当時を偲ばせるものは運河の隅に鎮座する清盛塚と扇子を持った清盛のレプリカ像だけであるが、清盛の「先見の明」を再認識する機会にもなった。この地区には平家ゆかりの史跡がまだ多く残っているとのこと、再度ゆっくり散策したいものである。

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平清盛像(上)と清盛塚(下)

説明頂いた我々と同年配のボランティアガイドさんは、熱心に質問する我々に共感されたのか最後に「音戸の舟唄」を朗々と謡われた。その美声と声量に全員感激、2日目の旅の素晴らしい締めとなった。

(田中嘉明記)

→しまなみ海道、とびしま海道、大和ミュージアムを訪ねてー3日目

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てつのくじら館は1986年に就役し、2004年に退役した海上自衛隊の潜水艦 「あきしお」(実物) である。「大和ミュージアム」に隣接するスペースに全長76メートルのずんぐりした潜水艦の巨体がドーンと横たわっているのはかなりの壮観である。


さて、3日目の11月12日は盛りだくさんで中身も濃い。

呉駅前の阪急ホテルからバス、呉港に沿って「旧呉海軍工廠造船部」や工場地帯を見ながら南下し、昨日見た音戸を通って倉橋島へ渡る。島の南、桂浜を望む海岸に1992年に開館した「長門の造船歴史館」があった。私は最初勘違いして、ここが戦艦長門を造った造船所だと思っていたのだがさにあらず、この倉橋島はかつて「長門の島」と呼ばれていたからだそうだ。

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ホテルを出発するバスの中で

博物館には海へ向けた大きな空間が開けており、そこに復元された「遣唐使船」が鎮座まします。全長25m、幅7m、100t弱、二本マストは中国のジャンクのごときである。帆は取り外してあったが竹材を編んで織った網代帆である。1200年以上も前のこの船をどうやって復元したのか、白と朱に塗り分けられた船体と宮作りの船室が鮮やかである。

この島では昔から木造船の建造が盛んであったとされる。それはそうだろう、小さな島が点在する瀬戸内海では唯一の交通手段が船であったことを考えれば至極当然のことだといえる。江戸時代に編纂された「芸藩通志」には『倉橋島に古くより船匠多くあり・・・昔の船造も此地なるべし』とあって遣唐使船や豊臣秀吉の軍船などもこの地で建造されたと伝えられている。館内には遣唐使船を始め鰯船、漁船、石船、猪牙船、など種々多様な和船の模型が並んでいた。

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(上)「長門の造船歴史館」復元された遣唐使船(下)阿倍仲麻呂の昔に思いを馳せつつ桂浜をバックに記念撮影

次に呉市内に戻り、「海上保安資料館」に向かう。資料館は「海上保安大学」構内にあり、空っぽで誰も対応に出てこない。どうぞご勝手に、である。展示物は巡視船艇、飛行機やヘリの写真や模型などが並べられているだけであまり迫力あるものとは思えなかった。

ここは映画やテレビが大ヒットし、お馴染みになった「海猿」の世界でもあるのだが、映画のポスターや俳優達の色紙などが飾られていたのは、何となく淋しげであった。しかしながらアメリカでの同時多発テロ事件以降、多発する国境紛争などを見ても海・空の守り安全がいかに大切かよくわかる。現にここには2003年に九州南西海域不審船 (北朝鮮工作船) 事件で銃撃を浴びた巡視船「あまみ」の船橋部分が弾痕そのまま展示されていて「ううむ、ヒトゴトではないな」と考えさせられる。
我々の旅行が終った翌14日早朝にパリで同時多発テロが発生した。この事からも陸の国境を持たない我国の海上保安の重要性が再度問われている。

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(上)人気のない「海上保安資料館」(下)昼食は呉駅近くの大きなホールで刺身、鍋付きの豪華会席風定食

さて、午後一番は今回旅行のハイライトの一つ「大和ミュージアム」である。このミュージアム、正式には「呉市海事歴史博物館」。ここの最大の呼び物はあの戦艦大和の十分の一巨大模型である。なるほどデカイ!圧倒的にデカイ。実物の正確に1/10であるから全長26.3m、最大幅3.89m、正に威風堂々とした大戦艦である。

ここで大和について多くを語る必要はないだろう。日本人であれば誰でもが大和に関してはほどほどの知識と一種特別な感情を持っているからだ、と私は思っている。
そう、戦艦大和には誰だって思い入れがある。私だってそうだ。いや、私の場合チョイと他の人達とは違うのだ。というのは、かく言う私は皇紀2600年 (西暦1940年、昭和15年) 8月7日に生まれた。そして戦艦大和は私が生まれた翌日の8月8日に生まれ(進水し)たのである。大和はわずか4年8カ月しか生きなかったが、私は今年75歳になった。

吉田満の「戦艦大和ノ最後」は隅から隅まで読んだし、この本を元にして製作された映画「戦艦大和」は私が中学生になったばかりの1953年に封切られ、何度も観た。無論2005年の「男たちのYAMATO」もそうだったし、親類の「宇宙戦艦ヤマト」だって全部観ている。我家にある「戦艦大和」 (プラモだが) は1/200のスケール、全長131.5cmもあり、置き場所に困っている。

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(上)1/10の「大和」(下)皆で前に並ぶとその大きさが分かる


ミュージアムの巨大な大和の模型や、同じフロアの零戦のレプリカを見るザ・ロープの面々の眼差しは食い入るようであった。寄ってたかって質問攻めにする我がグループの男たちに、ボランティア説明員の斉藤さんの解説も熱っぽい。答える斉藤さん「よくご存知ですねえ」から「ホント、お詳しいですねえ」に、そして「いや、おっしゃる通りです」「いや全くその通りです」と言葉がだんだん変わってくる。

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(上)ボランテイア説明員の斉藤さんを質問攻めに(下)斉藤さんも負けじと熱弁をふるう


こんな男たちを見守っている奥様方の眼差しは「夫」というよりはまるで「子供」を見守る母親のようであった。「まあ、あんなに夢中になっちゃって」といった塩梅に。

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奥方たちは「まあ、ウチの子は・・・・」奥方たちは「まあ、ウチの子は・・・・」

ミュージアムは平日なのになかなかの賑わいだ。子供達からシニア層に至るまで、年齢層は多様である。大変に結構なことである。この場所が戦争の肯定や賛美につながるものでなければ。

大和ミュージアムでは皆が様々な質問をしたためもあり、正直時間が足りなかった。おかげで他の展示物は駆け足状態で続く「てつのくじら館」も駆け足素通り同然であった。
ちなみにこの「てつのくじら館は」1986年に就役し、2004年に退役した海上自衛隊の潜水艦 「あきしお」(実物) である。「大和ミュージアム」に隣接するスペースに全長76メートルのずんぐりした潜水艦の巨体がドーンと横たわっているのはかなりの壮観である。

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「てつのくじら館」「てつのくじら館」

船内はごく一部しか立ち入りが出来なかったが、実際の潜水艦内部を見、手で触れることができたのは貴重な体験であった。

呉駅前を出て再びバスに乗り「入船山記念館」に向かう。途上車窓から「旧呉海軍工廠造船部」が見える。ここには戦艦大和が建造されたドックが残っているはずだ。カメラを構えていると「大和のふるさと」と大書した巨大な倉庫のごときものが見えた。戦艦大和を建設したドックが産業文化遺産に指定されて残されているのである。外部からの目を隠蔽する目的で作られたこの大屋根は当時のものがそのまま保存されているのだそうで、バスの一同、思わずため息をついたものである。

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(上)走るバスから必死の一枚(下)これはインターネットブログサイトから借用

「入船山記念館」は「旧呉鎮守府司令長官官舎 (本館)」を中心に郷土館や歴史民俗資料館などからなる国の重要文化財である。官舎は洋館部 (公用) と和館部 (住居) とに分かれており40年間にわたって歴代の呉鎮守府司令長官官舎として使用された。また敷地内には鎮守府の参謀長として呉に住んだ東郷平八郎の家の離れ座敷が移築されている。

終戦直後にここに住んだニュージーランドの司令長官が官舎の建物を白のペンキで塗ってしまい、戦後その修復に苦労したというボランティア説明員の解説が興味深かった。洋館部の壁や天井には珍しい金唐紙と呼ばれる金唐革紙が貼られており、これを戦後の返還後に修復した話なども興味深いものであった。

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「入船山記念館」の「旧呉鎮守府司令長官官舎」「入船山記念館」の「旧呉鎮守府司令長官官舎」

この日の最後は「アレイからすこじま」。「アレイ」 (ALLEY) は路地、「からすこじま」は昔呉浦にあった「烏小島」が名前の由来とか。ここは海上自衛隊第1潜水隊群司令部のすぐそばにあり、日本で唯一間近に潜水艦を見ることのできる公園なのだそうだ。

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アレイからすこじまで説明を聞くアレイからすこじまで説明を聞く

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夕暮れの海上自衛隊潜水艦群夕暮れの海上自衛隊潜水艦群

だんだんと陽が落ちてくる呉港を見晴らせる石垣の上から自衛隊の潜水艦や補給艦などを見、パリパリと音を立てて割れるドングリの実を踏みしめながらバスへ急いだ。
で、夜は街中の「椿庵」で宴会。

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夜、「椿庵」での大宴会夜、「椿庵」での大宴会

瀬戸内海には古くは神武天皇東征、神功皇后の伝説から阿倍仲麻呂、菅原道真、源氏と平家、海賊・水軍の将、明治維新の志士達、そして東郷平八郎や山本五十六、戦艦大和の男たち、江田島の海軍士官たち、そして近くは「海猿」のヒーローたちや海上自衛官たちに至るまで実に様々で多彩な人達が行き交い、歴史を彩ってきたのだ。なるほど「歴史の回廊」とはよく言ったものである。この一日はまるでタイムマシンに乗って歴史の時空を駆け巡ったような一日であった。
(日吉泰史記)

しまなみ海道、とびしま海道、大和ミュージアムを訪ねてー4日目へ続く

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