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人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、人間は考える葦である。

「エネルギー・環境に関する選択肢」に対するパブリックコメント

内閣府が募集している「エネルギー・環境に関する選択肢」に対するパブリックコメントの締切が迫っている。これがどれほどの影響力を与え得るのか、そもそもどのように集計され、どのように政策に反映されるのかすら定かではないが、それでも書いてみる価値はあるだろう。

パブリックコメント投稿ページ

なお、意見の投稿にあたっては、この件についての特設サイトや、エネルギー・環境会議のサイトなどを参照し、よく内容を吟味してもらいたい。投稿はFAXや郵送などでも可能である。

また、政策を変えようと思うなら、ときに自分の本意を多少歪めることになったとしても、「相手の言語でしゃべる」ということ、「相手の合理性」で伝えるということも考えてみると良いかも知れない。内閣府に対して、「脱産業社会」とか、「人々の生活スタイルを根底から変える」とかいうことを主張してみても、その声は届かないかも知れない、けれども同じ内容を、「リスク管理」や「国益」などの言葉で、つまり経済と国家の合理性で語れば、耳を傾けられる機会も増えるかも知れない。

ピエール・ブルデューは、「妥協したのではないかという嫌疑をあらかじめ甘受した上で、知的権力に対して、妥協が語られるその場で、相手が最も聞きたがらないこと、おそらく最も予想外のこと、その場にもっともそぐわないことを語ることによって、知的権力の武器を逆手にとるべきだ」と述べている。しかしときには、そうしたことを直接的に語るのではなく、相手にとって心地良いとは言わないまでも、少なくとも理解できる言葉のなかに、暗に「相手が最も聞きたがらない意図」を忍ばせることも有効であると思う。

以下は私自身が投稿した意見であるが、上記のようなことを考えながら書いた。多くの方が投稿されることももちろんだが、集まった意見が誠実に,そして有効に利用されることを期待したい。


三つの理由から「ゼロシナリオ」を支持する。1)原発事故はリスク管理やコスト計算の範囲を超えている。2)次世代エネルギー開発をリードすることは国益に適う。3)エネルギー政策をシフトするには今が好機。

私は2030年「ゼロシナリオ」を支持します。たしかに、原子力発電はこれまで日本経済に大きな貢献をしてきたことは間違いありませんし、私は現在の感情に任せた「反原発論」に賛成するものではありません。しかしながら今回の震災は、今後も原子力発電の運用を続けることは合理的ではないと私たち教えているように思います。

第一に、ひとたび原子力発電所で事故が生じたときの損害の大きさは、物心両面においてリスク管理やコスト計算のできる範囲を超えているということです。今回は、関係者の多大な努力と尊敬すべき自己犠牲によって、今のところ原発は小康状態を保っており、おそらくはこのまま安定的に推移するであろうと考えられますが、それは今後も原発の事故が同様の規模に留まることを保証するものではありません。今回も一つ間違えば取り返しのつかない惨事になる可能性は十分あり得たし、今後もあり得るだろうことは、間違いないように思われます。

第二に、グローバルなエネルギー政策の転換が進展している現在、日本の高い技術力を発揮して次世代エネルギー開発をリードすることは、日本の国益にも適っています。しかし、電力市場が原発に依存する状態が今後も続けば、産業は次世代エネルギー開発にコストを投じるインセンティブを失いかねません。その結果、他国が日本に先んじてエネルギー産業技術をリードする結果になれば、日本の国益を損なう結果にもなりかねません。そうした事態を避けるためには、政策が「ゼロシナリオ」を明確にし、次世代エネルギー開発を支援する姿勢を打ち出す必要があります。

第三に、上記のような現状理解に基づいてエネルギー政策をシフトするには、今が稀にみる好機であるということです。世論の大勢は原発からクリーンエネルギーへの移行を支持ていますし、福島原発の事故から間もないという今であれば、産業界の理解も得られやすい状況にあります。また、国際社会も日本の動向に注目しており、ここで日本が決断力を示せば、京都議定書以降すっかり低下していた日本の存在感を取り戻し、世界にリーダーシップを示すまたとない機会ともなるでしょう。

いまこそ、「ゼロシナリオ」を決断すべきとであると考えます。

【読書ノート】ジェンダー,言語,生物

大越愛子,2005,「宗教は何をしてきたか,そして何をなしうるか」『宗教研究』79 (2): 399-424.

本論文は,歴史的な男性による女性支配,とりわけ戦時における性暴力,が男性の優越性と女性の従属性を所与とするような「認識の暴力」に支えられてきたことを告発し,そのような「認識の暴力」を突き崩す女性たちの「語り」の発掘にフェミニスト宗教者たちが果たした役割を明らかにする.

大越によれば,女性に対する男性の性暴力は,これまで「男性の犯罪」ではなく「女性の恥」として理解されてきたという.性暴力の歴史を少しでも知るものには驚くにはあたらないが,それは男性だけではなく,女性にとってもそうだったのだ.女性は,自分が性暴力を受けたという事実を,男性の犯罪としてではなく自分自身の恥として認識してしまうことで,その犯罪を告発するどころか,むしろそれを抱え込んで押し黙ってしまう.この背景には,宗教が「罪,恥,穢れ」などの概念を形成することで,男性による性暴力の責任を女性に転化する根拠を与えてきたという側面があると,大越は批判する.このような「認識の暴力」が,女性から,自らの受けた辱めを告発する「語り」の可能性を奪ってしまったのである.

こうして女性の「語り」を奪うことで成立した歴史,文字どおり男性の歴史としてのHis-storyに対して,いまやっと女性たちの歴史,Her-storyが語られ始めたと大越は述べる.それは,かつて女性から「語り」を奪う側にいた宗教者,なかでもフェミニスト宗教者たちが,被害女性に寄り添い,語るべき言葉を持たない彼女たちの絞り出す記憶をつなぎ合わせるという作業を開始したからだという.

こうした女性たちの「語り」は,国家権力と一体化した男性支配の枠組みを超えてあふれ出しており(その一例として大越は「黒衣の女たち」の運動を紹介している),これから宗教が果たすべき役割について切実な問いかけとなっていると,大越は結んでいる.

大越の議論は,「語られない」もの,歴史において「不在である」ものを認識することの大切さを,そのもっとも深い傷痕において示している.われわれが既存の枠組みのなかで認識することができないもの,すなわち「不在である」ものは,実は,われわれのすぐ傍らに,つねに「不在として」,あるいは「見えない傷痕として」存在しているのである.

ところで,大越の議論は,彼女の主張とは別の点においても重要な問題を提起している.彼女は,戦時における男性の性暴力が,「男性は男らしく暴力的に戦い性を簒奪し,女性はその暴力に抗いつつも抗いきれずに犠牲となる」ことがもっとも美しい悲劇であるとする,ギリシア以来の「愛の悲劇」のシナリオがイデオロギー化したところに生じると議論している.このように,女性性のみならず,男性性も歴史的あるいはイデオロギー的に「構築された」ものであると主張することは,フェミニズムの理論においては珍しいことではない.

しかし,もし男性性や女性性が構築されたものだとするなら,言い換えれば,男性や女性に本質的な性質は存在しないのだとすれば,いったい男性とは,あるいは女性とはなんのか.果たして,ラディカルフェミニズムは性差そのものが構築されたものだと議論する.しかし,こうした意見はあまりにもわれわれの日常の直感とかけ離れているし,そもそも,歴史的に性役割を本質化するような物語化が機能したという事実は,それだけで性役割が純粋にイデオロギーであるということを保障しないだろう.また,本質的な性差を否定することは,フェミニズムの歴史理解にとっても適合的とは言えない.というのも,もし男性性による女性性の簒奪が時間的・地理的にみて普遍的に行われてきたのだとするなら,逆にそれをイデオロギーの作用とみることは難しくなるからである.

しかしだからといって,それを生物学に還元することも今となっては不可能なことである.クーンやフーコーの議論を知っているわれわれにとって,科学的な知もまた歴史的に構築されていることはすでに合意事項といっていいだろう.いまやわれわれは,人間をその動物性(自然的営み)と言語性(文化的営み)の両面においてとらえなければならないところに立っているのである.

いずれにしても,イデオロギー論が説明できるのは「それがどのように正当化/内面化されたか」ということだけであって,「なぜ行われたか」を説明することはできないということを忘れるべきではないだろう.この意味では,たとえばミースのように,性別分業の“社会的起源”と言いながら,実際にはほとんど生物学的特徴として男性性の攻撃性,暴力性を主張する議論に,僕はあまり反対する気になれない.少なくとも,男性もまた「攻撃的,支配的であるように歴史的に構築されている」と主張されるよりもずっと腑に落ちる.むしろ問題は,仮にそうした生物学的特徴を認めるとして,それを社会的原理にするかどうかにあるのではないか.男性が構築してきたイデオロギーがあるとしたら,ここだろうと思う.

僕としては,男性が生物学的に暴力的である(つまり本質的に暴力的である)ことを認め,なおかつそれを男性にとって本質的な不幸として免責したうえで,その暴力性を社会的原理にしたことの罪だけを抽出して告発すべきだと思う.男性が,「(動物の)オス」ではなく「(人間の)男性」になるということは,自らの本質(暴力性)を否定するという,ある意味では完全に反自然的な営みにコミットするということではないか.余談だが,このような立場に立つならば,フェミニズムの主張がしばしば「自然に反する」のは当然である.なぜならそれは,おそらくは,女性が自らの本質的な受動性を否定するという営みなのだから.

アガンベンがいうように,人間は確かに動物であるが,同時に自らの動物性を否定する動物である.「私は動物ではない」という点において,人間は動物と区別されるのであって,その意味では,よくSF作品に登場する「私はロボットではない」と主張するロボットと同じである.したがって,感情や自我を獲得してしまったロボットと同じ悲劇を,人間は体験しなければならない.自らの(動物としての)本質と対決して否定しなければ,人間は人間になれない.フェミニズムがそのような営みであると考えれば,性差を否定することは,また違った意味を持ってくるのではないだろうか.

竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』読書ノート(2)

フッサールは次のように言っている.「認識は,それがどのように形成されていようと,一個の心的体験であり,したがって認識する主観の認識である.しかも認識には認識される客観が対立しているのである.ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか.認識はどのようにして自己を超えて,その客観に確実に的中しうるのであろうか.(『現象学の理念』)」

竹田はフッサールの議論をなぞりながら,認識は決して客観に的中する(客観と一致する)ことはないが,人々との相互作用を通して客観についてのどのような認識が「妥当」であるかを導出することは出来るのであり,それこそが現象学的な意味での真理であると述べる.このような真理の概念は,それ以前の「絶対的な真理」「大文字の真理(=Truth)」とは全く違っている.竹田は,ヨーロッパの伝統的な真理の概念が人間の外側に超然として存在していると考えられてきたのに対し,現象学的な真理は「人間どうしの関係のなかで,相互の確信の一致としてだけ作り出される」と書いている.

しかしこのことは,あらゆる真理はそれぞれの主観の産物に過ぎず相対的だということではない.竹田は,日本に現代思想が輸入されたとき,それがある種の相対主義や不可知論の変種のように理解されたことを批判している.現象学的な真理は,単に個人の内的な確証(内在知覚の反復的な確証)によってのみもたらされるのではなく,そのような確証が相互に承認された場合(共同的確証)にはじめて真理となる.そこには,他者からの承認が不可欠なのである.すなわち,現象学的な真理は,相対主義や不可知論とは相容れない.それは相対的なものでも知り得ないものでなく,人々の主観の関係(相互主観,間主観)から生じるものなのである.西欧の伝統的な真理が絶対的であるならば,現象学的真理は生成的であると言っても良いかも知れない.

ところで,フッサールは事物の存在について考えたが,竹田は,事物の存在は多くの場合常識的に疑いえないものであり,それよりも事物の意味付けや価値判断にかかわる場合に,現象学的な思考方法がより重要になると主張している.

あるものが「存在している」かどうかについて,普通我々は迷わない.「そこに石がある」というとき,それが我々の意識に浮かんだ表象に過ぎないかも知れないとは,あまり考えないだろう.しかし,その石が「美しい」かどうかは,簡単には決定できないだろう.そういう場合にこそ,現象学的な思考が重要になると,竹田は言うのである.現象学的なプロセスは,美しさに対する個人的な確証を他者の前にさらし合うことで,お互いに承認し合えるような「妥当な」評価をその石に与えるところまでたどり着くだろうと,と竹田は考える.

しかし,現代思想,といってもそれは実際には極めて多様な思想群なわけだが,それが追い詰めようとしたのは,そのような妥当性を人々のあいだに生じさせる力/権力ではなかったろうか.とりわけフーコーの著作はそうである.人々が,あるものの美しさにおいて合意するとき,その背後にはそれを美しいものたらしめている知の作用があるのであり,フーコーはそのような知を常に問題にしていた.竹田は価値判断にかかわる妥当性は,「それぞれの主観にあって,他者との具体的な関係の中で,そのつど『妥当』を結んでは解くといった仕方で成り立っている」と書いている.しかし,我々の主観は他者に対して完全に個性的なわけではない.というのも,我々の主観ははじめから判断の方向性を与えられているからである.我々は,科学や医学のような,あるいは芸術についての権威のような,さまざま知をあらかじめ内在化し,その許す限りの範囲で「妥当」を考える.このような知は,もちろん「私」だけのものではない.それは社会をおおう知である.

もし現象学的な真理が間主観的な妥当によって導かれるのであれば,我々は同時にそのような間主観性を可能にしている知についても考えなければならないだろう.一見すると現代思想が相対主義や不可知論のように見えるのは,それがこのような地平で真理について思考しているからだ.竹田とは異なり,僕には,現代思想と現象学はむしろ極めて親和的に感じられる.

最後に,前回のノートにも書いた認識と客観の一致の可能性についてもひとつだけメモしておく.フッサールは「ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか」と書いているが,では逆に「いったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との不一致を確かめうるのであろうか」とも問えるのではないか.一致や不一致の確認は,結局は認識には不可能であるから,それについての思考はある種の「感じ」から生じる予感に頼るしかない.つまり,「自分の認識は現実を正しく反映していないのではないか」という「感じ」から,認識と客観の不一致が予感される.同様にまた,「いまこの認識は確かな現実を反映している」という「感じ」が,認識と客観の一致を予感させるのである.

これらの予感は,実はどちらも我々にとって身近なように思われる.たとえば恋人の愛のような抽象的なものについてでさえ,我々は両方の予感を感じた経験があるに違いない.現象学は魅力的な思考法であるし,竹田の語り口は軽妙でついつい引き込まれる.しかし,それによって「絶対的な何物か」についての自分の自然な予感が不当に排除されることのないように注意して読まなければならないだろう.

竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』読書ノート(1)

竹田青嗣は,「人間は誰も若い頃に理想やロマンを抱くが,この理想やロマンはやがて現実とぶつかって,はじめのままの純粋なかたちでは生き延びられなくなる」と書いている.たしかに,いまでもこれは青年の心の彷徨の典型的な道筋なのかも知れない.しかし,誰もがこの道を通って,志賀直哉のように現実と「和解」するとは限らない.竹田もやはりそうで,彼の場合は「うまく社会に入って生活してゆく道を閉ざされて(あるいは自ら閉ざして)いたので,ロマンと現実が自然に調停される機会を失い,そのために,ロマン的世界が独我論的に宙に浮いてしまった」のだという.

僕の場合を考えてみると,どうも僕はこれまで一度も,そのように理想やロマンと対立するような現実というものと出会ってこなかったような気がする.だから僕はいつでも幸せで,満足していた.それはもちろん長く続けている学生という特権的な立場のおかげであり,影に日向にそれを支え続けてくれた両親の理解と経済力のおかげである.

実は,修士課程を終えたときに僕は一度民間の企業に就職したことがある.それはなかなか厳しい体験で,たぶんそれが僕が現実と「和解」するチャンスだったに違いない.けれども僕は,僕に苦しいと感じさせるその現実を認めなかった.そんなものは間違っていると憤った僕は,一年足らずで博士課程に舞い戻り,それ以降は一貫して,そのとき僕を憤らせた「厳しい現実」を「無いこと」にするために逃避してきた.もちろん,もし僕が失職によって赤貧を強いられ,学業どころではなくなり,生きていくためにワーキング・プアにでもなっていれば事情は違っただろう.ところが僕は,幸か不幸か常に何かによって守られていたのだ.それが,僕にとっての現実だった.

そのために,僕はこれまで一度も独我論におちいったことはなかった.竹田が独我論におちいったのは,彼の言葉によれば「ロマンや理想が外の現実に触れ,そのことで自己を確かめる契機を失っているからにほかならない.ロマン的夢想は自分だけのなかで,自分の魂のありようだけを問題にし,現実を自分とは全く違った原理のものと考える.現実の『肉体』がどんな状態にあっても,それは魂とは何の関係もないものとみなすから」である.けれども僕の肉体は両親の寛容(七割の諦めと三割の期待)と経済力に支えられて,現実に幸福であった.だから僕の魂と肉体が矛盾をきたすことはなく,僕はむしろ魂と現実との一致を感じていた.

周知のように竹田には,現象学について多くの著書がある.竹田は,現実についての認識を意識に還元する現象学が彼にしっくりきたのは,現実と魂の不一致という独我論的状態への,切実な気付きがあったからだという.「私が体験したのは,要するに,それまで疑えない現実感を伴って存在していた自分の世界像が徐々にその現実性を剥ぎ落され,やがてその一切が自分だけのドクサでないかと思える場所にまで退行するという事態だった.」

これはたしかにもっともだ.こうした経験は,おそらく多かれ少なかれ誰もが経験したことがあるだろうし,その切実さの程度によって差はあっても,現実についての僕たちの認識は意識に生じた表象に過ぎないという現象学の基本的な考え方は,ある程度は共有されるだろう.

けれども,幸か不幸か人生の大勢において独我論におちいらなかった僕のような人間にとっては,自分の意識に生じた表象が,少なくとも何らかのかたちで「たしかに現実と結びついている」という実感も,同様に切実な確からしさをもって存在していたのである.意識における理想やロマンが,肉体や物質のレベルにおいて確からしく実感されるということが,僕の場合はしばしばあった.おそらく,僕が現象学の基本的な考え方を受け入れながら,フッサールよりもずっとメルロ=ポンティに惹かれる理由もここら辺にあるのだと思う.

僕はロック・クライミングが趣味で,下手の横好きながらよくジムや外岩に登りに行くのだが,20mくらいの切り立った岩壁や人工壁を一本のロープに支えられて登っていると,「落ちる」というどうしようもない恐怖にとらわれて足がすくむことがよくある.こういうとき,「果たして落ちるのは僕の意識なのか肉体なのか」だとか,「落下して砕け散るというこの現実は,ただ僕の意識に生じた表象なのか,それとも確かな現実なのか」などという考えは全く浮かんでこない.僕はただ,僕の意識と肉体が離れがたく結びついているということ,というよりも,それはもはやひとつの不可分の「存在」なのだということを感じる.そしてまた,このゴツゴツしていて,冷たくて,よそよそしい岩肌という現実も,全く疑わしいものとは思われない.そういうとき僕は,ドクサだとか表象だとかの一切を超越して,「確かに世界のなかに在る」と感じる.

こうして,理想やロマンが現実において確からしいという経験や,クライミングの経験が,僕を「現実の認識とは単に意識に生じた表象である」という考えを全面的には受け入れられないようにしているようだ.いったい人間とはどの程度まで現実と結びつき,またどの程度までそこから疎外されているのか.僕自身はさしてそのことに興味はないのだが,ただ僕は,僕の今の幸福な「意識と現実との一致」は,どうやらもうそれほど続かないのではないかという気もしている.

国政というフィクション

鳩山首相が辞任を表明した。僕は、民主党の衆参両院会議での演説を、なんとも白けた気分で聞いた。「国民が聞く耳を持ってくれない」とか、「不本意ながら政治と金の問題が云々」とか、なんだか恨み節のような演説だった。その演説に盛大な拍手をおくる民主党議員も滑稽で、僕には茶番劇としか思われなかった。

以前にも書いたことがあるけれど、僕は国政というものの有効性をあまり認めていない。いつの時代でも国政がダメというのではなくて、少なくとも「現在」は国家による政治の時代ではないと思う。僕がそんな風に考えるようになったのは、国際関係から社会哲学へと移動してきた僕の学問的な旅路とも対応している。

国民が自らの主権によってコミットする対象としての国政というのは、間違いなく一つのフィクションである。それは、国民国家というもう一つのフィクションが有効に機能していた間は確かにある種の実質を持っていた。しかし、国民国家自体がアイデンティティの帰属先として揺らいでいる現在、国政にはどれほどの実質があるだろうか。

おそらく、明治維新以前の日本の民衆に、自分たちがコミットすべき対象としての国政という概念はなかっただろう。国政が民衆と直接結び付くのは、維新後から大正デモクラシーにかけて、ナショナリズムの伸長と民主主義思想の浸透が、近代的な意味での「国民」をつくりだして以降のことだ。この時期に国政という概念があったのかは知らないが、国家的な政治の存在を疑う人はいなかっただろう。

しかし、満州事変以降の国政と国民の関係は、国家主義的な発展を遂げてしまう。国政は引き続き実質的意味を持ち続けたが、それは大正デモクラシーの時代とは明らかに質的に異なっていた。国政はもはや国民がコミットする対象ではなく、従属し奉仕する対象となった。しかし、事の善悪は別にしても、国家が依然として民衆のアイデンティティの重要な帰属先であり、その限りで国政が実質的な意味を保持していたことは疑いないだろう。

戦後、日本はそれまでの価値観を180度転換するという大きな変化を迎えることになるが、それは国家という枠組み自体の解体には結び付かなかった。奇妙なことだが、むしろ逆に、日本はここでもう一度国家という概念に飛びついたのだ。いかにして民主主義国家として日本を再建するかということが人々の最大の関心であり、それは基本的に右も左も関係なく共有された問題意識であった。従ってこの時期にも、国政はやはり実質的であった。

ところが、現在どれだけの人々が国家的な視野に立って物事を考えているだろうか。少なくとも、国家的な視野をその人の物の見方の基礎に据えている人は少ないだろう。国家が引き続き重要であることを認めているとしても、それは以前のようにアイデンティティの(唯一ではないとしても)最大の帰属先としてではなく、せいぜいが人々の生活水準を維持するために必要な機関という程度ではないか。

こうした変化の背景には、少なくとも3つの側面があるように思う。1つには、資本主義的な価値観の浸透である。「官から民へ」とか「小さい政府」とか言われるときに、「民」として理解されているのはいわゆるプライベイト・セクターである。つまり、国家の論理よりも企業の論理が、公の論理よりも私の論理が倫理的に優先されるような価値観が社会的に浸透しており、これが国家の相対的な重要性を弱めている。

いま1つは、グローバリゼーションとローカリゼーションという、同時に進行しつつある異なる変化である。グローバリゼーションは、アイデンティティの最大の枠組みとしては国家は小さ過ぎると私たちに感じさせているが、同時にローカリゼーションは、より実質的なアイデンティティの枠組みとしては国家は大き過ぎると私たちに感じさせる。

最後に、価値観の多様化、流動化の問題がある。おそらくは上に挙げた2つの現象の複合的な結果として、人々の価値観は絶対的に多様化し、かつまた容易に移り変わるという意味で流動化している。長期間にわたって安定した価値観を提供していた伝統や常識はもはや信頼に足るものではなくなり、人々は時間の積み重ねのなかではなく、「いま」「ここ」で生きることを余儀なくされている。国家に限らず、家、社会といった高次の参照点はすべて説得力を失いつつある。こうした環境で人々にとって焦眉の問題となるのは、信頼できないメタな物語ではなく、少なくとも確かな実感を伴う「いま」の「私」の問題だけである。この点においても、国家は実質を失っている。

こうして国民国家それ自体が揺らいでいるとき、国政という概念が私たちにとって余所余所しいものになることは不思議でもなんでもない。国政が直接的に私たちの人生と結び付かないのだ。翻って、国政にとっても国民はその基盤ではなくなっている。鳩山氏の「国民が聞く耳を持ってくれない」という言葉が、国政にとっていかに国民が余所余所しい存在になっているかを物語っている。

国民国家の成熟に伴って、国政は国政として独自の制度と合理性を持つまでになった。しかし、国民国家自体が説得力を失っている現在、国政は実質を失って取り残されている。いまや、国政の合理性と民衆一人一人の合理性は完全にズレてしまった。僕にとって国政の機能不全は、政治家のモラルの問題でも、国民のリテラシーの問題でも、政治の制度疲労の問題でもない。それは、国政という現象それ自体の合理性が、僕自身の合理性から著しく乖離しているという点にある。従って、国民国家が再び私たち一人一人にとってのアイデンティティの帰属先としての力を取り戻さない限り、国政が再び実質を取り戻すことはないだろう。

国政はいまや、根から切り離されて浮遊する植物のようなものだ。根を失った植物は枯れるしかない。いかに自分の合理性で延命を図ろうとも、国政のこの運命は変え難いように僕には思われる。

Brothers Grimm ブラザーズ・グリム

ティム・バートンが撮るゴシック・ホラーがいつでも明らかに美しく、そしてファンタジックなのに対して、テリー・ギリアムはいつでも明らかにグロテスクでナンセンスだ。だから、良い意味でも悪い意味でも一般受けするバートンに対して、ギリアムは常に一部のコアなファンにしか理解されない。とうとう大衆娯楽を撮ったかにみえた「ドクター・パルナサス」でさえまったくグロテスクでナンセンスだったので、僕は彼は普通の作品は撮らないんだと思っていた。

ところがどうして!まさか彼がこんなにも“普通に楽しい”映画を撮っていたとは!ダークな美しさと適度なグロテスクさ、そしてそこはかとないコミカルさ。冒険心を掻き立てられるファンタジックな魅力。バートンのあの名作「スリーピ−・ホロウ」と比較しても全く遜色ない娯楽作品に仕上がっている。

グリム童話の様々なエピソードが、破綻なく新しいストーリーのなかに散りばめられているのも見事な手際だが、それもこれも寄せ集めや焼き直しを一切感じさせない物語のオリジナリティの高さによるものだろう。グリム童話やグリム兄弟について一切知らなくても、いささかもこの物語を楽しむための障害にはならない。巧みに挿入される「赤ずきん」や「白雪姫」などのプロットは、個々のエピソードとしてではなく、全体の物語の中で有機的に結びついている。それはもうグリム童話の幾つかとしてではなく、たしかに映画「ブラザーズ・グリム」の部分である。

面白い、という意味では、確かにこれまでのギリアム作品のなかでは圧倒的に面白い。その分、彼の往年のファンには物足りなさもあるかも知れないが、このトレード・オフの果ての作品が「ドクター・パルナサス」のあの中途半端麻さだったとすれば、彼の次回作にこそ大いに期待が持てそうだ。

アバター

これまで僕の観てきた映画のなかで最低だったのは、ぶっちぎりで「インディペンデンス・デイ」だった。けれども今回、「アバター」がそれに並んだ。単純に傲慢であるというよりも、それが傲慢さであるということに全く思い至ることなく他者を「解放」しようとしている点で、「アバター」は近代化と植民地主義の論理から一歩も前進していない。今この時代に、なぜこんな素朴な(悪い意味で)作品が撮られ、それがこんなにもヒットしたのか。その理由を考えずにはいられない。以下、映像表現とストーリーという2つの側面からこの作品について感想を書いておく。

■ 映像
映像の美しさは、間違いなくこの映画の白眉である。映画を見たあと美しいアバターの世界から抜け切れず鬱になる人がいたというが、まあそういう人もいるかも知れないと思わせるだけのインパクトを持っている。ただし、そのすごさは映像表現の技術のみにあるのであって、造形そのものにあるわけではない。正直なところ、「アバター」の映像の造形自体には見るべきものはほとんどない。すべて、これまでの様々な映画作品で既につくられてきたものばかりである。生物やメカニックの造形は「スター・ウォーズ」以来の古典的なものだし、アバターを遠隔で操作するという発想も、またその表現も、「マトリックス」や「攻殻機動隊」と比較してさえ新しさは感じられない。樹木を神秘化した世界設定は「風の谷のナウシカ」以来ときどき見られるもので目新しさはないし、マザーツリーの造形は「ケイナ」のアクシスを思わせる。いずれにしても「アバター」の映像の造形は過去の作品の寄せ集めであり、それ自体に新しさはないと断じて間違いないように思う。

しかし、それは必ずしも否定的なものではない。これまでの作品の良いところを効果的に、かつ破綻することなく寄せ集めるには、それなりに力量が必要である。2005年に放映された「エウレカセブン」が、やはりこれまでのアニメーションのコンセプトの寄せ集めであったにもかかわらず大ヒットしたように、本当に上手く寄せ集められた作品は、やはり力を持つ。そういう意味では、ジェームズ・キャメロンの力量が感じられる作品に仕上がっていると言えるだろう。

■ ストーリー
第一に、この作品は「解放」と「救済」の古臭い物語である。「選ばれし者」が登場して、その定められた力によって無力な人々を救済する。2010年のジェイク・サリーは、1927年のフレーダーとマリア(メトロポリス)であり、1984年のナウシカ(風の谷のナウシカ)であり、1999年のネオ(マトリックス)であり、2002年のケイナ(ケイナ)である。それは(預言者がいるかいないかにかかわらず)預言された存在であり、超越者によって選ばれた存在であり、特権的に救済の権力を与えられた特別な存在である。

第二に、この作品は「我々」が「彼ら」を救う物語である。実際それは、植民地主義のロジックであり、また湾岸戦争のロジックでもあったものと何ら変わらない。「選ばれし者」、すなわちトゥルーク・マクトは、絶対に地球人でなければならなかった。そうでなければ、「我々」の物語にならないからだ。ジェイク・サリーは、自分が地球人を裏切ることに対しては大きな葛藤を抱くが、パンドラでは他者であるはずの自分の下に、数千人ものナヴィが命をなげうって集うことに対しては全く戸惑いを見せない。「私」に本当に「彼ら」のことが分かるのか、「私」に本当に「彼ら」を代表する資格があるのかという不安を、彼は微塵も抱かない。「私」が「彼ら」の上に立つことに対して、ジェイク・サリーはいささかも疑問を感じていないのだ。

「アバター」は、他者である「彼ら」の多様な価値観を承認するかのように見せかけて、実は、すべては「我々」の価値観で判断し得るのだという揺るぎない信念を再確認しているに過ぎない。最後の瞬間に、ジェイク・サリーがあまりにも簡単に地球人の身体を抜け出し、ナヴィに生まれ変わるというエンディングは、そのことを象徴している。ジェイク・サリーは、「私でなくなる」ことに対しては葛藤を抱くが、「彼らになれるか」ということに対してはいささかの葛藤も抱かない。彼は、否応なく「私」であらざるを得ない「私」という葛藤を一切感じずに、無邪気に「彼ら」になれると信じている。けれども、「私」が「彼らになる」ことの不可能性を一切認識しないジェイク・サリーは、肌の色が青くなっても実際には「私」のままなのである。従って、ジェイク・サリーが「彼ら」になるということは、実は「私」が「彼ら」なるというよりもずっと、「彼ら」が「私」になるということであり、ナヴィが地球人に包摂されたということに他ならない。近代が、オリエンタリズムやジャポニズムによって「彼ら」を称揚しつつ、結局は「彼ら」を「我々」に包摂したのと、まったく同じように。

ナヴィの未来を、僕はかなりの確信を持って予想することが出来るように思う。なぜならそれは、近代化によって多くの非ヨーロッパ諸国が歩んだ道を彷彿とさせるからである。後にナヴィがパンドラを枯渇させ、エイワとの繋がりを失う日が来るとしたら、そのとき彼らは気づくことだろう。トゥルーク・マクトが自分たちを解放したその日が、別の支配の始まりであったということに。

僕の大好きなMichelle Rodriguezが、やっぱり圧倒的に素敵だったという以外は、愚昧なまでの傲慢さにただ苛立ちを募らされたというのが、僕の「アバター」に対する率直な感想である。

分割線

ここ数日かなり苦しんだ論文が、二晩の完徹の後にようやく仕上がった。ちゃんと査読を通るかは分からないが、個人的には色々と得るところが多い論文になった。

18日付けの「人は想像の椅子に座れるか?」という日記を書いたのは、ちょうどこの論文でいっぱいいっぱいのときだったのだが、論文を書きながら自分の認識が大きく変わるのを経験して興奮していたこともあって、書かずにはいられなかった。だからあの日記は、論文の執筆を通してだんだんと変化していく僕を、ほとんどそのまま反映している。つまり、「心と体は別のものである」というあの信念を自分のなかに再発見し、それを何とか相対化しようとした、そのプロセスを。

たとえば僕は、簡単に「デカルト的心身二元論」などといって「心と体の二分法」を批判する。けれども、「心と体は別のものである」という信念は、僕の心の一番深い部分に、自分ではほとんど意識すらできないほど自明のこととして登録されていて、それを追い払うことはなかなか難しい。

心と体の間には、歴史的に一本の分割線がひかれている。それは、ミシェル・フーコーが狂気と理性の間に見出した、あの分割線である。心理学が狂気を発見したのではなく、狂気と理性を隔てる分割線が初めて心理学を可能にしたように、それによって初めて近代哲学を可能にしたような分割線が、心と体の間にひかれているのだ。だから恐らく、デカルトが心と体を分けたのではない。デカルトに「われ思う」を自明であると考えさせたような分割線が、それ以前にどこかでひかれていたのである。

この問題を考えるときに『攻殻機動隊』が良い材料になるのは、サイバーパンクの刺激が議論を面白おかしくしてくれるからばかりではない。サイバネティクスとロボティクスが、ある意味ではこの問題の最先端に位置しているからだ。

a machine that looks like a human being and performs various complex acts (as walking or talking) of a human being; also : a similar but fictional machine whose lack of capacity for human emotions is often emphasized

これはMerriam-Websterのロボットの定義である。それは人間の似姿であり、人間と同様の複雑な動作をこなすが、しばしば「心を持たない」ことが強調される、とある。では、サイボーグはどうか。Cyborg、すなわちCybernetic Organismとは、生命体(organ)と自動制御技術(cybernetics)の融合である。一見して両者に共通しているものは機械的な身体であるが、それでも両者が明確に区別されるのは、生命の有無、より正確には心の有無において両者が決定的に異なると考えられているからである。サイボーグは、ロボットのようにhuman-likeなのではなく、徹頭徹尾humanであるという点においてロボットと区別される。

『攻殻機動隊』の映画シリーズのなかでも、『イノセンス』は特にこの問題に関心を寄せていた。サイボーグ化によって限りなくロボットに近付いていく人間と、人工知能によって限りなく人間に近付いていくロボット。そのなかでますます曖昧になっていく「私」とはいったい何かというのが、『イノセンス』の大きなテーマだった。『ブレードランナー』のときにはまだ「人間に近付いていくロボット」だけを考えていれば良かったが、『イノセンス』になると「ロボットに近付いていく人間」という方向性が十分にリアリティを持ちはじめ、このテーマはますます切実さを増しているように見える。

いずれいにしても明らかなことは、サイボーグとロボットはその身体によっては区別されていないということだ。身体的には、サイボーグもロボットも同じ機械身体を持っている。両者の違いはただ心の有無のみであり、それだけがサイボーグが人間であるということを担保している。つまり、ここでも身体は二次的なものであると考えられている。サイボーグとロボットを分かつ分割線は、そのまま心と体を分かつ分割線である。

ところで、『攻殻機動隊』で描かれるサイボーグ化は、二つの要素を持っている。一つは擬体化であり、もう一つは電脳化である。けれども、脳も体の一部であるということを考えれば、脳の人工物化も擬体化と呼べば良いのではないか。なぜ、わざわざ四肢の人工物化と脳の人工物化に別の概念を与える必要があったのか。それは、脳を人工物に置き換えることは、身体を人工物に置き換えることとは「わけが違う」と考えられているからに他ならない。つまり、脳は人間にとってより本質的だという主張が、その背後にある。すなわち、ここでも電脳化と擬体化との区別は、心と体を分かつ分割線に一致する。

しかし、人間の本質が脳にあるというのは、自明のことではない。たとえば、脳が脳だけで存在したときに、それでもその脳が身体図式を持つかということは疑わしいように思える。そして、そのような身体図式をともなわない脳が、世界における「いま」「ここ」として自らを定位できるのかも、僕は疑わしいと思う。

人間が、自分自身を外部から眺めているわけではないにもかかわらず、自分の位置を把握できるという能力は驚異的である。我々は空間における座標軸によって我々の位置を把握しているのではなく、いわば絶対的な参照点として身体のうちに「いま」「ここ」を持っている。

普通、コンピュータが認識する移動とは、例えばA点からB点へと座標平面上を移動するというかたちで把握される。つまり、こうした把握には「ここ」という概念はなく、場所は常に座標平面上の原点からの相対的な位置として把握される。

しかし、人間が自分自身の位置を把握する仕方は、これとはまったく異なっている。人間は、自分の位置を把握するために外部の原点を必要としない。人間にとっては自分自身の身体がそのまま「ここ」である。したがって、人間にとっての移動とは「ここ」から「あそこ」へではなく、常に「ここ」から「ここ」へである。いわば人間は、自らの身体のうちに原点をもっているのだ。しかし、こうしたことが脳だけで達成されるのかは極めて疑わしい。

あるいは、人間が体を動かす場合もそうである。コンピュータがある動作を起こす場合には、そのために必要なあらゆる部位に、すべての必要な運動を伝達しなければならない。しかし、人間は一つの動作のために必要な様々な運動をすべて把握したり、意識したりはしない。たとえば、「足を上げる」という動作を人間は意識して行うし、動かさなければいけない部位も把握している。しかし、足を上げるという動作によって崩れるバランスを修正するために、微妙に体を後ろに倒したり、軸足のつま先に力を入れたりする動作はまったく無意識の内に行われる。意識されたある一つの動作のために必要な、その他の様々な運動を人間は意識していないし、またその部位を把握してもいない。

『イノセンス』では、草薙素子が衛星経由でガイノイドにダウンロードされ、実にアクロバティックな戦闘を行う場面がある。しかし、あれほどの動きを身体図式をもたない意識が行えるのだろうか。あるいは、あらゆる感覚器官の統合により、ダウンロードされた草薙素子の意識にガイノイドの身体図式が生じるのだとしたら、それはその時点でガイノイドの身体とダウンロードされた草薙素子の意識が不可分の個になったということではないのか。

いずれにしても、体と心の間にひかれた一本の細い分割線は、決定的な力でもって僕たちの思考をある狭い範囲に閉じ込めている。今回の論文を書いているあいだ、僕はずっとその実感に圧倒されていた。

人は想像の椅子に座れるか?

もう映画だったがテレビアニメの方だったか忘れてしまったが、『攻殻機動隊』に妻子と幸せな生活を送るという擬似記憶を植えつけられた男が出てくる。彼にとってその擬似記憶は確かな現実であり、彼はどうしてもそれが擬似的な記憶に過ぎないことを受け入れられない。これは本当に瑣末なエピソードなのだが、作品に一貫したテーマを反映している。それはつまり「私の認識は本当に信じられるのか」という懐疑であり、その懐疑は「もし私の認識が信じられないとしたら、そのように認識している私は果たして本当に私だと言えるのか」というさらに根源的な問いを導く。これはつまり、コギト命題自体に対する懐疑である。「われ思う」も疑えるということだ。

このようにして、一見するとこの作品は、もはや信ずべき現実はないというポストヒューマニズム的な憂鬱を描いているように見える。ところが、奇妙なことに、この作品が実際に提示しているのは客観的現実の存在に対する確固たる信念なのである。擬似記憶という概念は、それが擬似と表現されていることからも分かるように、客観的現実が存在するという前提のもとでしか成立し得ない。したがって先ほど紹介したエピソードも、「正しい現実」を「間違った現実」によって上書きされたのだいう風に描かれる。

これはずいぶんと逆説的である。もし人間の認識が絶対的に信じられないものであるならば、いったいどのようにして「正しい現実」があると言えるのか。上記のエピソードに即して言えば、「妻子と幸せな生活を送るという現実」が間違った現実であり得るならば、同様に「本当は妻子なんていないという現実」も間違った現実であり得なければならない。すなわち、妻子との幸せな生活が夢であったのか、それとも、それが夢であったという夢をいま見ているのかという区別は、厳密にはつけられない。

けれどもこの作品においては、視聴者という「客観的な視点」に対しては、どれが本当の現実であるかがきちんと分かるようになっている。どちらが夢でどちらが本当の現実かは、作品を見ている者にとっては一目瞭然である。つまり、作品の世界観のレベルでは客観的な現実は確かに存在している。実はこれは、コギト命題の否定であるどころか、世界をア・プリオリに措定する素朴実在論に近い。

同じことが、『マトリックス』についても言える。マトリックスという仕組みの存在は一見すると「現実」なるものの疑わしさを主張しているように見えて、実はその外側にザイオンを置くことで、結局は客観的な現実の存在を微塵も疑ってはいない。

『攻殻機動隊』や『マトリックス』の流行以降、どうも現実というものを殊更に曖昧で不安定なもののように主張する向きがあるが、こうした作品が実は客観的現実をア・プリオリに措定することで初めて成立していることは見落とさない方が良い。ここで我々は、これらの作品が結局のところ客観的現実から一歩も抜け出せなかったという事実の背後にある、我々の極めて素朴な日常体験についてもう一度再考すべきかも知れない。

たとえば、人間が幻覚を見て、あるいは何らかの方法で幻覚を見せられて、そこに椅子があると錯覚したとしよう。彼がこれ以上ないくらい強くそれを現実であると認識していたとしても、彼はその椅子に座ることは出来ない。あるいは逆に、何らかの仕方で彼がそこにある椅子を認識出来ていなかったとしても、彼はそれにつまずくだろう。こうした素朴な経験は、確かに物質的な世界が認識に先立って我々に「与えられている」ことを教えているように思う。

けれどもそれは、物質的な世界に対して我々の認識がなんらかかわりを持ってないということではない。というのも、世界は、我々によって知覚され認識されなければ何の意味も持たないからである。つまり我々は、我々の認識に先立って在る物理的な世界の存在を否定できないし、また同時にそれが我々の認識によってしか表象され得ないことも否定できない。

そのことをもっともよく表しているのは我々の身体である。仮に認識が物質に先立つとしても、その認識は、そのように認識している身体が物質であることを教えている。あるいは逆に、物質が認識に先立つとしても、認識を可能たらしめているところの身体それ自身が認識されていなければ、そのような命題自体が成立しない。

僕にとってメルロ=ポンティが魅力的なのは、彼の現象学がまさにこの問題に答えようとしているように見えるからだ。彼は身体を、自己でもあり対象でもあると考える。メルロ=ポンティにとって、私という実存は身体か精神かではなく、どちらともいえない。同様に彼は、人間と世界を断絶ではなく連続として捉える。私は世界の中にあって初めて私なのであり、世界と私が対立的に存在しているのではない。

現象学的な視点から『攻殻機動隊』や『マトリックス』を眺めたとき、問題は我々の認識の本質的な危うさにあるのではなく、それが身体から恣意的に切り離されることで世界と断絶し、認識だけで自己完結してしまうことにあるのだということが見えてくる。このことは、近年のサイバネティクスを始めとする様々な身体の無機化についても、多くの示唆を与えるだろう。

マイマイ新子と千年の魔法 〜語れないものを示す〜

【アニメ監督・片渕須直インタビュー】『マイマイ新子と千年の魔法』地味すぎるアニメ映画が起こした小さな奇跡

出来れば近々に観たい作品だ。東京では29日までなので、なんとかそれまでに観に行きたい。それにしても、片渕監督のインタビューでひとつものすごく気になった発言があった。インタビュアーの

>> そうした感想のなかで印象的だったのですが、「感動した
>> けれど、なぜ感動したのかよく解らない」という、同じ文
>> 言をあちこちで見かけました。こうした観客の反応に監督
>> が分析を与えるとしら......。

という問いに対して、監督は以下のように答えている。

>> 「作るときになるべく言語化しないほうがいい」と我々が
>> 思っているままに受け取られているということなんじゃな
>> いでしょうか。これはひょっとしたら、理想的な形で伝達
>> が働いているんじゃないか、という気がするんですよ。言
>> 葉にすべきものが何か解らないのに、作り手と観客のコミ
>> ュニケーションが成立しているわけで。

ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の序で次のように言っている。「およそ語られうることは、明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。」

ウィトゲンシュタインの主張はこうである。すなわち、「語れることは語れる。語れないことは語れない。語れないことを語れるかのように考えるのは嘘だ。」けれども、ここでウィトゲンシュタインが言っているのは、「語れないこと」に価値がないということでない。「語れないこと」の方にたくさん価値があるのに、言語ではそれを表現できないと言っているのだ。

では、「語れないこと」は現象しないのか。ウィトゲンシュタインの答えは否である。彼はこう述べる。「だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。」

映画という手法はおそらく、この「示す」ということである。監督が言うように「言葉にすべきものが何か解らないのに、作り手と観客のコミュニケーションが成立している」としたら、それはまさに彼が「示した」ということに他ならない。

そこで示されているものは何か。それは感じるしかない。僕はおそらく、そのために映画館に足を運ぶことになるだろう。

派閥の機能に関する若干の考察(2)

2005年の郵政選挙の際に、小泉元首相が辣腕を振るった派閥の解体が、日本の民主主義に対してどのような影響を持つかをめぐって議論が行われたことがあった。偶然にも以前に東京福祉大学で教鞭をとられてられていた窪田明さんのコメントを得て、議論は当ブログと窪田さんのブログでエントリーのやり取りとなり、大変興味深いものになった。僕はもともと社会哲学を研究していることもあり、その後継続して派閥の機能に関して知見を深めることはなかったが、このときに交わされた議論は大変勉強になり、僕の中でも忘れらない出来事になっていた。

さて、今朝のことであるが、日経ビジネスONLINEに「議院“官僚”内閣制は変えられるか」と題された竹森俊平とジェラルド・カーティスの対談を見つけた。そのなかで、竹森に「日本民主主義の良き伝統」とは何かと問われたカーティスが、以下のように答える場面がある。

それから、党内民主主義。派閥もあり、意見の相違があって当然という考え方です。これは日本の伝統です。良いことです。マニフェストを作って、その通り政権運営をするというのは、非現実的で、また望ましいと思わない。政党が一枚岩的になるのは決していいことではない。

これは、まさしく2005年の議論において僕が言いたかったことだった。以下、竹森とカーティスのやり取りを引用する。

竹森:政友会、民政党も、実はそういうものだったと考えていいのでしょうか。保守の中で様々に意見が分かれていて、それを派閥間の闘いとして展開するというのが一種の伝統だったと。
カーティス:そうですね。結構多面的な要素がありました。戦後の自民党は、政友会、民政党が一緒になって作られた政党なので、戦前の政友会と民政党の闘いが、自民党の中の派閥の闘いに当たるでしょう。
竹森:なるほど、そうですね。
カーティス:派閥がなかったら大変なんです。自民党の今の問題の1つは、派閥の果たした良い機能がなくなったこと。既得利益、権益の影響が増して、派閥が弱まって意見がまとまらない。もともとは政治家が方針を決めて、官僚が具体的な政策を作るものであるはずです。ところが、自民党が長年政権を持っていたせいで、いつの間にか官僚が方針を作って、その中で政治家がロビイストみたいに特定利益団体のために働く。そういう曲がったシステムになってしまったんです。だから今、いわゆる自民党の55年体制は完全に崩壊する時が来たと思います。

カーティスは派閥の機能を「変なことがあると野党ではなく、自民党の反主流派の人たちがばらす。そういうダイナミックなシステム」である述べて評価している。そして、こうした「自民党内のダイナミズム」が失われたことを問題視している。

もっとも、小泉改革のときの自民党は既に派閥のダイナミズムを失っており、派閥は既得権益をめぐる腐敗の場となっていたことも間違いない。しかし、そこではまず派閥のあり方が問われるべきであり、いきなり派閥を解体するというのは論理的に飛躍しているように僕には思われたのだ。

いまこの問題を突き詰めて考える余裕はないが、民主主義をひとつのダイナミズムであると見るカーティスの視点は、民主主義の多様性という観点からも極めて大切ではないだろうか。

ドッペンルゲンガー的な増殖

エヴァンゲリオン新劇場版が大ヒットしている。「ヱヴァ:破」の公開に合わせて、今週末の金曜ロードショーでは前作「ヱヴァ:序」がノーカットで放送されるようだ。ところで、eiga.comの記事「ヱヴァ:破」大ヒットスタート、「序」地上波放送は本編ノーカット!によると、テレビで放映される「ヱヴァ:序」は、劇場で公開されたものとは異なる「TV版」だという。

放映される「序」は、劇場公開版やDVD版とも異なるバージョンで、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 EVANGELION:1.01」テレシネマスターをベースにTV放映用に再調整された「TV版」。

作品を、ひとつの完結した世界、生きた世界として理解しようとするのはもう古いのだろうか。新しいキャラクターの登場はまだしも、登場人物の名前や外見がころころ変わる作品は、僕にはどうしても違和感がある。

名前が個を特定する記号以上の意味を持つことを認めるならば、つまり名前が個の存在そのものを構成し、ときに変容させることを認めるならば、名前を変えられたキャラクターはもはや別人である。つまり、アスカはもはや同じアスカではない。同様に、外見が個の存在と切り離せないことを認めるならば、顔が異なるリリスはもはや同じリリスではない。

つまり、エヴァンゲリオン新劇場版はオリジナルのコピーとしてのシュミラークルではない。それはむしろ、オリジナルそのものである。しかし、先行するオリジナルが存在しているという意味で、それは単なるオリジナルでもない。こう表現してよければ、それはオリジナルのドッペンルゲンガー的な増殖である。

同じような現象は、攻殻機動隊のときにもあった。原作漫画に対して映画はシュミラークルだったが、テレビシリーズはパラレルワールドを描いており、オリジナルのコピーというよりは別のオリジナルになっていた。しかし、攻殻機動隊ではそれぞれのオリジナルたちは異なる作者(マトリックス風に表現するならアーキテクト、もっと身近な言葉を使えば神)によって創作されていた。原作は士郎正宗、映画は押井守、テレビシリーズは神山健治 という具合である。

けれどもエヴァンゲリオンは、それを庵野秀明がひとりで行っている。これは、なんとも分裂症的な営為に思われる。大きな物語が失われたのがポストモダンであるならば、ここでは個別の小さな物語さえ失われている。文字通り、統合が失調しているのである。

これをどう批判したものか定かでないが、僕は明らかにこの傾向には嫌悪感を感じる。これは、僕の進むべき道ではないと感じる。もちろん、単にアニメに対する評価としてという意味ではなく、その背後にある社会の向かうべきベクトルとして。

鉄コン筋クリート

なんだか傲慢な作品だと思った。「なにか大切なもの」みたいのを押しつけてくる。うるせーよ、と、思う。最近多いよなー、こういう作品。表現力は確かにすごいんだけど、表現の技術ばかりがどんどんすごくなっていって、表現するべきものがついていってないんじゃないかな。もしかしたら、視聴者もそうなのかも知れない。みんながお絵描きの練習ばかりして、お互いに「深いね」とか言い合っちゃって、ちゃんちゃん、みたいな。売る方も売られる方も、浅いところでパチャパチャやってお互いが満足、市場も盛況、みたいな。

白と黒のメタファーとか、でもどちらかだけじゃないんだ、みたいな感じとか、別にもう良いよ、って思う。たぶんつくってる方は、真剣に、一生懸命つくってるのが感じられるから、それだけ余計にイライラする。きっと、表現するのが早いんだよ。まじめに考えてるのは分かるけど、ちょっとまじめに取り組んだら、みんなすぐそれを表現しちゃう。でも、「大切なもの」なんて一朝一夕に表現出来るもんじゃないし、たぶんだけど、自分には表現出来ねーわ、って気付いた人だけが表現出来るもんじゃないんだろうか。そういう謙虚さがない作品だなーと思った。

見てらんねーわ、と心の底から思ったのは、たぶん自分を見てるようだったからだと思う。

医療問題から考える市場と人の関係

河北総合病院理事長の河北博文氏が、医療にもビジネスクラスを導入すべきだと発言している。一部の金銭的余裕のある人たちのために混同診療を解禁し、そのスピルオーバーによって“エコノミークラス”にも恩恵を確保すべきだ、という議論である。

この議論は、そこで使われている“ビジネスクラス”とか“エコノミークラス”と言った言葉から受ける印象よりもずっと真面目で真摯な議論だ。例えば、いま私たちの多くが自動車を自由に乗り回すことが出来るのは、かつてその分野の技術を特権的に購入することが出来た金持ちがいたからだ。彼らの資金をもとに自動車関連の技術は発展し、コストが下がり、一家に一台どころか、一人一台と言ってもいいほど自動車は普及した。“エコノミークラス”が自動車を購入できるようになったのは、かつて“ビジネスクラス”がその分野に投資(購入)してくれたからである。これは、一部の特権階級の顕示的な消費から大衆消費への移行という、消費社会の変遷とも対応している。大衆消費が可能になるためには、技術革新によるコストダウンが必要だったのであり、そのためには特権階級の顕示的な消費という下地が必要だったことは間違いあるまい。

一方で、混合医療に反対している日本医師会の見解も、十分に理解できる。既得権益など様々な問題があるとしても、医療を「社会的共通資本」と捉えるという日本医師会の立場はよく分かる。

日本が抱える医療問題をどちらがより“効率的”に、また“現実的”に解決可能かといえば、おそらく前者であるかも知れない。市場の仕組みというのはなかなか侮れないもので、市場経済がただ「富んでいる者をより富ませる」だけの仕組みであれば、ここまで普遍的に広まりはしなかっただろう。けれども、そうすることによって「“エコノミークラス”の医療は“ビジネスクラス”のおかげで成立している」とか「“エコノミークラス”は自分たちの享受している保険診療について “ビジネスクラス”に感謝しなければいけない」といった言説が、「持てるものの優越感」と「持たざるものの劣等感」を社会的現実として生成させるような自体が起こり得ること、いや、それが将来必ず起こるであろうことも忘れてはならないだろう。

結局、どちらの解決策をとっても、それだけでは上手くいかないだろう。市場は人間の意志によって制御されなければ、反対に人間を支配してしまうだろうが、その人間の意志もまた市場から独立したところには存在していない。月並みな折衷案のようだが、結局は、どのようにして市場での最適化を「社会的共通資本としての医療」という理念のコントロール下におくかという問題になるのではないか。

V for Vendetta

マトリックスを観て以来、ウォシャウスキー兄弟のかかわっている作品を見るときは常にそうすることにしているのだが、例によってこの作品が映画として面白いかどうかということはとりあえず置いておこう。(映画としてのこの作品に対する僕の評価は、この留保が全てである。)

興味深いのは、権力への抵抗というテーマに対して、この作品が極めて実践的な解答を導いている点にある。暴力による権力の打倒。これは、人類の歴史を紐解けば決して珍しい出来事ではない。抵抗権を持ち出すまでもなく、目的のための手段としての暴力を革命が常に肯定してきたことは周知のことだ。けれども、こと最近のポピュラーカルチャーに関して言えば、ここまで強い政治性を帯びて暴力を肯定する(かのような)メッセージが提出されることはあまりなかった。

もちろん、ブレイブ・ハートやパトリオットのような歴史ものではたびたび暴力が肯定的に描かれてきたし、スーパーマンのようなヒーローものや、ジャッジ・ドレッドのような近未来SFでもそうした傾向は一般的である。しかし、この作品はそうしたある意味で牧歌的な作品群とは一線を画している。それはこの作品が、近未来SFという体裁をとりながらも、実は近来的要素を排することで、極めて同時代的なメッセージを放っているからに他ならない。

第三次世界大戦後のイギリスという時代設定にもかかわらず、SF的なギミックや設定はほとんど出てこない。警官は普通の銃を使い、乗り物も普通の自動車であり、地下鉄があり、女性が身を守るために使うのは催涙スプレーである。Vの武器はナイフで、バットマンのようなカッコいい武器も、アイアンマンのようなスーツも出てこない。Vが銃弾よけに使ったのは、ただの鉄の板であった。こうしてSFやスーパーヒーロー的要素は、作品の世界観を破綻させない範囲で注意深く取り除かれている。

さらに興味深いのは、独裁者のアダム・サトラーの人物像とその支配体制も、極めて古典的であることだ。サトラーは明らかにヒトラーを、ノースファイアー党はナチスを模している。また、その権力の行使の仕方も、暴力、プロパガンダ、言論統制という極めて20世紀的なものだ。そこには、冷酷なロボットも、巨大な兵器も登場しない。一見すると徹底されているように見える市民の盗聴も、実際は盗聴器を積んだ自動車が市内を巡回して情報を集めるだけというアナログぶりだ。エシュロンだ何だといわれる現代の方が、よっぽどハイテクなのではないかと思わされる。

こうして、近未来SFの設定に安心しきっている視聴者を欺くかのように、現代の我々にとっても同時代的な政治性が色濃く残される。そのために、この作品で描かれる暴力からは牧歌的な娯楽の要素が取り除かれ、あたかも視聴者をその実践に扇動するかのような不思議なニュアンスがあるのである。

これは、SF的に見えるものが実は極めて現実的であることに徹底的にこだわったマトリックスとは手法的には対照的だ。マトリックスでは、ただのSFにしか見えない設定が、実は極めて同時代的であることが主張されていたのに対して、この作品では、極めて同時代的である事柄を、巧みにSF的設定に隠しこんでいるようだった。いずれにしても、それらに共通するのは、権力へのラディカルな抵抗である。ただし、マトリックスが認識論的な抵抗を問題にしていたとすれば、本作は唯物論的な抵抗を問題にしていた。これを後退であると見るむきもあるだろうが、必ずしもそうではない。むしろ、より現実に対するコミットが強まったという意味では、ラディカルさを増したとも考えられるからである。

僕は原作のコミックスを読んでいないので分からないが、インターネット上の情報などを総合すると、原作はもっとSF色が強い設定であり、またアナーキズム的な色彩も強かったようである。原作からのこうした変更を、脚本を担当したウォシャウスキー兄弟がどのような意図で行ったのかは定かではないが、そこには、現代の政治へのコミットはどのようにあるべきかという問題に対する、彼らなりの意志表明があるのではないかという気がする。

ここまで滔々と述べてきたが、最後にもう一度繰り返しておくべきだと思われるのは、このような読み込みは、この作品が映画として面白いかどうかということとは、いささかも関係ないということである。
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