インターネットは自由な空間である。多くの人がそう信じ込んでいるだろう。それこそが、インターネットのインターネットたる所以であると。しかし、現実はそれほど単純ではないようだ。

昨日付けの産経新聞によると、MSN中国が提供するブログなどが検閲の対象となっており、幾つかの禁止用語が書き込み不能であることが分かったという。ここの数年、中国はネットに対する規制を強めており、中国政府にとって好ましくないサイトの多くは閲覧することが出来なくなっている。この様な中国政府のネット検閲に関して今年4月に米国の研究機関が発表した報告によれば、中国のネット検閲は世界でも最高水準の効果をあげているという。かつては、ネットが中国の情報規制を終焉に向かわせているとの楽観論も見られたが、そんなに簡単な話ではなかったということだろうか。昨年には、Googleニュースの中国版が中国政府の検閲に追従し、複数の検索結果を削除している事実も明らかになっている。
こうした規制を政治的な観点から批判することも、もちろん重要だろう。しかし、この記事の関心はそこではない。僕がここで問題にしたいのは、IT技術が如何に効果的に情報を統制し得るかという事実である。そこでは物理的な暴力ではなく、技術的な暴力が行使されている。技術的な暴力が恐ろしいのは、「何かを知らされないこと」ではなく、「知らされていないことが知らされない」ところにある。例えば検索エンジンから検索結果が削除されるということの意味は、「実際は存在するはずのコンテンツが見つからない」のではなく、「初めから何も無い」に等しい。

これは僕が、「テクノロジーは人類の可能性を広げるか」で指摘した危険性の一つの発露でもある。テクノロジーは、それが複雑で効果的であればあるほど、人々の認識をその内側に絡め取ろうとする。実際、検索エンジンは非常に便利であり、複雑なアルゴリズムで有益な情報を教えてくれる。しかしそれがあまりに便利で身近であり、同時に一般の人々の理解を超えた複雑さを持っているために、「検索エンジンに無いものは、実際に無い。」という無意識の壁を作ってしまう可能性があるのだ。権力のネット検閲は確かに問題だが、ネットの向こう側を想像出来ない市民の存在はもっと問題である。(付け加えるまでもないことであるが、僕は別に中国人がそうだと決め付けているわけではない。単に、このニュースがテクノロジーと認識の関係を考える好材料であるから紹介したに過ぎない。)

当然、このような可能性は中国に限ったことではない。明日は我が身である。“たまたま”情報の自由を享受しているから自分は認識的に自由であるなどと考えるのは軽率であろう。現代社会において僕たちは、技術に取り囲まれて生活せざるを得ない。実際それは非常に心地よく、有意義なことでさえある。しかし、同時に非常に注意深く自らの認識を省みなければ、気付けば「技術の内側で生かされていた」ということにもなり得るのである。

冒頭で紹介した中国のネット検閲のニュースは、中国の人権問題に対する深い憂慮をかきたてると同時に、技術を支配し、従わせられるだけの認識を持つことが如何に重要であるかも教えてくれている気がする。



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