小泉首相率いる自民党の歴史的な圧勝劇から一夜が明けた。衆院が解散されたとき、いったい誰がこんな結果を予想しただろうか。二大政党体制に向かっていた日本の民主主義は、今や55年体制へ逆戻りしたかのような様相を呈している。

多くのメディアが指摘しているように、この結果の主たる要因は小泉首相の選挙戦略の巧みさにある。郵政民営化のみに絞られた単純な争点。善悪二元論的な分かり易い構図。刺客だホリエモンだという話題性。こうした分かり易さと劇場型の選挙活動が、多くの若者や無党派層を惹きつけたのは間違いない。単純化された争点は多くの人を俄か評論家にしたし、劇場型の選挙活動はある種のエンターテイメントとしてお茶の間に話題を提供した。その結果、投票率は67.51%にまで跳ね上がり、世界でも最も保守的な部類に属していたはずの自民党は、いつの間にか改革政党として大勝利をおさめていた。

さて。僕は別にこの結果を非難するつもりはない。小泉首相が言う通り、国民は「民営化を正論と評価した」のである。しかし、あまりにも「分かり易過ぎた」今回の選挙が、それなりの代償を伴う可能性があるということを指摘しておくことも、或いは意味のないことではあるまい。

第一に、郵政民営化とはそんなに“分かり易い”政策だったのか?そもそも、ほとんどの政党が郵政改革自体には賛成していたのであり、問われていたのは改革の中身であったはずだ。改革の中身を議論するには、それなりに複雑な政策論争が必要だ。ところが、自民党は巧みに「小泉改革反対=改革反対の抵抗勢力」という“イメージ”を作り出し、国民の関心を真摯な政策論争からずらしてしまった。「改革とは、小泉改革しかあり得ない」という雰囲気を巧みに醸成した小泉首相の手腕は認めるとしても、それが果たして国民に利益をもたらすかどうかは大いに疑問である。覚え易いキャッチコピーのオンパレードは、国民の関心を選挙に向けはしたが、必ずしも政策に向けたわけではなかった。ニューヨーク・タイムスのある記事は、郵政民営化を「ほとんどの有権者が理解出来ていない、分かり難い問題(an arcane issue little understood by most voters)」であると評している。事実に反してあまりにも分かり易く映った郵政民営化の、本当の分かり難さが見えてくるのはこれからであろう。

第二に、政治とはたった一つの争点のみで議論できるほど“分かり易い”ものなのか?政治は郵政だけではない。日本が直面している問題は内外に山積している。にもかかわらず小泉首相は、郵政解散という言葉を使って国民の関心を巧みに郵政民営化へと誘導することに成功した。郵政以外の争点は見事に覆い隠されたのである。この点は、海外のメディアが今回の選挙をどの様に見ているかに注目してみるとより明確になる。イギリスのガーディアン紙の12日付の社説には、「現在日本が直面している最も重要な問題は、選挙期間中ほとんど触れられることがなかった」とある。「もっとも重要な問題(the greatest single issue)」とは、日本の右傾化傾向のことである。平和憲法を改正し、米国の親密なパートナーとしてその世界戦略に協力する日本という文脈から見たとき、小泉首相は改革派どころか戦前の日本への逆行ですらあると、この社説は結んでいる。もちろん、この評はやや辛辣に過ぎる。しかし、憲法や自衛隊の役割といった議論が今回の選挙からごっそり抜け落ちていたことは、紛れも無い事実である。その結果、早くもイラクへの自衛隊派遣期間が延長されるとの見方が報道されている。郵政解散の結果がイラクへの自衛隊派遣期間延長に結びつくとは、全くもって奇妙な話だ。争点は郵政のみではなかったのか!?単一の争点で争われたはずの選挙の結果は、皮肉にも複数の争点に影響を及ぼしはじめている。

さて、ここまでの僕の議論は、実は小泉批判を全く意図していない。(恐らくは多くの読者の予想に反して。)敢えて批判の対象を挙げるならば、僕自身を含む国民という総体だ。なぜ、ここまで“分かり易さ”に流されてしまったのか。これこそ、「易きに付く」ということではなかったのか。参考までに今回の選挙に対する海外メディアの評価をみてみると、必ずしも芳しいものではない。確かにワシントンは諸手を挙げて歓迎しているが、ヨーロッパのメディアの多くが、そして米国のメディアでさえ、日本の民主主義は成熟した二大政党体制に向けた流れから退行したとの見方を示している。もしこれが、国民が政策論争よりも“分かり易さ”を優先した結果だとすれば、とても歓迎すべき事態とは言えない。この意味で、ヘラルド・トリビューンの8日付けの記事は、実に示唆に富んでいる。特に、「普通の日本人は、民主主義と自分との間に直接的な関係を見出していない」という指摘は、たとえ鵜呑みにしないとしても、真剣に考えてみる価値があるはずだ。もっとも、ここで安直に投票を義務化して罰則を設けようなどと主張することが、愚の骨頂であることは言うまでもない。民主主義は市民の主体性の発露としてこそ意味を有するのであって、投票の義務化など、それこそ民主主義の成熟とは程遠い手段である。

いずれにしろ言えることは、今回の選挙の“分かり易さ”が、近い将来何らかの代償となって再び立ち現れる可能性は決して低くないということである。