書きたいことが幾つもあるようで、どれもつかみどころがなく、何も書くことが出来ない。
良い作品だった。強くつかみとられ、深く引き込まれた。美しさにか。多分そうではない。確かに美しかった。独特な色彩感覚と、画角のとりかたが本当に見事だった映像。特に、絵の切り出し方は天才的だと思った。それから、音楽。存在を感じさせないほど場面にとけ込み、まるで空気のようだった。物語も、それ自体が美的な感覚に貫かれている。その美しさというのは、不思議なことに、自己犠牲とか、愛の葛藤とか、そういうものではないように僕には思われた。それは、なんと表現していいのか、どこか古い探偵小説さえ思い出させるような、生き方を貫くスタイルの美学のように感じられた。そして、他の何にも増して美しかったタン・ウェイ。ただ、それでも、僕を惹きつけてやまなかったのは、そういう美しさとは別のものだった。
では、それは何だったか?物語そのものだろうか。それも違う。確かに厚みのある物語だったけれど、それではない。自分では、なんとかく分かっているのだ。ただ、それを表現する言葉が見つからない。
まったく的外れな印象を与えるかも知れない危険を敢えて恐れずに書けば、そこに本物の人生があったことだ。運命と選択、構造と主体、衝動と理性。それらのどちらかでもなく、両方でもなく、むしろ混淆。いかなる必然性もなく、まったく合理的でなく、分かり易さの欠片もない、矛盾と葛藤のみで構成された、本当に生きられた人生。映画の世界は間違いなく本物の世界であり、そこで生きられた生は、あまりにもリアルな痛みを伴う生だった。いや、確かにその痛みはそこにあったのだ。
僕が惹かれたものは、他ならぬ人間の生そのものだった。必死に生きられたどんな人生のドラマでも持っている、ありふれた、けれども唯一の、そして一度きりの、かけがえのない輝きだった。
僕は、ドキュメンタリーは好きだけれど、「実話に基づいた」というのは好きではない。もちろん作品のモチーフに対する誠実さとして明記する分には差し支えないが、そこにそれ以上の意味を与えるのは大嫌いだ。というのも、「実話」というのは、既に生きられた人生ということを意味している。それは再現不可能な一度きりの輝きだ。それを無理矢理に再現したものなど、輝きの捏造に過ぎない。映画という芸術の素晴らしさは、虚構という手法によって現実を創造することにある。それなのに、既に現実であるものをわざわざ虚構にするなど愚の骨頂であると思う。
そういう風に考えたとき、この作品はまさに虚構という手法によって現実を創造していた。ワン・チアチーには鄭蘋茹という実在のモデルがいるようだが、チアチーは鄭蘋茹の生を代わりに生きているわけでも、その生を再現しているわけでもなく、彼女自身の生を、他の誰にも真似出来ないやり方で生き抜いてみせた。アン・リー監督は、普遍的な価値を演出して個人的な価値観を押しつけるのではなく、実際に一つの極めて個別的な命を生み出すことで、人間の生の普遍性を獲得してみせたのだ。
イー氏とチアチーの間で交わされる激しいセックスの描写も、ここで初めて意味を持ってくる。二人のセックスは、セックスという一般名詞で表現されるものではない。それは、二人の、個別的で具体的な、そして何よりも切実な、焦眉の問題の発露なのである。そこが、この作品が過激なセックス描写を売りにする数多の映画とまったく異なる点である。そこで描かれているのは単なる肉欲ではなく、孤独、怒り、苦悩、不信、信念、葛藤、諦め、屈辱、自負など、様々な要素が、肉欲と区別されずに、ひとつの塊として、つまり人生として、爆発する様なのである。だからこそ、あれほど強いセックスにもかかわらず、この作品には一切の退廃がない。
瑞々しいはち切れんばかりの性の美しさを描くようなナイーブさでもなく、腐臭の漂う欲の底へと逃避するデカダンスでもなく、切れば血が出る生身の人間の性がそこにあった。僕は、その生身に人間たちが生き抜いた人生の煌めきに、心から惹かれたのである。
良い作品だった。強くつかみとられ、深く引き込まれた。美しさにか。多分そうではない。確かに美しかった。独特な色彩感覚と、画角のとりかたが本当に見事だった映像。特に、絵の切り出し方は天才的だと思った。それから、音楽。存在を感じさせないほど場面にとけ込み、まるで空気のようだった。物語も、それ自体が美的な感覚に貫かれている。その美しさというのは、不思議なことに、自己犠牲とか、愛の葛藤とか、そういうものではないように僕には思われた。それは、なんと表現していいのか、どこか古い探偵小説さえ思い出させるような、生き方を貫くスタイルの美学のように感じられた。そして、他の何にも増して美しかったタン・ウェイ。ただ、それでも、僕を惹きつけてやまなかったのは、そういう美しさとは別のものだった。
では、それは何だったか?物語そのものだろうか。それも違う。確かに厚みのある物語だったけれど、それではない。自分では、なんとかく分かっているのだ。ただ、それを表現する言葉が見つからない。
まったく的外れな印象を与えるかも知れない危険を敢えて恐れずに書けば、そこに本物の人生があったことだ。運命と選択、構造と主体、衝動と理性。それらのどちらかでもなく、両方でもなく、むしろ混淆。いかなる必然性もなく、まったく合理的でなく、分かり易さの欠片もない、矛盾と葛藤のみで構成された、本当に生きられた人生。映画の世界は間違いなく本物の世界であり、そこで生きられた生は、あまりにもリアルな痛みを伴う生だった。いや、確かにその痛みはそこにあったのだ。
僕が惹かれたものは、他ならぬ人間の生そのものだった。必死に生きられたどんな人生のドラマでも持っている、ありふれた、けれども唯一の、そして一度きりの、かけがえのない輝きだった。
僕は、ドキュメンタリーは好きだけれど、「実話に基づいた」というのは好きではない。もちろん作品のモチーフに対する誠実さとして明記する分には差し支えないが、そこにそれ以上の意味を与えるのは大嫌いだ。というのも、「実話」というのは、既に生きられた人生ということを意味している。それは再現不可能な一度きりの輝きだ。それを無理矢理に再現したものなど、輝きの捏造に過ぎない。映画という芸術の素晴らしさは、虚構という手法によって現実を創造することにある。それなのに、既に現実であるものをわざわざ虚構にするなど愚の骨頂であると思う。
そういう風に考えたとき、この作品はまさに虚構という手法によって現実を創造していた。ワン・チアチーには鄭蘋茹という実在のモデルがいるようだが、チアチーは鄭蘋茹の生を代わりに生きているわけでも、その生を再現しているわけでもなく、彼女自身の生を、他の誰にも真似出来ないやり方で生き抜いてみせた。アン・リー監督は、普遍的な価値を演出して個人的な価値観を押しつけるのではなく、実際に一つの極めて個別的な命を生み出すことで、人間の生の普遍性を獲得してみせたのだ。
イー氏とチアチーの間で交わされる激しいセックスの描写も、ここで初めて意味を持ってくる。二人のセックスは、セックスという一般名詞で表現されるものではない。それは、二人の、個別的で具体的な、そして何よりも切実な、焦眉の問題の発露なのである。そこが、この作品が過激なセックス描写を売りにする数多の映画とまったく異なる点である。そこで描かれているのは単なる肉欲ではなく、孤独、怒り、苦悩、不信、信念、葛藤、諦め、屈辱、自負など、様々な要素が、肉欲と区別されずに、ひとつの塊として、つまり人生として、爆発する様なのである。だからこそ、あれほど強いセックスにもかかわらず、この作品には一切の退廃がない。
瑞々しいはち切れんばかりの性の美しさを描くようなナイーブさでもなく、腐臭の漂う欲の底へと逃避するデカダンスでもなく、切れば血が出る生身の人間の性がそこにあった。僕は、その生身に人間たちが生き抜いた人生の煌めきに、心から惹かれたのである。
この作品に描かれていた人生は、まさしくお書きのとおり、「運命と選択、構造と主体、衝動と理性。それらのどちらかでもなく、両方でもなく、むしろ混淆。いかなる必然性もなく、まったく合理的でなく、分かり易さの欠片もない、矛盾と葛藤のみで構成された、本当に生きられた人生。」だったと僕も思っています。
基本的に人の生を描いた劇映画において、作り手が企図しているのは、すべからく「実際に一つの極めて個別的な命を生み出すことで、人間の生の普遍性を獲得」することだろうとは思うのですが、そこのところに至る作品は、やはり稀有であって、『ラスト、コーション』は大した映画だと思っています。お奨めした甲斐がありました。