宗教は非平和的である。なぜなら宗教は排他的であるからだ。
突き詰めればどの信仰も排他的でしか存在し得ないと思うんだ。
以下Tim Kellerと言う人のThe Reason for Godって言う本の一部を勝手にかいつまんで日本語にしたものです。汗
下手っぴで長いかも知んないけど、是非読んでほしいです。では。
だいたいの宗教は、「私たちの教えが真実です」という。
すると、次第にその信仰の信者たちは「俺らは信じていない人たちよりも偉く、尊いのだ」と、優越感を感じるようになる。
さらにだいたいの宗教は言いつけを守り行う事によって、「神」とつながったり、救われると教える。
その信仰の信者たちは、次第に「不信仰、世俗的な人達」と関わらなくなる。
そこから、信者達が他の人を軽蔑したり、攻撃したりするような状況になるのは簡単な事。
では、この世にある様々な宗教をどうしたらいいか。
人類は3つの方法でトライしてきた。
一つ目。宗教を違法化する。これは、旧ソ連や中国共産党などが使った手段である。しかし、結果はそれぞれの歴史を見て分かるように平和をもたらすどころか、更なる迫害と弾圧である。
二つ目。宗教を社会から駆逐する。
法律による宗教違法化は、平和をもたらし得なかった。
ならば、特定の宗教を信仰する事は、反社会的だという風潮を作りだしてはどうか。実際、今の世の中、だいぶこの様な考え方が広がっている。しかし、この宗教は信仰していいけど、この宗教は駄目だ、という考え方自体が、独善的で、排他的ではないか。
三つ目。宗教は、個人的な信仰のみ許可し、公の場で信仰について語る事を禁止する。宗教は対立を起こしやすいので、公の場は無宗教、無信仰。人々は特定の宗教や信仰のもとではなく、人類にとってもっとも有益な政策、ポリシーなどのもとに団結すべきである。このような考え方はどうか。
しかし、これも問題は残る。なぜなら、何が人にとて益かを考える時に、無信仰でいる事は不可能だからだ。宗教や信仰というのは、「人生とは何か、自分は何者か、この世ですべき事は何か」このような問いの答えだからだ。言うなれば、宗教、信仰とは人生観。人生観は、生きるための自分の基準、自分にとって、何が大切かをはかる基準。自分の基準だからだ。「適当に生きてます」って人だって、それ自体が自分の基準であって、すべての人には何らかの行動の基準がある。それを公の場に持ち込まないってのは無理な話です。
ここで、キリスト教の話をすこし。
キリスト教にはほかの信仰の人を尊敬する下地があります。
また、キリスト教を信じていない人達の中にも、「いい人」はいるし、端から見ても、クリスチャンよりモラルのしっかりしている人もいるでしょう。
神や来世を信じるかどうかは別として、もし、神がいて、天国と地獄があるのなら、この世での行いが良ければ、天国や極楽に行けるという風に思っている人は少なくないと思います。
この点、キリスト教はこれとは逆の事を教えています。
イエスは救いをえるための人生の生き方は教えてはいません。むしろ、罪の赦しはイエスが私たちの代わりに罪の無い人生を生き、私たちの代わりに死、またよみがえられた事からくると教えています。神の恵みは他の人よりモラルが高い人、また善い行いを行った人に与えられるのではなく、自分の失敗、過ちを認め、救い主が必要だという事を認める人に与えられるのです。
クリスチャンの人は、クリスチャンじゃなくても、自分より頭の良くて、優しくて、自分より優れている人がいる事を認識すべきです。なぜなら、クリスチャンは自分の善い行いによって神に救われるのではなくて、イエスキリストが自分の身代わりになってくれたからです。
多くの宗教家や哲学者、そしてその信者は人の霊的なステータスはその行いによって決まると信じている。これは自然と他の信仰の人に対する優越感を生み出します。本当のクリスチャンにはこれはおこらないはずです。
よく、原理主義は暴力を引き起こす、と言われる。が、すべての人が、何かしら原理的な価値観、基準を持っている。
ならば問われるべき事は、「どの原理がその信者をもっとも愛があり、違いを受け入れる事の出来る人にするか」どの(突き詰めれば排他的でしかありえない)信仰が我々を謙虚な平和をもたらす人に変えるか。である。
キリスト教が生まれたギリシャ、ローマの宗教観、人生観が強かった時代、人々は表面上は寛容で、開かれた人たちで、それぞれが気に入った神々を信仰していました。しかし、その習慣は非人道的でした。反面、クリスチャン達は、神はイエスキリストただ一人だと教えます、しかhし、その生き方はギリシャ、ローマの価値観によって虐げられた人を受け入れ、自分たちとは社会的地位も人種も違う人も受け入れました。
このような’排他的な’信仰が違いに寛容な人を生み出せたのはなぜでしょうか。それはクリスチャンの信仰の最も根本的な部分には、神に敵対していた人のために死んだイエスキリストの存在があるからです。これは自分たちと’違う’
人に対して暴力をふるう事は出来ないという事です。
たしかに、イエスの名のもとに、不正が行われた事に目を背ける訳には行きません。
しかし、クリスチャンの根本的な、原理的なところに、平和を促進し、世界をいい方向に進める力がある事も無視できないはずです。
意訳おわり。
最後まで読んでくれてありがとう。
■「キリスト教は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に
(読売新聞 - 11月10日 23:33)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1016718&media_id=20
民主党の小沢幹事長は10日、和歌山県高野町の高野山・金剛峯寺を訪ね、102の宗教団体が加盟する「全日本仏教会」会長の松長有慶・高野山真言宗管長と会談した。
小沢氏は会談後、記者団に、会談でのやりとりについて、「キリスト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ。その点、仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい宗教だ」などと述べたことを明らかにした。
さらに、小沢氏は記者団に、「キリスト教文明は非常に排他的で、独善的な宗教だと私は思っている」とも語った。
小沢氏の発言は、仏教を称賛することで、政治的には「中立」ながら自民党と古くからつながりのある全日本仏教会に民主党との関係強化を求める狙いがあったものと見られる。しかし、キリスト教やイスラム教に対する強い批判は、今後、波紋を広げる可能性もある。
小沢氏の訪問は、来年夏の参院選に向けた地方行脚の第1弾という位置付けで行われた。
突き詰めればどの信仰も排他的でしか存在し得ないと思うんだ。
以下Tim Kellerと言う人のThe Reason for Godって言う本の一部を勝手にかいつまんで日本語にしたものです。汗
下手っぴで長いかも知んないけど、是非読んでほしいです。では。
だいたいの宗教は、「私たちの教えが真実です」という。
すると、次第にその信仰の信者たちは「俺らは信じていない人たちよりも偉く、尊いのだ」と、優越感を感じるようになる。
さらにだいたいの宗教は言いつけを守り行う事によって、「神」とつながったり、救われると教える。
その信仰の信者たちは、次第に「不信仰、世俗的な人達」と関わらなくなる。
そこから、信者達が他の人を軽蔑したり、攻撃したりするような状況になるのは簡単な事。
では、この世にある様々な宗教をどうしたらいいか。
人類は3つの方法でトライしてきた。
一つ目。宗教を違法化する。これは、旧ソ連や中国共産党などが使った手段である。しかし、結果はそれぞれの歴史を見て分かるように平和をもたらすどころか、更なる迫害と弾圧である。
二つ目。宗教を社会から駆逐する。
法律による宗教違法化は、平和をもたらし得なかった。
ならば、特定の宗教を信仰する事は、反社会的だという風潮を作りだしてはどうか。実際、今の世の中、だいぶこの様な考え方が広がっている。しかし、この宗教は信仰していいけど、この宗教は駄目だ、という考え方自体が、独善的で、排他的ではないか。
三つ目。宗教は、個人的な信仰のみ許可し、公の場で信仰について語る事を禁止する。宗教は対立を起こしやすいので、公の場は無宗教、無信仰。人々は特定の宗教や信仰のもとではなく、人類にとってもっとも有益な政策、ポリシーなどのもとに団結すべきである。このような考え方はどうか。
しかし、これも問題は残る。なぜなら、何が人にとて益かを考える時に、無信仰でいる事は不可能だからだ。宗教や信仰というのは、「人生とは何か、自分は何者か、この世ですべき事は何か」このような問いの答えだからだ。言うなれば、宗教、信仰とは人生観。人生観は、生きるための自分の基準、自分にとって、何が大切かをはかる基準。自分の基準だからだ。「適当に生きてます」って人だって、それ自体が自分の基準であって、すべての人には何らかの行動の基準がある。それを公の場に持ち込まないってのは無理な話です。
ここで、キリスト教の話をすこし。
キリスト教にはほかの信仰の人を尊敬する下地があります。
また、キリスト教を信じていない人達の中にも、「いい人」はいるし、端から見ても、クリスチャンよりモラルのしっかりしている人もいるでしょう。
神や来世を信じるかどうかは別として、もし、神がいて、天国と地獄があるのなら、この世での行いが良ければ、天国や極楽に行けるという風に思っている人は少なくないと思います。
この点、キリスト教はこれとは逆の事を教えています。
イエスは救いをえるための人生の生き方は教えてはいません。むしろ、罪の赦しはイエスが私たちの代わりに罪の無い人生を生き、私たちの代わりに死、またよみがえられた事からくると教えています。神の恵みは他の人よりモラルが高い人、また善い行いを行った人に与えられるのではなく、自分の失敗、過ちを認め、救い主が必要だという事を認める人に与えられるのです。
クリスチャンの人は、クリスチャンじゃなくても、自分より頭の良くて、優しくて、自分より優れている人がいる事を認識すべきです。なぜなら、クリスチャンは自分の善い行いによって神に救われるのではなくて、イエスキリストが自分の身代わりになってくれたからです。
多くの宗教家や哲学者、そしてその信者は人の霊的なステータスはその行いによって決まると信じている。これは自然と他の信仰の人に対する優越感を生み出します。本当のクリスチャンにはこれはおこらないはずです。
よく、原理主義は暴力を引き起こす、と言われる。が、すべての人が、何かしら原理的な価値観、基準を持っている。
ならば問われるべき事は、「どの原理がその信者をもっとも愛があり、違いを受け入れる事の出来る人にするか」どの(突き詰めれば排他的でしかありえない)信仰が我々を謙虚な平和をもたらす人に変えるか。である。
キリスト教が生まれたギリシャ、ローマの宗教観、人生観が強かった時代、人々は表面上は寛容で、開かれた人たちで、それぞれが気に入った神々を信仰していました。しかし、その習慣は非人道的でした。反面、クリスチャン達は、神はイエスキリストただ一人だと教えます、しかhし、その生き方はギリシャ、ローマの価値観によって虐げられた人を受け入れ、自分たちとは社会的地位も人種も違う人も受け入れました。
このような’排他的な’信仰が違いに寛容な人を生み出せたのはなぜでしょうか。それはクリスチャンの信仰の最も根本的な部分には、神に敵対していた人のために死んだイエスキリストの存在があるからです。これは自分たちと’違う’
人に対して暴力をふるう事は出来ないという事です。
たしかに、イエスの名のもとに、不正が行われた事に目を背ける訳には行きません。
しかし、クリスチャンの根本的な、原理的なところに、平和を促進し、世界をいい方向に進める力がある事も無視できないはずです。
意訳おわり。
最後まで読んでくれてありがとう。
■「キリスト教は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に
(読売新聞 - 11月10日 23:33)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1016718&media_id=20
民主党の小沢幹事長は10日、和歌山県高野町の高野山・金剛峯寺を訪ね、102の宗教団体が加盟する「全日本仏教会」会長の松長有慶・高野山真言宗管長と会談した。
小沢氏は会談後、記者団に、会談でのやりとりについて、「キリスト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ。その点、仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい宗教だ」などと述べたことを明らかにした。
さらに、小沢氏は記者団に、「キリスト教文明は非常に排他的で、独善的な宗教だと私は思っている」とも語った。
小沢氏の発言は、仏教を称賛することで、政治的には「中立」ながら自民党と古くからつながりのある全日本仏教会に民主党との関係強化を求める狙いがあったものと見られる。しかし、キリスト教やイスラム教に対する強い批判は、今後、波紋を広げる可能性もある。
小沢氏の訪問は、来年夏の参院選に向けた地方行脚の第1弾という位置付けで行われた。

