
連休で、観光客がたくさん来てくれているようだ。 今朝は日和も良く、穏やかな海は珍しい。 思い出に残る休日になるだろう。 国木田独歩の碑になっている巨岩は家のそばにある。 隆起した海の大岩がはこの辺りにはたくさんあったが、取り除かれて畑になったり、家が建ったりしてしまい、古い別荘か、幼稚園の庭にしか残っていない。

小さい頃は、これを 「象の岩」 と呼んで、背中に登るとそこは存外に広く、海が見渡せて、別世界に来た気がした。 以前紹介した野良犬クロ(すぐそばで飼われている)に挨拶して、早めに散歩を切り上げる。 若葉の季節と春の名残りの間の空気を綺麗にふるわせて音楽を聞くからには、ほとばしるくらいに自然の勢いのある響きと、光線を屈折させるくらいなまなましいエロスをまき散らすヴァイオリン。 英フィリップス・テストプレス。 グリュミオーのソロでモーツァルトヴァイオリン協奏曲、グヮルネリ・デル・ジェスで弾いたほうだ。 湧き上がる前奏に煽られながら、散歩で上ずった体を椅子に沈める。 朝の光が翳る部屋。 ちらちら音楽霊感が呼吸している。 やっぱり。 見えるものと見えないものがあるように、音は聞こえるものだけではない。

寄せる潮の波動や松林を渡る風が音楽と響き合う。 認識するのとまた違う感覚が、身体のどこかに働きかけて、自分の体が揺れていたり、つられて旋律を口ずさんだりさせるのだろう。 手を握ったら、摂氏何度?握力何キロ?では無く、あったかいか好意的か、優しいか元気かを感じるし、それだけでない「何か」も伝わってくる。 そのあったかさ優しさ、それと 「何か」 が音場に出てくれば、しめたものだ。 そういう風に感じる時が、音楽を聞いていられるときだ。 ただ、音楽霊感がどのようなものか、皆それぞれ違うだろう。 不思議なもので、有名な再生装置だからといって 「何か」 が出てくるわけでは無い。 第一楽章だけ聞いて、風呂に入った。
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