利き耳はどっち?
伸ばした両手の先で三角の穴をつくり、両目を開けて、目指した人形を見る。 見定めたら、今度は片目で見てみよう。 左目をつぶると、あら不思議、人形は消える。 今度は右目をつぶると両手の間にまた人形が現れる。 この場合、利き目は左目になる。 これは何度やっても同じことで、手に右利き左利きがあるように、目にも利き目があるのだ。 今年の春、京都の小さな眼鏡屋さんが、窓から地下鉄の看板を指して、教えてくれた。 

ということは、耳にも利き耳があるのかも知れない。 いや、あるに違いない。 僕の聴き方からすると、どうも左が利き耳のようで、まず左耳で聞いて、右耳がそれを補正するような感じを持つ。 もちろん右の耳は右のスピーカー、左の耳は左のスピーカーだけを聞いているのではない。 両端のスピーカー間を一辺とする正三角形の頂点に耳を持ってくるのも大切なのかも知れないが、そんなことを言うなら利き耳が左か右かで頭の方向も違うし、それより右と左の耳の聴覚能力、はたまた、耳穴の通り道の左右の大きさの違いのほうが、よほど重要なファクターになってくるのではないか。 あまりに頭の位置、耳の位置を意識してしまうと、果たして、音楽を聴きたい、感じたいという気分にヒトはなれるのだろうか。
自然界にあふれる音を何気に聞いているものにとって、このごろはステレオ再生、ツインチャンネル・リプロダクションというものが、胡散臭く感じられる。 この胡散臭さは、嘘っぽい・疑わしいという意味もあるが、僕にとってはまず、騙されたい懐かしさが来る。 少年時代に、混みあう映画館で西部劇を見たとき、空の青さ、酒場女の唇の赤が本物より青く、赤く見えた。 いや、大西部の空は、本当にあの色をしているに違いない、と信じたものだった。 英HMVの『ナイツ・イン・ウィーン』に針を下ろしたときも同じだった。 英国人も夢に描いたムジークフェラインザールの麗しい音場から溢れ出るウィーンフィルの響きに、これがホンモノに違いないと子供をとっくに卒業したはずの大人たちが、レコードの調べに込められた夢一杯の世界にのめりこんでしまうのだ。 なぜか? 音の魔法だろうか? 第六感を呼び起こす触媒としての音なのか。 音が聴覚や触覚、その他なんらかの感触がヒトのどこかにある何かを、呼び覚ます。
それは周波数帯域にあらず、再生装置の高い安いにあらず、ヒトの耳の聴覚能力にもあらず。 どこからともなく湧き上がってきて、聞き手の体を揺り動かさせたり、旋律をくちずさませるのは、なんなんだろう。 デッカ最盛期を支えた録音エンジニア、ロイ・ウォレスは当時最先端となる数々の録音方式を開発したが、それは彼自身が熟知していたオーディオ的『聴覚における情感生理学』に基づいていた。 彼は機器を知る人であり、情感を知っているし、人と人のアヤも存分に知っていたに違いない。 そうした彼の録音盤を聞いていて、第六感がはたらく時、僕は鳥肌が立ったりすることがある。
ということは、耳にも利き耳があるのかも知れない。 いや、あるに違いない。 僕の聴き方からすると、どうも左が利き耳のようで、まず左耳で聞いて、右耳がそれを補正するような感じを持つ。 もちろん右の耳は右のスピーカー、左の耳は左のスピーカーだけを聞いているのではない。 両端のスピーカー間を一辺とする正三角形の頂点に耳を持ってくるのも大切なのかも知れないが、そんなことを言うなら利き耳が左か右かで頭の方向も違うし、それより右と左の耳の聴覚能力、はたまた、耳穴の通り道の左右の大きさの違いのほうが、よほど重要なファクターになってくるのではないか。 あまりに頭の位置、耳の位置を意識してしまうと、果たして、音楽を聴きたい、感じたいという気分にヒトはなれるのだろうか。
自然界にあふれる音を何気に聞いているものにとって、このごろはステレオ再生、ツインチャンネル・リプロダクションというものが、胡散臭く感じられる。 この胡散臭さは、嘘っぽい・疑わしいという意味もあるが、僕にとってはまず、騙されたい懐かしさが来る。 少年時代に、混みあう映画館で西部劇を見たとき、空の青さ、酒場女の唇の赤が本物より青く、赤く見えた。 いや、大西部の空は、本当にあの色をしているに違いない、と信じたものだった。 英HMVの『ナイツ・イン・ウィーン』に針を下ろしたときも同じだった。 英国人も夢に描いたムジークフェラインザールの麗しい音場から溢れ出るウィーンフィルの響きに、これがホンモノに違いないと子供をとっくに卒業したはずの大人たちが、レコードの調べに込められた夢一杯の世界にのめりこんでしまうのだ。 なぜか? 音の魔法だろうか? 第六感を呼び起こす触媒としての音なのか。 音が聴覚や触覚、その他なんらかの感触がヒトのどこかにある何かを、呼び覚ます。