退化する赤

嵐電を降りると
煙がもうもうと上がっていた。
嵯峨野にある神社。
一年分の護摩木を積み上げて火をかける。
煙にはこんなにも力がある。
取り囲むひとたちをなぎ倒して
そのさきはるか天空めがけて駆けていく。

幾万万の木に書き込められたひとの祈り
この携帯写真を見て、何か違うとひっかかった。
ディジタルは赤が不得手だ。
紅葉はまだ生きていた、死への時間が生きていた。
それがこうして、奥行きや後ろの地が映らないきれいな赤になっている。
かたちや輪郭はくっきりとしているけれど、
肌触りや、肉感、動き、生きている感じがないのは誤魔化せない。
優れた性能のカメラであればあるほど骨と皮ばかりになってしまう赤。
おかしい。
ディジタルカメラでとった料理写真などはそれが顕著に出る。
肉料理の赤が少し腐ったように見えることが多い。
赤をひとの網膜は生きているものとして捉えるけれど、
ディジタルシステムは赤をただのものとして認める。
当たり前の事、には違いないのだけれど、
知らずの間に、この赤をほんとの赤として目が受け入れることに疑いを持たなくなってき始めている。
このごろはコンピューターグラフィックスを現実と受け止めてしまいそうな何かが体のなかで働き出してもいる。
これを人間の進化と呼んでいいものか。
音楽の再生にもあてはまる。
くっきりと本物に近くなればなるほど人間は嘘だと認知する。
生きた音、血と肉がある音楽、
イマジネイションを誘う音の世界のほうが先だろう。

スウェーデンは吹雪が続いているそうだ。
オランダは先週末から雪が降り凍れる気候で、
こんなこと今まで無かったと言ってきている。
パリは寒くて雨ばかり、お日様が出ている時間が少ないとこぼしている。
