2011年03月31日

オーディオ統一理論 35

古典的モノーラルプリアンプリファイアーの概要
ヴィンテージレコード愛好家にとって、同時代のオーディオ機器の存在は良き友です。しかし、この良き友が本当はどの様な働きをしているか正確に把握している人はごく稀です。 その代表的なものが、今回取り上げる古典的モノーラルプリアンプリファイアーです。 特にリニアHi-Fiで育った方々は、古典的モノーラルプリにおける様々な付加機能の存在は扱いにくいはずです。 それはリニア思想の立場から見た場合で、当時では常識的と言うより当たり前の機能でした。 有呈に言えば、必要不可欠なものです。 しかし、当時は当たり前であっても、それを知らず育ってきたオーディオマニア、レコード愛好家にとっては、実際こうしたファンクションを操作し、自らの好みの音を出そうとしても、何処をどういじればどうなるのか、又はその結果の正当性に確信が持てなくなる場面は当然あります。 そこで今回、この古典的なモノーラルプリアンプの様々な働き方について書いてみようと思います。恐らく今まで以上に解りにくいかもしれません。 ここで皆様に良く考えて頂きたいのは、今までこの様なことを記述した文章が存在したことがあるかと言うことです。 恐らくないはずです。 それは当然で、書くことがとても面倒だからです。 読み手側は、ああそんなものか位ですが、書く方としては、どうしたら理解して頂けるか、常に記述において考えを巡らせねばなりません。 しかも書いたとしても壱文の得にもならないのです。 皆様に、理解して頂きたいのは以後の記述において、私の述べる事柄の言外の意味を想像力を持って、今まで以上に膨らませてもらいたいと思います。 理解できるか否かは皆様の想像力の如何に掛っています。 
さて古典的モノーラルプリアンプリファイアーの本質から述べますと、このタイプのプリアンプの正体は、完全な入力信号可変体で、入力信号をストレートにパワーアンプに送るものではなく、可変力によってレコードから、カートリッジを通して送られてくる音楽信号を変化させるものです。 これはリニアHi-Fiの信号電送ロスを悪と考える思想と正反対のもの。 リニア思想では、電気信号は経路において、なるべくロスせず、入口から出口(スピーカー)まであたかも一本の道のように何処にも頼らずストレートに信号を通すことを信条としており、過去において私達はそのように教えられてきました。 現実社会に照らしてみれば、私達の周りで入口から出口まで真っ直ぐな道等はほとんどありません。 カーブもあるし、信号もある、四つ辻もあるし、行き止まりもあり、道とは様々な複雑な要素で成り立っています。 古典的モノーラルプリアンプリファイアーもこれと同じで、いくつもの道が複雑に絡み合った信号の道の集合体なのです。 そして可変力の行使において、ゲインの減衰もいとわないのです。こう書いてしまうと、リニア思想の洗礼を受けた方等は、それでは音の鮮度が落ちるのではと心配されると思われますが、それは確かにあります。 それがレコードとプリアンプの相互関係において、折り込み済みであったとしたらどうであるか、全ては予定されていたこととなります。 ここで、リニア思想に侵された人達の考え方の不合理性について書いてみますが、リニア思想オーディオの行くつく先は何処になるかと言えば、それは自家発電オーディオです。自前の発電機でオーディオ機器を動かそうとしますが、そうなると今度は電圧電流をコントロールする変圧器や安定化電源が必要になります。 それはリニア思想のストレート化に反するものです。 このことにより、電気は常に何かしらの可変によって、その姿を整えなければならないことが理解されるはずです。 そうなるとリニア思想とは不条理極まりない、リニア思想を重んずる方は、現実にある変電所の意味を良く考えてみることです。 それでもまだ納得されない方には、この様な可変プリを作った技術者達が、私達より更に頭の良い人々であったと言うことを知って頂きたいと思います。 彼らはパイオニアでした、今日のオーディオの基本形を作ったのは他ならぬ彼らであり、今日の私達は、彼らの行為の延長線上にあるに過ぎません。 新しい革新的な製品を開発した人と後から付いて行ってあれこれ言う人とどちらが偉大であるか、彼らと比較して今の私達は一体何を作って来たのか? これは日頃ヴィンテージ機器のレストアに携わっている、私の正直な感想です。 
我国のオーディオに関わる人々の中には、過去の偉大な技術者の業績を顧みず、平気で非論理的な、どうみても正しいとは思えないことを平気で言う方々がおられ、何故私がこのようなことを言わねばならないのか、それはこのようなマニアの慢心が得てして、ヴィンテージオーディオの本質を歪めてしまい、更に本章の目的である古典的モノーラルプリアンプについての理解にあたっての障害となり兼ねないことを危惧するためです。 本題から少々それてしまいました。 前文で古典的なモノーラルプリアンプリファイアーとレコードとの相互的な関係(信頼としても良い)に於いて、可変に伴うゲインの損失は折り込み済みと述べました。 ここで果たして本当にゲインが損失しているのか、という疑問が浮かんできます。 可変により、一見ゲインの一部が消失したかのように思われたとしても、録対やトーンコントロール、ボリューム等を操作しているとある瞬間、突然失われたと思われたゲインが再び何事も無かったかのように蘇ったり、時にはゲインがより増加したが如く、スピーカーの音圧が上昇したりすることが度々起こるからです。 この現象を考えてみれば、それは一見可変により失われたゲインが、実は失われたのではなく可変に伴ってその姿を変えただけではないかと推測されるのです。 つまりあまり急にその姿が変化するため、見かけ上失われたと感じられてしまうのです。 そして可変により姿を変えた電気信号は、プリアンプリファイアー自体の中に潜伏しており、さまざまな可変スイッチの操作によって、タイミングがぴったり合うと、まるで水路の関を外したように急に勢いよく流れ始め、それによってゲインが復活したかのような作用を聴くことになり、平明に言ってしまえば、入力電気信号、特に音楽の主要な所の信号は、可変に伴いプリアンプリファイアーの中で死んだふりをしていると解釈した方が良いと思います。 一粒の麦も死せば(可変されれば)より多くの実を結ぶと言うことです。ヴィンテージオーディオ製品の開発技術者の面目躍如たるところで、こうしてみると今日のオーディオに関わる人々が、彼らには遠く及ばないといえなくもありません。 彼らの目はもっとずっと遠くを観ており、その観る先は聴く人の背中なのです。 そして彼らの視先を感じ取ることの出来る人であれば必ずやヴィンテージオーディオ機器から良き音と、音楽を明確な姿として空間に散りばめていられるはずです。 古典的モノーラルプリアンプリファイアーは大変定力のある代物で、使用に当たってはそれなりの音楽的な素養が必要となりますが、これによる実りは大きいものがあります。 何より自分の心と対話することが出来るからです。 頭の中や心の内で鳴り響いている音が現実のものとして、時には全く本人が意図した音とは異なった音が出たとしても、それはもう一人の自分が求めた音であるかもしれません。 その意味において古典的モノーラルプリアンプリファイアーの創出する音とは、潜在意識の求めた心象風景であると言えるのです。 潜在意識の対話であり、その対話によって新しい真性の自己と出会えるかもしれません。 自分の好きな音とはこの様な音であり音楽であったかを知ることが出来た時こそ大きな喜びが生まれ、聴き手は真のオーディオ的な快感に満たされるはずです。 古典的モノーラルプリアンプリファイアーの創出する音世界は、かなりディープなものであり、それゆえ一度この世界にどっぷり浸かってしまうと、もはやステレオ録音等あざとさが目立ってしまい、やはりレコードはモノーラル録音にこそ最良であると信じてしまうことになりかねません。 しかし、この様な古典的モノーラルプリアンプリファイアーの力は、リニアHi-Fiプリアンプのようなラインを一本の道として用いるものではありません。 古典的モノーラルプリアンプリファイアーの入力信号とは、料理のための素材であり、可変力という包丁でさばいて行きます。 そして可変力の果ては、パワーアンプリファイアーそのものです。 そこに到るまでの道は無数にあり、そのどれもが真理(レコード再生における音楽的感動快感)へと繋がっているのです。 必ず一本きりの道である必要はありません。 この様な深くレコードとの相互信頼で結ばれた古典的モノーラルプリアンプリファイアーをヴィンテージレコード再生に用いず、リニアHi-Fi思想によって作り出されたプリアンプを使用し再生を行えば、それはのっぺりした平面的なサウンドでしかないのです。 つまり、オリジナル盤より復刻版の方が音が良いというひとたちの装置から出される再生音がそれです。 それはRiAAに頼り切った、別の言い方をすれば、入力信号の確定化によって、信号の可変によって、音楽を作ることを怠った結果起こったことなのです。 各社専用録音特性整合セクション、録対や、トーンコントロール、ボリューム等の可変力によって、様々な真理(レコード再生における究極の感動)に到る、無数の道を創造することこそ、古典的モノーラルプリアンプリファイアーの本質であります。
以上T氏 


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