TD124Mk.2とTD125
1965年トーレンス社はTD124Mk.2を発表したわずか3年後、TD125ベルトドライブプレイヤーを発表した。 TD124Mk.2がわずか3年でフェードアウトを余儀なくされたのは、いかにも早い。 翌年の1966年にEMT社と合併が成立したのが第1の原因でした。 合併というよりは、EMTによる事実上の買収であり、赤字の一因であったTD124の生産を切り上げざるを得なかったのでしょう。 苦労して作り上げたMk.2、わずか3年で生産を打ち切られたとは。 90000番台のMk.2の音を聴いた私は、彼らの悔しさが良くわかります。
EMTに残った技術者とEMTの社員で作られたのが1968年に登場したTD125ベルトドライブプレイヤーです。 しかし、機構も仕様も再生される音もTD124とまったく違う音を出すレコードプレイヤーを果たしてトーレンス社製と言えるのか? トーレンス社自体も名前こそトーレンス社ですが、実体はEMTの意向を伺う会社となってしまい、TD125の発売をもってその歴史を終えたと思われます。 EMTに買収されたトーレンス社を何と呼べばいいか私が付けた名前は「EMT・THORENS AG」略して「ETAG」???
新生ETAG社が生み出したTD125はそれなりの成功を収め、TD126やそれに続くモデルを立て続けにそれも長期に渡って販売してきました。 その成功ゆえ英国リン社LP12のようなTD125の亜流まで生み出すことになりました。 我国でETAG社のプレイヤーが確固たる地位(あるいは、それなりの地位)をえたのはTD125ではなくTD126になってからであり、今から考えればその地位も上級の扱いとはいえませんでした。 その地位(当時のステレオHiFiブームでの位置づけ)は、この時代全盛を極めたダイレクト・ドライブモータープレイヤーのアンチテーゼとしてでした。 それはTD125の音の本質をある程度明らかにするものであり、ダイレクトドライブプレイヤーは徹底的にリニア思想によって作られ、音楽的な雰囲気等よりもっと直接的に音に向きあおうという姿勢に対し、TD126は違う方向にある音の雰囲気を大切にしたものであったために主流とはなれなかった。 それなりの地位とはそういうことなのです。 TD126の音こそが、我国のオーディオマニアにトーレンス社の音ってこれといった音の出ないそれなりの音、というブランドイメージを与えるきっかけを作ってしまった。 これに対してガラードの地位は上がるのです。 ガラード401は当時まだ入手可能で、ユーザーが望めば301も入手できたかもしれません。 この時代TD126とガラード401、301を比較したら、まずガラードを選ぶでしょう。 当時のジャズ再生で、ガラードと比べて明らかにエネルギー不足、それが後のヴィンテージ市場でTD124が評価されなかった遠因となったのです。 もっともノンレストアのTD124は、ちょっと強めのTD126ぐらいしか音が出なかったから仕方ありません。 さてTD126の音質ですが、ETAG社が作ったベルトドライブ型プレイヤーを125系として、ひとまとめにします。 なぜ系かといえば、いかに手を変え品を変えても基本的な音の性質は皆同じだからです。 ロープライスモデルもハイエンドの製品もクオリティこそ変わるが性質は変わりません。 それがベルトドライブ型のもつ宿命です。 これから述べることは、すべてTD124との比較において、TD124の目を通してTD125系を語ります。 TD125系の音の最大の弱点は、リズム感がないことに尽きますが、これこそがガラードに及ばないところで、何しろ音が止まらない、ジャズ、クラシックのオーケストラ再生、パルシプな波形に対する追従性が大変弱い、つまり音の瞬間最大ダイナミックス点、つまりリズムの芯がわからない。 怖ろしいのは、これがあくまで聴覚的なものでレコードプレイヤー自体の物理特性にはまったく現われないのです。 レコードプレイヤーの特性においてノイズやSN比、回転むら、ワウ等様々なテスト項目がありますが、リズム感に対する数値グラフあるいは特性表はありません。 物理特性では、優秀な数値が出たとしてもそれが直ちに音楽性の有無を立証するものではありません。 125系全体の音は総じてパンチ力に欠けており、特に低音域がゆるくジャズやクラシックでも音楽的トルク感が感じられない。 これはTD125系に限ったことではなく、現代ベルトドライブプレイヤーに共通する傾向でもあります。 それは伸ばされたゴムが戻る時のスピード感に例えられ、二人の人が両方でゴムを引っ張って片方が手を離すとアイドラー型もベルト型も基本的には戻るスピードは変わらないのに感覚的にアイドラー型の方が早く感じる。 それは手を離した時の初速スピードが早いからです。 全体としてゴムが戻るスピードはベルト型と同じでも印象としてはアイドラー型の方が早く感じてしまう人間の予測感がそうさせています。 ベルト型は手を離した後の戻るスピードが等速で、そうなると人間はスピードに対してアイドラー型より遅く感じます。 この感覚の差が再生音において低音部のリズム感と音の跳躍感において顕著であり、高音部の複数の音と絡み合う時、両方の整合が上手くいかなくなってくる。 低音部が等速で進んでいるのに対して、高音部はもっと早く進むといった感じになる。 なぜそうなるかと言えば、人間の聴覚は低音部の音形を承認しづらいからで、これに反して高音部は割合はっきりと確認できる。 それ由、高音に対して低音部が遅れているように感じてしまい、結果的にリズム感がズレてしまう。 そして低音が高音に対して均等化するには高音域より少し早く感じるようにしないと再生音は不自然なものとなってしまう。 整合がすっきりとしないからです。 整合させるためには、低音部が高音部に負けないように、「音が早い」といった印象をリスナーに与えればよいことになります。 これはTD125系とTD124を比較すれば直ちに理解できます。 次にTD125系の音色はといえば、一言で言って私達がイメージするヨーロッパ的な音そのものです。 もっときつく言えばヨーロッパコンプレックスを持っている人に打ってつけの音とも言えます。 穏やかで、豊かでふくよかな音を決して荒立てない大人の音です。 しかし今日そのようなヨーロッパ人はほとんど皆無であることは、ワールドニュースでいやと言うほど知らされてきました。 特に1970年代のTD126の音は代表的なもので、あの鷹揚な音質はあの時代のみ有効に働いたわけで、現代ではもはや古い音になってしまった。 ここには高地ガリア人(スイス人)、フランク人(フランス人)もゲルマン人もバイキングもいない、そこにあるのはただ幻のヨーロッパ人の幻影です。 つづく
以上T氏

新生ETAG社が生み出したTD125はそれなりの成功を収め、TD126やそれに続くモデルを立て続けにそれも長期に渡って販売してきました。 その成功ゆえ英国リン社LP12のようなTD125の亜流まで生み出すことになりました。 我国でETAG社のプレイヤーが確固たる地位(あるいは、それなりの地位)をえたのはTD125ではなくTD126になってからであり、今から考えればその地位も上級の扱いとはいえませんでした。 その地位(当時のステレオHiFiブームでの位置づけ)は、この時代全盛を極めたダイレクト・ドライブモータープレイヤーのアンチテーゼとしてでした。 それはTD125の音の本質をある程度明らかにするものであり、ダイレクトドライブプレイヤーは徹底的にリニア思想によって作られ、音楽的な雰囲気等よりもっと直接的に音に向きあおうという姿勢に対し、TD126は違う方向にある音の雰囲気を大切にしたものであったために主流とはなれなかった。 それなりの地位とはそういうことなのです。 TD126の音こそが、我国のオーディオマニアにトーレンス社の音ってこれといった音の出ないそれなりの音、というブランドイメージを与えるきっかけを作ってしまった。 これに対してガラードの地位は上がるのです。 ガラード401は当時まだ入手可能で、ユーザーが望めば301も入手できたかもしれません。 この時代TD126とガラード401、301を比較したら、まずガラードを選ぶでしょう。 当時のジャズ再生で、ガラードと比べて明らかにエネルギー不足、それが後のヴィンテージ市場でTD124が評価されなかった遠因となったのです。 もっともノンレストアのTD124は、ちょっと強めのTD126ぐらいしか音が出なかったから仕方ありません。 さてTD126の音質ですが、ETAG社が作ったベルトドライブ型プレイヤーを125系として、ひとまとめにします。 なぜ系かといえば、いかに手を変え品を変えても基本的な音の性質は皆同じだからです。 ロープライスモデルもハイエンドの製品もクオリティこそ変わるが性質は変わりません。 それがベルトドライブ型のもつ宿命です。 これから述べることは、すべてTD124との比較において、TD124の目を通してTD125系を語ります。 TD125系の音の最大の弱点は、リズム感がないことに尽きますが、これこそがガラードに及ばないところで、何しろ音が止まらない、ジャズ、クラシックのオーケストラ再生、パルシプな波形に対する追従性が大変弱い、つまり音の瞬間最大ダイナミックス点、つまりリズムの芯がわからない。 怖ろしいのは、これがあくまで聴覚的なものでレコードプレイヤー自体の物理特性にはまったく現われないのです。 レコードプレイヤーの特性においてノイズやSN比、回転むら、ワウ等様々なテスト項目がありますが、リズム感に対する数値グラフあるいは特性表はありません。 物理特性では、優秀な数値が出たとしてもそれが直ちに音楽性の有無を立証するものではありません。 125系全体の音は総じてパンチ力に欠けており、特に低音域がゆるくジャズやクラシックでも音楽的トルク感が感じられない。 これはTD125系に限ったことではなく、現代ベルトドライブプレイヤーに共通する傾向でもあります。 それは伸ばされたゴムが戻る時のスピード感に例えられ、二人の人が両方でゴムを引っ張って片方が手を離すとアイドラー型もベルト型も基本的には戻るスピードは変わらないのに感覚的にアイドラー型の方が早く感じる。 それは手を離した時の初速スピードが早いからです。 全体としてゴムが戻るスピードはベルト型と同じでも印象としてはアイドラー型の方が早く感じてしまう人間の予測感がそうさせています。 ベルト型は手を離した後の戻るスピードが等速で、そうなると人間はスピードに対してアイドラー型より遅く感じます。 この感覚の差が再生音において低音部のリズム感と音の跳躍感において顕著であり、高音部の複数の音と絡み合う時、両方の整合が上手くいかなくなってくる。 低音部が等速で進んでいるのに対して、高音部はもっと早く進むといった感じになる。 なぜそうなるかと言えば、人間の聴覚は低音部の音形を承認しづらいからで、これに反して高音部は割合はっきりと確認できる。 それ由、高音に対して低音部が遅れているように感じてしまい、結果的にリズム感がズレてしまう。 そして低音が高音に対して均等化するには高音域より少し早く感じるようにしないと再生音は不自然なものとなってしまう。 整合がすっきりとしないからです。 整合させるためには、低音部が高音部に負けないように、「音が早い」といった印象をリスナーに与えればよいことになります。 これはTD125系とTD124を比較すれば直ちに理解できます。 次にTD125系の音色はといえば、一言で言って私達がイメージするヨーロッパ的な音そのものです。 もっときつく言えばヨーロッパコンプレックスを持っている人に打ってつけの音とも言えます。 穏やかで、豊かでふくよかな音を決して荒立てない大人の音です。 しかし今日そのようなヨーロッパ人はほとんど皆無であることは、ワールドニュースでいやと言うほど知らされてきました。 特に1970年代のTD126の音は代表的なもので、あの鷹揚な音質はあの時代のみ有効に働いたわけで、現代ではもはや古い音になってしまった。 ここには高地ガリア人(スイス人)、フランク人(フランス人)もゲルマン人もバイキングもいない、そこにあるのはただ幻のヨーロッパ人の幻影です。 つづく
以上T氏