2015年01月18日

デコラにお辞儀する? 3

デコラが製作された理由のひとつに、ステレオ再生のひとつのひな型を示したいという英デッカの願望があります。 低音域をしっかりと固め、さまざまな向きのスピーカユニットにより音場を拡げ、芯がしっかりとした伸びのある音は電蓄独特の空気を震わせるピュアな振動から生まれます。 家庭で聴くにふさわしい気品ある音楽表現。 カートリッヂ・チューナからスピーカまでメーカが調整した一体型ですから、ドンと据えれば、再生音は工場出荷時そのもの、デッカ・ラボラトリが意図したステレオ再生が約束されます。 ゆるぎないひな型です。  しかし、それは新品時のみ約束されたこと、半世紀を経過した今となっては話は違います。 アンプリファイア部は英国基準の音質を熟知した修理技術者でなければなりませんし、あとにはプレイヤの修復が待ち受けています。 粉末化したインシュレーション用スポンジの交換も厄介です。 片チャンネル6個のスピーカユニットが一個でも破損したら終わりです。 発売時のようにデッカのエンジニアが来訪して修理部品交換してくれれば安心ですが、50年後の今となっては話は違います。 レストアを依頼してもオリジナルの音質で戻ってくるのかどうか。  一体型のメリットを生かして製作されたデコラです、修理となると一体型ほど不都合なものはありません。 それでも丁寧にレストアされてきたデコラを聴くと確かに楽しめるのです、おおいに。 しかしお辞儀するほどのものでしょうか。  貧弱なアンプリファイア部を見るにつけ、価格の半分以上がその豪奢なキャビネットの価格であるのにもうなずけます。 デコラにお辞儀するという記述に私が感じた納得のいかない違和感の正体は何なのでしょう。 これは心あるオーディオ愛好家の方も感じていられるのだと思います。 デコラは悪くないのです。 我国に初めて輸入された時代に購入した人々は含蓄もあったでしょう。 ただ、問題はその後です。 聴き方というか見方がズレているのです。 英国にしか出来ないものもあれば、日本にしかこしらえられないものもある。 へりくだってはいけません。  媚びてはいけません。

日本人は西欧人のようには音楽(西欧由来の音楽)をそれほど必要としていない。 これはヨーロッパから到来したプレイヤやスピーカを日がな一日弄り回している私の正直な感想です。 西欧人がオーディオ機器の開発にかける意気込みは、とにかく異常です。 執念と言っても良いくらいです。 これほどまでの情熱は我が国のオーディオ界には見られませんし、ユーザも持ち合わせてはいません。 厳密にいえば1950年代までの彼らのオーディオに対する情熱にはすさまじいものがあり、音と音楽の本質を極めるために考えつくありとあらゆるアイデアを試したとしか思えません。 こうした執着は我国のモノサシでは理解できない。 理由はあります。 西洋音楽というのは完全に人工的なものであり、人の手と頭で作り出したものに限られるのです。 日本人は元来自分たちの音楽を聴いていました。 身の回りで発生する音を言語化してついには音楽化してしまうのです。 風の音、波の音、虫の音そのものが私たちには音楽なのです。 存在のあらわれるところに託される音を言の葉に交換することに始まり、それに感情が添えられて生命が宿り、ついには声なき歌としてこころの中に沈殿していく。 私たちが西欧人ほどに人工的な音楽を必要としないのは、こうしたこころのはたらき方があるからなのです。 アルファベットでは、現世で起きる存在証明としての音を我国の言葉ほどには自由奔放に言語に交換することはできません。 ですからアーリア系人種の荒ぶる魂を癒すには人工物としての音楽が必要となるのです。 彼らにはイデアはありますが、情趣、風雅といったたぐいは持ち合わせてはいません。
 
オーディオと宗教についてもほんの少しふれておきます。 世界の国のほとんどは一神教あるいは多神教かに分かれています。 先進国というカテゴリの中で我国は唯一多神教を容れた民族であり、どの神も平等に扱われています。 それなのにオーディオでは、一神教であろうとする傾向が見れます。 ひとつの例がWE系の再生装置です。 この系統には充分に気を付けたほうが良いでしょう。 これが最高であるとか、絶対のものであるとか云々されるとき、かならずオーディオ道とか師匠なる言葉がついてくるからです。  この項おわり

以上 T氏 


posted at

2015年01月18日