2015年06月22日

テレヴィジョンとステレオ再生と 2

こうした負の遺産ともいえる聴き方は、LPステレオが登場してから連綿と続いていきます。 音を音楽の使途と捉えるのなら、音を見るという行為はしてはいけないことです。 音楽を聴くうえで必要な想像力とはまるで違う妄想にすぎないからです。 オーディオの想像力とは、音を因として音楽を花開かせ、はばたかせることであり、妄想は自分勝手な思い込みであって音を音楽と結びつける力は弱いのです。 
音を視覚化する(見えるように音が出現する)という行為がステレオ再生の一番の特長である、という暗黙の認識はいったい誰が始めたのでしょう。 レコード会社やオーディオメーカでした。 何よりそれが最も効果が上がるステレオのキャッチフレーズでした。 仏像と同じようなものです。 一般の人々には理解しにくい仏の教えを仏像という具現化したもので示せば大衆の理解は得やすいのです。 DSC_0123しかし、仏像で一般の人々を引きつけても、それはうわべだけのことであり、本来の目的は仏像の示すところのブッダの教えが人々に伝わらなければなりません。 仏像に魂を入れるとはそういうことでした。 ここが一番の問題でした。 しかし、オーディオでは本来その役目を負うべきメーカと評論家が、あろうことか偶像崇拝を推し進めてしまったのです。 シナイ山から下ったモーゼがユダヤの民たちが祭り上げた偶像を破壊したような行為はついぞされることはありませんでした。 結果、オーディオマニアは何も疑うことなく偶像を崇め、ありえないようなやり方でシステムを構築しては壊し、より新しい偶像を求め続けました。 これは今も続いています、ご承知のとおり。
音の形を空間にとどめるのを第一に考えているのです。 その結果、再生される音楽は骸骨のように骨と皮ばかりになってしまい、音色などはまったく意識の外に追いやられました。 ハーモニクスと倍音によって醸し出される音色は音の形を定める輪郭(アウトライン)をぼやけさせてしまいます。 音を見るように再生するには輪郭をはっきりくっきりとさせなければなりません。 実際、音色に言及するマニアはそうはいません。 そればかりか、音色がどのようなものか、音楽ごころあるマニアにしか感じ取れないままできてしまっているのです。  
これまで書いてきたようなステレオサウンドをしてステレオ再生の王道とみなしているマニアは、ヴィンテージ時代の装置でオリジナル盤を聴く時、ある種の違和感を覚えるかも知れません。 音の姿を見ようとしても音がはっきりとは見えてこないからです。 と、同時にひょっとして今までのは何だったんだと疑う方は、こうした聴き方こそ求めていた音楽だとはっきりするかもしれません。 つづく
以上T氏

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2015年06月22日