2021年03月13日

自然、そして情緒

桜を待つ間、レコードプレイヤにいのちを吹き込む作業を進めている。手が離せないので、Youtube を流している。最近レパートリが一挙に広がって、かゆいところまで聞けるようになっている。今週は英国の知らない作曲家たち、Scott/Quilter/Cowell/Morgan/Harvey etc... を流している。Cyril Scottなどは百を超える演奏が聞ける。彼らの音楽、自然と情緒の風が体を過ぎていく。僕は部品を外したり、擦ったり磨いたりしている。景の色、人間のいとなみ、英国人にも情緒というものがあったりしたのかなとも。忘れられた作曲家たち、大戦の傷を負った彼らはエッセイを書く風で五線譜の上にペンを走らせる。「聞かせよう」とする毒気が無い。 Where the rainbows end などは新日本紀行のテーマ音楽に似た共感を英国人は抱くのではないか。前に聞いたことがあるような音の情緒、そのまま流すスピーカは罪である。

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Lowther Audiovector の背後から覗く小さな二台のスピーカの右側。二台あるけれど右側一台だけで聞いたほうが、多情な音になる。スピーカを聞くのではなく、スピーカが震わせる空気を感じる。耳で聞くより肌で聞くといったほうが良いかもしれない。レストア作業しながらのことだから、当然スピーカへの意識が薄れていく。気持ち良く流れる音楽、滑らかな水の響き。聞くのは音楽だけでない。例えば漱石の草枕、5時間余りで聞ける。本では気付かなかった和尚と画家の問答にある艶っぽさが頭の後ろの空間に広がって、すこしく部品を磨く手を休める。無意識にはたらくスピーカ。まず嫌な音がしない、気持ちが良い、これは人それぞれに違うはずだから、きっと一人一人にふさわしい「あっ、これ」と本能に訴える音があるはず。僕の場合、25僂らいのスピーカが心地よい、このROLA-CELESTIONは音に出汁が利いている。どういうわけか大きい口径はよほどでないとどこかアラが目立つ。「何も何も、小さきものは、みなうつくし」
ROLA-CELESTIONのことはオーディオの音 音楽の音でも

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2021年03月