2008年01月06日
頭の中の再生装置
霜降る小道を歩いた。 霜柱を踏んで進んだ。 大輪の緑、一面のキャベツも白く凍って葉を締めている。 日向にでると、同じキャベツでもびっしり朝露を宿して、今にも動き出すくらいに生きている。 見渡せば何万、何十万というこの町の人口よりも多い数のキャベツが呼吸している。 耳を澄ませば、キュウキュウと息をしているのが、あちこちから聞こえてくる。 今朝は歩きながら、きのうの夜聞いた、バッチーニの弦楽四重奏曲のことを思い出していた。 それは古い英デッカのLPで、重い盤に針を下ろした途端、モワッと何かが湧き出て、うきうきしてきたからだ。 あの感じ、フカフカの酒蒸し饅頭のセイロを開けたときにでる、白くて甘い蒸気に似ていた。 人のこころを動かす音を出す、なかなか出来るものではない。 きのうの音楽は煙をいきなりモクモクと出して、聞き手をいっぺんに引き込んだ。 一度共感してしまうと、音楽は聞き手の腕をつかんで離さないように出来ている。 そう、あの白い煙は、手品だった。 丘をのぼりながら、ある曲の出だしが、ふらりと浮かんだ。 バッチーニと違って、とお過ぎない、近すぎない距離から聞こえてくる、懐かしい旋律。 青い光線が勝っている海の近くの丘から聞こえてくる、四重奏が奏でる引き潮の和声。 モリス・ラヴェル。 歩きながら、頭の中で演奏はいつのまにか始まっていた。 はるかに円い水平線の海が見え、近くにキャベツの吐息が聞こえるあいだに、ラヴェルはずいぶんと控えめに聞こえてくる。 道端に水仙が何本かせっかく咲いたのに、おのれの花が重いのか、茎首がひょろりと折れて死んでいる。 と、思ったらほかの場所の水仙も首が折れて咲いてる。 なーんだ、こういう咲き姿が普通だと、初めて知った。