2009年08月14日
EQ10 生産完了に寄せて 2
私がEQ10というフォノイコライザーから真っ先に感じたのは、音楽表現的な痛みという感覚に敏感に反応していることでした。音楽は人間によって人間の為に作られたものであり、それゆえ喜怒哀楽が存在しますが、それ以外に、『痛み』という感情感覚が存在しなければなりません。しかしながら、今日このような事を感じさせるフォノイコライザーやプリアンプがどれだけあるでしょうか? ほとんどの製品は高SN比に基づく美しい音を得んがため、この音質にある痛みに無関心なのです。痛みはオーディオ再生においても、欠くべからざるものであり、精神においても、また、肉体的にも大切なものです。
EQ10の再生音には音楽的な働きによる痛みの感覚が、単に精神的なものに留まらず、肉体的な痛みを喚起させるものがあります。
この痛みというものは、たしかに音楽にとって重要なのです。 例えば音楽における作曲家の人生や哀しみ、作曲におけるあまたの苦悩は大きな要素ですし、それらを表現する演奏家たちにも同様の苦しみや痛みがあります。それが明確に表現された時、聴衆は人間的な共感を覚え感動するのです。演奏会やライブで私たちが心動かされるのは、演奏家達が私たちの今、目の前で、自らの肉体を持って表現している為であり、その行為から精神的、肉体的な苦痛を感じる事が出来るからです。しかしながらあまりにこの痛みというものに傾いた場合、表現としてはあざとい物になりがちです。EQ10から再生される痛みの表現は、音の形ではなく、響きで表現されるので、痛みの感覚は一瞬の閃きで終わります。聴き手に残るのはその余韻だけなのです。きつい表現と思われるような音楽でさえも、あと口が良いのです。
これは製作者の技術力と結びついた音楽的センスの成せる技。アナログにおけるレコード再生を行う場合、フォノイコライザーこそ人間的な感情の表出に、深く関わっているのです。今日にあっては、フォノイコライザーは痛みという感覚が、純化された音楽性の中に埋没してしまい、それから再生される音楽は常に物足りない、と私は感じ続けていました。もっと我々の生存本能に訴える音を出して欲しいのです。どんなに高SN比であり、美しい音であっても、音楽的表現における痛みという感覚に触れていない製品から再生される音は音楽絵とも称すべき物に見えてしまいます。フォノイコライザーは近年普及してきたカテゴリですが、今後EQ10のような、聴く人の生存本能に火をつける様な音を持つ製品が表れる可能性はあまり無いと思います。それはBernstrom氏(EQ10の製作者)のように社会的自由があり、かつプロの技術と音楽センスを持つ人がどれだけいるかを考えれば明らかです。EQ10のように、作りたいから作ったという製品が、これ程完成度を充分に具えていると言う事実は、本当に驚くべき事であります。 以上T氏 この項おわり
この痛みというものは、たしかに音楽にとって重要なのです。 例えば音楽における作曲家の人生や哀しみ、作曲におけるあまたの苦悩は大きな要素ですし、それらを表現する演奏家たちにも同様の苦しみや痛みがあります。それが明確に表現された時、聴衆は人間的な共感を覚え感動するのです。演奏会やライブで私たちが心動かされるのは、演奏家達が私たちの今、目の前で、自らの肉体を持って表現している為であり、その行為から精神的、肉体的な苦痛を感じる事が出来るからです。しかしながらあまりにこの痛みというものに傾いた場合、表現としてはあざとい物になりがちです。EQ10から再生される痛みの表現は、音の形ではなく、響きで表現されるので、痛みの感覚は一瞬の閃きで終わります。聴き手に残るのはその余韻だけなのです。きつい表現と思われるような音楽でさえも、あと口が良いのです。