2009年08月17日

アナログオーディオ機材の道具的感覚 1

今回はT氏が普段力説していること、オーディオ機器道具論につてながながと述べる。

だいぶ以前の事になりますが、我社に来店されたお客様のお話を伺っていると、その方のオーディオ機器に対する考え方に、私自身どうしても納得できない事がありました。その方の言い分は、自分はまだTD124を使うレヴェルには達しておらず、もう少し経験を積んでから使ってみたいと思っているということでした。そのお客様が帰られた後、会話全体を思い起こしましたが、思い立ったのは、その方はオーディオ機器を音を出す道具として捉えている、と気づいたのです。この部分が私の心に引っかかっていたがため、話全体としては有意義であったのですが、得心はできませんでした。私は、オーディオ機器類について、道具であるとは一度も考えた事が無く、なぜそのような考え方をするのか理解に苦しむ所がありました。オーディオ機器を道具として扱うという考えは調べてみると、オーディオ関係の雑誌にそれとなく書かれている場合があり、その方もそうした文章を読まれた結果、オーディオ機材を道具として考える様になっていったのではと推測するに到ったのです。このような思想は、私にある衝撃をもたらしました。それは、私にとって、オーディオ機器は、設計・製作者がより良い音楽再生の為に、目的と意思を持って、具現化したものでした。つまり、意志を持った生物機械なのであり、何ら意志を持たない道具としては捉えていなかったのです。こうした信念を私が持つ事となった由来は、ある程度は生理的なものもありますが、もう一つは経験的なものもあります。それはオーディオ機器を単なる道具として捉えると、道具以下以上のものしかオーディオ機器はもたらしてはくれないからです。このようにオーディオ機器達を、設計、製作者の意図を託された機器生命体として捉えずに、ただ己が目的を達成させんが為の道具としか、考えられなくした思想が、どのように生まれ、一般ユーザーに知らず知らずのうちに刷り込まれて行ったのか、それによりユーザーは新旧製品の購入にあたり、目付けを狂わされることとなり、結果的に自らが望まざる製品を買う結果となりがちなのは、これらの思想による所があると推測されます。そこで今回は、オーディオにおける道具的感覚について書いて見たいと思います。
*道具というもの
道具というもののあり方を考えた時、それは人間の歴史そのものであり、人間は道具と言うものを発明し、改良し、文明・文化を発展させたのは衆知のとおりです。それは今回書く事についてもあてはまることで、我が工房で施される技術力の高さは、その裏にある道具自体の開発と改良の賜物でもあります。さらに道具とは、ある目的の為に作られたものであり、例えば我が国の誇りである町工場の技術者達は、特殊な製品を作るために特殊な道具を新しく作り出して工場の能力を上げていきます。つまり道具とは、使用目的により、その姿を常に変化させているのです。道具は、何かを加工調整するためにあるというのが本来の姿です。道具達の中にも、悪い道具と良い道具があり、悪い道具は使用者を傷つけるものであり、良い道具とは反対に使用者を傷つけないものです。いくら性能の良いものでも、使用者を傷つけるのは悪い道具です。その例として、私が木工加工に使用していた鑿は、木材も切れるが人も切れるという代物で、その鑿が紛失した時は、内心ほっとしたものです。その後に使用した鑿は、手作りの品で、その使用感は必要にして充分、切れ過ぎることがなく、私の思うように切れてくれ、興がのると、私が切ろうとしているのでは無く、鑿自体が求めたものを、私が行っているのか、鑿が切ろうとしているのか、判らなくなったことがたびたびあります。
このような経験をそっくりそのまま、オーディオに移し変えてみれば、納得される方もいるはずです。こうして初めて、道具としてのオーディオ機器はその役目を終え、オーナーにっとては、かけがえの無い友であり、愛人であり、時には師匠として存在するのです。それは又、道具としてみた場合でも最上のものであり、同時に生命をもつモノとして、ある地位を獲得したと言えるでしょう。

* なぜオーディオ機材を道具として考える様になったのか?
オーディオ機器を道具として考えた事は一度も無いと言いました。私は家電製品として認識しているのです。家屋の内にあって、レコード、CD再生による音楽を楽しむための家電製品であり、それ以上でも、それ以下のものでもありません。このような私の考え方の根拠は、私が生業としての大工、及びTD124レストアやスピーカーの製作等に、常に目的にあった道具を用いており、道具としての意味を日常的に常に問うているからです。このような私の立場から見れば、オーディオ機器は、完全に家電製品とすべきものです。例えば強力な電動工機材当の操作を誤れば、指の一本や二本はおろか、腕や最悪の場合生命まで持っていかれてしまいます。道具とはそのような危険性を常に帯びているのです。翻ってオーディオはどうでしょう。アンプ製作者がまれに、高圧電流の処理を誤り、生命の危険にさらされる場合もあるでしょうが、コシューマーズ・オーディオ製品を操作して、生命が脅かされる事はまずありません。オーディオは趣味であり、娯楽であり、さらに遊びであります。少し大げさな表現を用いましたが、わたしがオーディオ機器を道具として認識するのを是としないか、お分かりになっていただけたと思います。さてここからが本題です。なぜ家電製品であるべきオーディオ機器が、音出しのための道具として一般ユーザーの意識に入り込んでいったのか?これを歴史的にさかのぼっていくと、その原因は1970年代の我が国のオーディオ事情にぶち当たります。この時代に起こった事、それは、プロフェッショナル仕様機器のホームオーディオ分野への導入です。例えばスピーカーは、JBLのスタジオモーターや、アルテックA7、アンプリファイアーの分野では、アムクロン等のPA系、米・英・欧を問わず、プロフェッショナルユースの製品が、ぞくぞくとホームユースの分野になだれ込んできたのです。このようなプロフェッショナル機器のホームオーディオへの浸透は、我国のホームオーディオ用に、まったく別の思想、オーディオ機材は、音を出すための道具であるという思想を持ち込むに到りました。それまでの我国のオーディオは、割合大型のコンソール型のステレオ仕様の物や、システム・コンポーネントが主であり、立派な家電製品であった訳ですが、それらが消え去る原因となったのが、この流れにあったのです。 もう一つ、忌々しきオーディオ機器のあり方が発生します。『使い捨て』『買い換え』という思想であり、プロ仕様の誤使用以前に我国にあった、家電製品は修理して使うと言う思想は変わってしまいました。それにより、これらのスタジオ・プロ仕様のスピーカーを駆動するために、さまざまなアンプリファイアーが作られ、ほとんど毎日のように新製品が発売され続けました。このようなアンプリファイアーは今日、その姿はほとんど見る事が出来ず、そのようなアンプリファイアーがあったことすらユーザーは忘れ去っております。私はこのように使い捨てられていったアンプリファイアーやスピーカーたちが、哀れで仕方が無いのです。道具として生きてきたが為に、使い捨てられた機器に対して心の中でいつも合掌しています。 つづく



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