2009年08月18日

アナログオーディオ機材の道具的感覚 2

80年代くらいにアナログ・ヴィンテージという分野がオーディオ市場に登場し、60年代以前の魅力溢れるオーディオ製品が再び日の目を見ることになります。我国のオーディオファンの本物に対する渇望と、音楽的な素養の成熟によるところ大でした。ヴェテラン・オーディオ愛好家の方々は70年代の購買スタイルへの反省があり、初心者にとっては本質的な感覚が単なる道具としてのオーディオ機器ではなく、もっと人間の感性に寄り添った製品であると気付き始めたせいでしょう。TD124が今日、一般ユーザーに好評を博しているのも、最高峰の家電製品として認められたせいもあるでしょう。単なるスタジオの音出しのための道具ではなく、生命ある機械として、一生もんの家電製品として、オーナーに使って頂ける製品がTD124の本来の姿と思うのです。
* 道具は人を選ぶ?
道具は人を選ぶという、妖しげな伝説が存在します。オーディオ界でよく聞く伝説です。私の経験から言って、道具が人を選ぶなどという話は聞いた事がありませんし、大工仲間との会話の中での道具についての認識は、使えるか、使えないかだけなのです。しかしながら、確かに道具の中にはその所有者しか使えないかのような代物もあります。例えば私の仲間が使っていたヴィンテージもののノコギリ等はあまりに薄くデリケートで、その人だけが使いこなせるというものでした。しかし、使い勝手にひと苦労するノコギリを選んだのは本人なのです。人が道具を選ぶのです。他にもうひとつ例を上げましょう。あなたがボルトを用いて何か工作していると考えてください。ボルトを差込み、ナットをはめ、スパナで締めようとした時、手元に数種類のスパナがあります。あなたはナットの口径とマッチングするスパナをためらうことなく手にします。あなたがスパナを選んだのであり、スパナが使ってくれと言ったのではありません。道具は人間が選ぶべきもので、道具は使用目的により人間に選ばれてこそ道具なのです。
* オーディオ機器を入れ替え続けるユーザー
道具という言葉の意味を探るとき、本質において道具は行為のための手段であると思います。刃物や工具以外にも、言葉も道具として我々は使っており、それゆえ使い方には常日頃気をつけなければなりません。オーディオ機器も、言葉同様に使い方と扱いにそれなりの注意を要します。しかし、機器にただの道具としての存在しか有さないとなると、ユーザーの心にはある思いが生まれるものです。それは心の渇きです。渇きはやがて焦りとなり、苛立ちに変化してゆきます。行き着くところは、オーディオ機器への不信となり、結果それらの機器をとっかえひっかえ入れ替える行為に耽るようになる。オーディオ機器を道具とみなすために、オーディオ機器の本来持っている人間的な論理性との間に軋轢が生じるゆえに起こるのです。オーディオ機器は人が人の為に作ったものであり、ある程度までは道具として扱えますが、ある次元で内蔵された人間性と出会うとき、それは変化します。それは機械ではあるが、人間性を発現すると言う特性があるがゆえ、道具としての存在価値を超えてしまう。レコード音楽を再生するとき、聴き手は機器に人間性を感じて、深い満足を覚えるのです。オーディオ機器を単なる道具として捉えている人には、このような現象は感じません。だからオーディオ機器を入れ替えても、いつまでも満足は得られずにいるのです。オーディオ機器の絶え間ない交換は、オーディオ業者にこそ大変歓迎されますが、こうした退歩的な市場サイクルが永遠に続くわけはありません。やがてオーディオという物に失望してしまいます。その結果オーディオを辞めてしまうか、CDミニコンポでとり合えず音楽への渇を満たすのです。このようにまたひとり、アナログオーディオ愛好家が去っていきます。オーディオ機器を道具とだけみなして接すると、行き着く所はこのようなものです。アナログ・ヴィンテージの世界に若者の参加が増えているのは頼もしい限りですが、一方で高齢化も急速に進んでおり、前述のような現象が、たびたび起きるとなると、ヴィンテージ機器達は行き場を失ってしまいます。
この項おわり 以上T氏



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