2010年01月07日

オレのガマンもこれまでだ 其の壱

こんにちのビンテージ・オーディオ界の混迷を招いた原因のひとつは、オーディオ評論家たちの文章の記述が上げられる。 彼らの立場としては、特定の製品に対してはっきりと判断を下す事は難しい。 何故なら彼らが評価した製品がユーザー側にどのように使われ、どのような音で鳴っているか判断しようがないからだ。 しかし彼らもプロであり、中にはこいつはゴミだという製品もあるに違いなく、オーディオの相対性によりかかり、後はユーザー任せとは職務怠慢のそしりは免れ得ない。 このように書くと、評論家の立場を理解していないと言われそうですが、私にはそれでも理解できないのです。 彼らが言う、中立公平な立場で正論とする建前は、その中立公平さが一体誰のためのものなのか、わからないからです。 公平、中立が果たしてメーカー側に添ったものなのか、ユーザー側に立ったものなのか、私にはどうもメーカーサイドに寄っているとしか感じられず、彼らの表現法は古代ギリシャの科学者たちが行った実験に通じるものがあります。 すなわち、ある物体を水に沈めて溢れた水を計測し、物体の存在を示すという、あれです。 たしかに物体の姿を示すことは出来るのですが、その物体が何であるかを示してはいません。 大事なのは物体が何で出来ているかなのです。 溢れた水の量ではなく、読者は本質が知りたいのです。 我国の評論家の記述はしばしばこの溢れた水と同様、イメージ優先のきらいが少なくありません。 それを可能にしたのは我国独特の言語体系である日本語の力が大きく、仮にこれが英語で書かれていればもっと白黒つけたものになっていたはずです。 日本語は世界最強の言語で、その文中にあらゆる国の言語が入り込んでも破綻をきたすことなく、表現の精妙さと形容の豊かさは無類であり、この言語をもってすればある特定のイメージを想定させるよう読者を導くことは容易です。 日本語によるイメージ付け、これに最も影響を受けやすいのは高等教育を受けたインテリの方々ということになります。 このカテゴリーにいる人たちは、先生の言う事は正しく、言われた事は必ず覚えなければいけないと教えこまれ、かつ実践してきています。 インテリと呼ばれる人たちほどイメージ付けに弱いのです。 幸か不幸か一流のオーディオ誌の読者ほど、このインテリ率が高くちょっと難しい言葉を使われるとコロリと参ってしまうのです。 もし仮にこのような問題をオーディオ評論家に問うたら何と答えるかを推測すると、「日本のオーディオ文化を守り、育成するために必要だから・・・。」とでも答えられるのでしょうか。 正しいとは思いますが、ちょっと待って下さい。P1010091
これが今日の現実です。 
悪貨は良貨を駆逐すると言います。 場合によっては、良貨が悪貨を退ける事もあるのです。 それを可能にするには良貨が悪貨の追従を許さないほど良質なものにする必要があります。 オーディオ機器の評論においては、ダメな物はダメとはっきりメーカー側に言うべきなのです。 それによりメーカー側も考えるでしょうし、結果的にはオーディオ界の為にもなるはずです。 オーディオを文化として成り立たせるには、ここのところを明確にして欲しいのです。 もう、いいかげんに。 以上T氏



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