2010年07月16日

現代スピーカーについて-1

以下T氏

最近、友人に今のスピーカーの音ってどう思う?と尋ねられました。 一体どうしたことかと聞くと「実は知り合いに、今度新しくオーディオシステムを購入したので聴きに来ないか?」と誘われ聴きに行ったのですが、その音をずーっと聴き続けていたら、めまいと吐き気が襲ってきて急いで逃げてきた」とのことでした。 友人はマニアではなくただの音楽好きの素人です。 この経験を一言でいえば、高速回転のメリーゴーランドに乗って眼を回されているようだと言うのです。 現代のスピーカーは、ズブの素人にめまいや吐き気を引き起こすまでに悪化してしまったのか。 徐々に健康面に悪影響を受けていることに気がついていない事も考えられます。

前に出る音、引っ込む音
かつてはスピーカーを評する時、音像が前へ出るタイプか、後ろに引っ込むタイプ等と盛んに論標されたことがありました。 前へ出るタイプはジャズ向きで、後ろに引っ込むタイプはクラッシック向き等というあれです。 それはあくまで常識内のことで現代型小型スピーカーに見られる後方に音像が定位しがちなものとは異なり、常識的な意味でのバランスの差異に過ぎませんでした。 前へ出るスピーカーといえば、1970年代のJBLの4320が最も強力で、今日でも凌ぐものはないと思われます。 何しろ当時でさえ『エキセントリック』と呼ばれていたのですから。 再生音はロックでも発揮され、ドラムスのスネアの音で横ッ面を張られ、エレキベースで背中をどつかれ、エレキギターの切り裂くような音で脳天をかち割られ、床に引き倒されたのち、ボーカルに踏みつけられるという、凶悪でクレイジーなロックの魅力を余すところなく聴く人に与えてくれたものです。 それでいて一種エレガントさを持っており、再生音に音楽性を粗雑にすることを免れていました。 4320の音から見れば現代のスピーカー達は、溶けかかったアイスクリームみたいに妙に生ぬるく、再生音は自らの作りだす仮想空間帯域に逃げ込んでしまい、リスナーに対して何も与えてはくれません。 仮想空間帯への音の逃げ込みが及ぼす健康被害はかなり厄介で、リスナーはこれにより音を追いかけなければならなくなり、しかもその仮想音場が絶え間なく変化しようものなら軽い乗り物酔いが発生することになります。 しかしこうした感覚的ダメージが起こるリスナーはむしろ正常であり、めまいと吐き気をもよおした私の友人は健康であるとも言えます。 問題はむしろこれを不自然と思わず、平然と聴き続けられるリスナーにあるのです。 平気であるということは、感じないということであり、すでに内耳内の三半器管がやられているということを示しており、オーディ再生において真っ直ぐ立っておらず、常に傾いていることになります。 真っ直ぐな音、つまり正常な音を正常に受け止められず、良くないと認識してしまい、傾いた音にしか音楽を感じられなくなってしまっているのです。 現代スピーカーでは、リスナーが音を追いかけなければならない行為は音楽のコンタクトのあり方を変えてしまいます。 音楽は、通常はプレイヤーから聴衆に向かってメッセージとして届けられ、音はプレイヤーから聴衆に向かってきます。 リスナーはこちらに向かってくる音とまず出会い、縁を結ぶことにより音楽を認識するのです。 対して音楽自体がリスナーに向かってこず後方に逃げるということになると、どうして音楽と縁を結ぶことが出来るでしょうか? この様に後ろに逃げる特性を有する現代型のスピーカーの再生音は4320と同時代の英国のスピーカーと一聴して似た所があると思われがちですが、実際はそうではありません。 当時の英国スピーカーの多くは音像自体がやや後方にピントを合わせたような鳴り方はしましたが、あくまで全体の響きの中で音楽的な意味を含んだものとして展開されていて、現代型スピーカーのようにステレオ効果を狙いすぎた結果、前方の音より後方の音声展開が仮想化することは無かったのです。 オーケストラの再生において、後方に見かけ上の定位を常におき前方の音と後方の音のパースペクティブな音が出現した時その位置まで後退し、それにより音場のスケールの幅を稼いでいると考えられます。 現代のスピーカー群の多くは、クラシック音楽の再生では、往年の英国スピーカーと相似であると思われていますが、実際は全く逆であり、前方に放出される音はある程度の所で停止するか、又は落ちてしまっています。 後方への音の廻り込みや音場の展開は、英国製のスピーカーのようにある定位置のポイントが確固たるものではなく、極めて曖昧、変幻自在で音場深度自体に限界点が無いかの如く後退していくことになり、これが聴く人にある種のファンタジックな感覚を生じさせるのです。 それをステレオ効果の最良のものとすることに、私は承服しかねます。 現代スピーカー自体、前方に音を展開する力が充分ではないからです。このスピーカーの前と後ろの音像定位の出入りにおいて、例えば後方に明瞭かつ的確な音場合成を可能とするには、何よりスピーカーの前方、リスナー側にあらかじめ音というものをはっきりと認識させておかねば効果が上がらないのです。 これは人間の生理的な時間軸の認識作用を利用したトリックと言えます。 伝統的に英国のスピーカーはこれが上手く、それを可能とするために中高域に時々ある種の癖や、特有の音色と強めの切れ込みを持たせていることがあります。 しかし、その傾向はCDの登場と共に変質して、音楽のリニア化が図られました。 その結果、かつての英国の音など望みようもなく違う世界のものとなりました。 特性こそは素晴らしいものですが、肝心の音楽は遥か山の彼方にあると言わざるを得ず、この原因は、コンピューター解析によるスピーカーの動作シュミレーションが発達した為で、私自身コンピューターシュミレーションは全く信用できず、この様な多種多様な音楽すべてを、完全にシュミレーション出来るとは到底思いません。 音楽は、いつも新しく生まれ変わるものであり、流れるものです。 この刻々と変化する音楽にある現象をどうシュミレーションするというのでしょうか? この問題を本当に解決しようとすれば、かつてのスーパーコンピューター、ディープブルー位のものを使わなければ無理だと思います。 例えディープブルーをもってしても、音楽と人間の心の中にある闇の部分を、シュミレーションするのは不可能だと思います。 何故なら、その闇は人間の原始太古へ続く道であり、私達の遺伝子に反応する、宇宙そのものでもあるからです。 つづく
以上T氏

今朝散歩で、青い空に真っ白な入道雲がもくもくと湧くのを見た。


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