2010年10月24日

オレのガマンもこれまでだ 第二章その伍

良い音・よき音
我国のオーディオマニアは今日に至るまで常に良い音を求め続けてきました。 良い音に対して明確な答えがなく、いたずらに相対論に帰しています。 オーディオ評論家やオーディオに造詣の深い方、この道何十年を誇るオーディオ店主等の言葉と音を聴いて、良い音というものの概念を育んできたのです。 彼らが提示してきた良い音とは現象の説明に過ぎず、良い音の本質は何も語っていません。 しかし良い音の目安がないとオーディオ業界としては製品が売りにくく、一般オーディオ愛好家も自分が使っているオーディオ機器が本当に良いものであるか確信が持てない。 そこで業界サイドは音の良さの基準を製品の物理特性で示そうとアクションを起こしました。 この動きは1970年前半に始まり、当時のオーディオ製品、特にアンプリファイアー特性で歪み率何%、出力何ワット等と高らかに表示されていくのです。 歪み率は低く、出力は高くが最大の目標で、これが我国の伝統となり、アンプリファイアーのハイパー化こそ良い音に導くという誤った思想を生んでしまったのです。 業界サイドの試みはある程度成功を収めたものの、物理特性の優秀さにつられ、これらの機器を購入したものの結果は思わしくなく、物理特性の優秀さは、音楽を音楽として再生しようとした場合、まったく役に立たないことを心あるオーディオファンは身を持って知ります。 彼らは金銭的、精神的にもショックを受けるのですが、当時のオーディオファンはまだまだ若く立ち直りも早く再度チャレンジするも、ことごとくハズレクジ、最終的にオーディオそのものに失望して、離れていくことになります。 業界サイドは再び策としてリニアHi-Fiのコンポーネントを世に出して処方箋とし、有態に言えば洗脳が始まります。 自ら望む音は自らが作り出す、そのためにリニアHi-Fiオーディオ機器は必要なアイテムであり、パーツであると。 優秀なパーツを揃える事により、憧れのマイサウンドを成し遂げようと、懲りないオーディオマニアはまたまた「そうなのか」と頷いてしまうです。 一時しのぎの思想のおかげで、結果多くの混迷がもたらされます。 世の中すべてがオーディオマニアばかりではなく、レコードを買い求める大多数のユーザーは、レコードで音楽を楽しみたいから装置を買うのであって、オーディオ装置のために買う機械マニアばかりではないのです。 この動きは、レコード音楽愛好家を機械マニアに仕立て上げることにもなりました。 ハイフィデリティ時代や、その後のステレオHi-Fi時代の英国では、この様な動きはほとんどなく、オーディオ機器はレコードを聴くために存在し、それ相応の機器を用いて接続すれば、それなりの音で充分音楽を楽しめ、しかも音質は上質なものでした。 機械マニアは英国にももちろん大勢おりましたが、それは何より良質な音楽を得るためで、我国のように自己中心的なアマチュアではなく、プロに転向できるぐらいのセミプロ的な知識と技術を持ち合わせていましたし、それをサポートするエキスパートがしかるべくコンサルティングをして、彼らをサポートすると言う、一種の良質なコミュニティが存在していましたのが、我が国と決定的に違うところです。 こうしたコミュニティは、オーディオに限らず、他の趣味にあっても同じように当たり前に存在していました。 そのあたりが英国の趣味の世界の伝統であり深さなのでしょう。 ユーザーが努力しないと良質な音楽が楽しめないとか、大仰で複雑な装置を使わなければ良い音が得られないと思っている方がたくさん居られます。 これは間違っています。 少なくともハイフィデリティ時代のオーディオ製品は決してそのようなものではありません。 何より品質と反応力が抜群で、音楽も上質なものとして鳴ってくれます。 たとえば英国ハイフィデリティ時代の機械マニアの方々は、電気に関する知識はもちろんのこと、それ以上に音楽の本質についての造詣が深かったためセミプロとして存在し、その後プロにも転身出来るほどの能力の持ち主が多く居りました。 どうりでマニアックな製品が英国で多いのもわかる気がします。 対して当時の我国オーディオ界はといえば、技術者たちは音楽を理解する時間もなくリニアHi-Fi仕様のアンプやスピーカー、プレイヤー等を次々に製品化しなければならず、音楽的な教養は二の次だったのは惜しいことです。
それぞれ個人により異なる良い音とは、制作者側が良質な再生音を得るための機器製造とユーザー側へのプレゼンスを放棄したため、良い音を得るためには何をやっても良く、ユーザー側はせっせと果てしない欲望を満たそうとするために、たとえ歪みだらけの音であっても正当化されたのです。 様々な大がかりなオーディオシステムが出現することにより、オーナー自身の欲望によって拡張された利己主義、自己中心性が大音量をあげてリスニングルームに放出されます。 のちのち、自らの欲望のままに狂った音を聴いていると、自らの音に酔い、世間一般的には相当酷い音でも良い音と思いこんでいくのです。 自己愛は自然なことで責められるものではありませんが、行きすぎるとナルシズムになり、他人の意見などに耳を貸さず、友人や家族等からも愛想をつかされます。 音の良さとは、あくまで良質な音楽再生が行われた結果として生まれるものであるのに、結果のみを捉え具現化しようとし、行きつく先が自らの欲望に喰われてしまっては、何のためのオーディオでしょうか? たとえばウエスタンやアルテック、JBL等PAシステムを使用されている場合、こうした欲望は顕著に表れることが多いのもうなずけます。 これらの機器が本当の能力をフルに稼働させたなら、オーナー自身の音の良さへの欲望は振りきれ、個人のためだけではないみんなのものという公共性に転化され、本来こうしたPA機器のあるべき姿に戻るのです。 しかし、問題は機器そのものよりオーナー自身の心の中にあり、気づくまで待たなければなりません。 永遠に気づかないかもしれませんが。 良い音が完全に自分だけの音を目指し、利己主義に陥りやすいのに比べ、よき音とは、誰にでも受け入れられる攻撃性を持たない受容性を持った音です。 これこそが本来オーディオの在り方で、コンシューマーユースとして作られたオーディオ機器の目指したものであったはずです。 俺のほうがいい音だ、と自負したくなればなるほど、行きつく先は孤独です。 よき音に身を任せていれば、自然に友人、妻子とも話が弾みますし、音の良さにおいては、しばしば論議のもととなったオーディオについて、音楽についてのさまざまな事柄も、ここでは問題にならず、有意義な会話が行われるからです。 一度、良い音・よき音の相違とその意味するところを考えてみてはいかがでしょうか。 つづく
以上 T氏



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