2011年01月06日
オーディオ統一理論 9
レコードプレイヤーの反応力 下
さてここで今日のアナログレコードプレイヤーを取り巻く環境についても書いておかねばなりません。 これら現行品を使用している方は、それなりの満足はされておりますが、その昔の意味するところを全く知らされていないからです。 まず状況としては、現在はCDが音楽再生の主流(そろそろヤバイ)であり、アナログプレイヤーはいわばCD再生を基準にして、アナログレコード再生を考えていると言って間違いない所なのです。 しかし音源は古いままでありそれをCD並みに再生しようとすれば、それなりの仕掛けがいります。 その為行ったのがカートリッジの新たな開発です。 そしてアームも又作られることになり、MCトランスも又しかりです。 しかし強圧縮されたヴィンテージレコードを再生するにあたり、現行品プレイヤーは何としても可変力と反応力を異なる形にする必要があります。 そこでこれらのプレイヤーは音楽的表現力や表出力になるべく関わらずに、平均的に再生しようとしたのです。 つまりレコードプレイヤー全体の再生、再現力を押さえこんでしまったのです。 それゆえ、音楽の深みには決して踏み込まない、レコード盤の上面をなでる様な音を標準とみなし、それを現代ハイファイと名付けました。 しかし音の本質を示す音楽的なものに踏み込まず、まして触りもしないとすれば、それはおさわりOKのキャバクラで、女性にタッチしないと同じで、何が面白いのか私には理解できません。 それがために言い訳対応策として、自社のレコードプレイヤーに合うレコードを制作し始めました。 これはレコードと言うものの存在意識を否定するものであると考えます。 およそレコードとは世界中の音楽ファンに音楽を楽しんでもらう為に作られたものであります。 それゆえ各国、各社が自らが信じる所によってレコードを制作していました。 だからレコードプレイヤーは多種多様なレコードをかけることが出来、レコード再生をリスナーにプレゼントする為に生れました。

従って何かしらのきちんとした規格にのっとったものであれば、かけることが出来るのです。 つまりレコードプレイヤーとはレコードの為に在るのです。 決してレコードがプレイヤーの為にあるわけではないのです。 自社のプレイヤーに合うレコードと言うこと自体ナンセンスです。 見方を代えれば、これは現代レコードプレイヤーの致命的な欠陥を示す証しでもあります。 そうでもしないとレコード再生における圧縮された力をいかんとも出来ないからで、自社レコードとはこの圧縮自体を変化させることによって、聴感上の効果を上げようと計ったものであるからです。 レコードプレイヤーが可変力を持たなければ最終的にはこうなってしまうのです。 お気づきであろうかと思われますが、最近矢継ぎ早に新型カートリッジが発売され始めたことに、過去を振り返ってもこのようなことはあまり見られません。 かつての製品はもっとロングライフであったのです。 レコード全盛期時においてさえです。 そしてこの現象も又、可変力の喪失によるのです。 レコードプレイヤー自体が可変力を失えば、何かしらのもので補わねばなりません。 今日新しいカートリッジやアーム、トランス、フォノイコライザーもそうですが、これほど数が市場に存在するのは、レコードプレイヤーが本来の役割を果たすことが出来ないための、いわば補助力が必要だからです。 この項おわり
以上T氏
さてここで今日のアナログレコードプレイヤーを取り巻く環境についても書いておかねばなりません。 これら現行品を使用している方は、それなりの満足はされておりますが、その昔の意味するところを全く知らされていないからです。 まず状況としては、現在はCDが音楽再生の主流(そろそろヤバイ)であり、アナログプレイヤーはいわばCD再生を基準にして、アナログレコード再生を考えていると言って間違いない所なのです。 しかし音源は古いままでありそれをCD並みに再生しようとすれば、それなりの仕掛けがいります。 その為行ったのがカートリッジの新たな開発です。 そしてアームも又作られることになり、MCトランスも又しかりです。 しかし強圧縮されたヴィンテージレコードを再生するにあたり、現行品プレイヤーは何としても可変力と反応力を異なる形にする必要があります。 そこでこれらのプレイヤーは音楽的表現力や表出力になるべく関わらずに、平均的に再生しようとしたのです。 つまりレコードプレイヤー全体の再生、再現力を押さえこんでしまったのです。 それゆえ、音楽の深みには決して踏み込まない、レコード盤の上面をなでる様な音を標準とみなし、それを現代ハイファイと名付けました。 しかし音の本質を示す音楽的なものに踏み込まず、まして触りもしないとすれば、それはおさわりOKのキャバクラで、女性にタッチしないと同じで、何が面白いのか私には理解できません。 それがために言い訳対応策として、自社のレコードプレイヤーに合うレコードを制作し始めました。 これはレコードと言うものの存在意識を否定するものであると考えます。 およそレコードとは世界中の音楽ファンに音楽を楽しんでもらう為に作られたものであります。 それゆえ各国、各社が自らが信じる所によってレコードを制作していました。 だからレコードプレイヤーは多種多様なレコードをかけることが出来、レコード再生をリスナーにプレゼントする為に生れました。

従って何かしらのきちんとした規格にのっとったものであれば、かけることが出来るのです。 つまりレコードプレイヤーとはレコードの為に在るのです。 決してレコードがプレイヤーの為にあるわけではないのです。 自社のプレイヤーに合うレコードと言うこと自体ナンセンスです。 見方を代えれば、これは現代レコードプレイヤーの致命的な欠陥を示す証しでもあります。 そうでもしないとレコード再生における圧縮された力をいかんとも出来ないからで、自社レコードとはこの圧縮自体を変化させることによって、聴感上の効果を上げようと計ったものであるからです。 レコードプレイヤーが可変力を持たなければ最終的にはこうなってしまうのです。 お気づきであろうかと思われますが、最近矢継ぎ早に新型カートリッジが発売され始めたことに、過去を振り返ってもこのようなことはあまり見られません。 かつての製品はもっとロングライフであったのです。 レコード全盛期時においてさえです。 そしてこの現象も又、可変力の喪失によるのです。 レコードプレイヤー自体が可変力を失えば、何かしらのもので補わねばなりません。 今日新しいカートリッジやアーム、トランス、フォノイコライザーもそうですが、これほど数が市場に存在するのは、レコードプレイヤーが本来の役割を果たすことが出来ないための、いわば補助力が必要だからです。 この項おわり
以上T氏