2015年06月26日

テレヴィジョンとステレオ再生と 最終回

我国のステレオ黎明期はどうだったのでしょう。 60年代初めの主流はアンサンブル型三点セットの時代でしたから、右からパーカッションが聴こえた、中央からヴォーカルが出てきたといって喜んでいたくらいでした。  後半になって組み合わせステレオ装置が出てきたころは、マニアの聴き方は低音が出るか出ないかという水準でしたように覚えています。 今でもその傾向を引きずっている方も大勢います。 モニタスピーカがもてはやされるようになって定位や位相に注意が払われるようになります。 自然な響きと言う観点から考えれば、レコードに刻まれている定位や位相と言うものは、あくまでも録音エンジニアとカッティングエンジニアが好き勝手にアレンジしたものであり、それを忠実に再生したからと言って自然な響きに近づくというわけではないように思います。 それを、多くのマニアが誤解して、ベースが左の奥に定位していると腕組目をつむってつぶやく時代がやってきます。 実際の録音現場でははるか右隅に隔離されているかもしれないのに。 ジャズ喫茶の音をそのままマネしようとするマニアも現れたりもします。 そういう陳腐な時代がずっとこれまで続いているのが、可笑しい。  

たしかにオーディオには定位と位相は重要かもしれませんが、レーザで位置決めしても何の意味もありません。 一度ユニットから音が出てしまえば、位相なんてどうせごちゃごちゃになってしまうものです。 実際の宴会だってそうではありませんか。 ですからレーザに頼る人よりも信じられる自分の耳を持てるようにした方が良いのです。 
すべての音が聴こえるようにしても、作曲家はよろこびません。 すべての音がすべて聴こえてはまずいと考える作曲家もたくさんいるからです。 たとえば下の写真をごらんください。

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すべての葉が見えれば、お庭の情趣が一層映えるとお思いになりますか? それよりも葉ずれの音、かおり、湿り気、静けさ、なにかの気配、風のまわり、変わっていく時間、そしてご自分の存在など、見えないものを感じた方が私は好きです。 葉の毛細管や葉緑素などは見たくもありません。 あくまですべての音を見ようとする聴き方となると、まず響きを消してしまわねば見えにくい。 さらにもっと見ようとするならば、音そのものの出るところに近づかなければならない。 カビりなく音源に近づく方が、よりよい音、リアルな音が得られると信じる。 こうした聴き方はニアフィールドを想起させますが、正気の沙汰とは思えません。 スピーカが二台両耳と等距離を保って聴くなんて、目を開けるとスピーカが二台目の前にあるなんて。 
ステレオ再生にしてもモノーラル再生と同様に、自由に肩の力を抜いてリラックスして響きを味わい楽しむものであったはずです。 もともとどちらもレコード再生には変わりないのですから。 テレヴィジョンが白黒からカラーに変わったからと言って、人々は緊張して見るようになったでしょうか。

最後に繰り返しになりますが、ステレオ再生というのは定位や位相を聴き手がチェックするためにあるのではなく、響きを音楽を楽しむためのものです。 チェックやそれまがいの行為はレコード製作者側がやればいいことであり、そのためにユーザはレコードやオーディオメーカに対価を払っているのですから。 ユーザが製作者側まがいの作業をすること、それ自体が我が国のオーディオというものがひどくいびつなものであることを示しています。 この理(ことわり)を明確に知り得れば、巷に溢れるモニタと銘打ったスピーカ群が、音をヴィジュアル化してしまう性分を利用した確信犯的商品であることが見えてきます。 真のステレオ再生を果たそうとするなら、もっと音を空間に拡げることを実行しなければなりません。 8畳間ほどのスペースがあれば小さなスピーカで十分すぎるほど可能です。 2つのチャンネル、2台のスピーカを使っているのです、そのためのステレオではありませんか。  この項おわり
以上T氏

 




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