2016年02月18日

不要の用

たしかにオーディオ再生装置のほとんどは電車の中や自宅の寝台のなか、自動車、PCの前で、そして映画の音響で使用されている。 その電気臭い音(ほとんどの人は気が付かない)の中で生活している。 ドアホンのピンポーンに最初は驚くが、今ではそれがふつう。 駅のホームもけたたましいベルの金属音ではなく、耳触りの良い電子音になっている。 そちらのほうが心地よいし、環境にもやさしい。 と思われている。
これまでいろいろと書いてきた何十年も前のオーディオ再生機、ほとんどの人が物好きのガラクタと思っている。 おそらく国民のほんの一握りに満たない人が興味をもっているに過ぎない。 家庭になくてもなんの不満も持たないし、多くのひとはその存在すら知らない。 

僕の町に住んでいる人の中で、ヴィンテージのオーディオやレコードを購入していただけるお客様はただひとり。 人口6万人に1人だから、この国1億ちょっとだとして2,000人ほどということになる。 最近のアナログ盤ブームで興味を持ち始めた予備軍も考慮すると、趣味の世界を構成する人数としては丁度居心地が良い加減だ。 
何でもかんでもハイ・フィデリティで再生する、なんでもかでも目一杯の音でないと、というのは終わりにしようと思っている。 こういう考えでいるから、いつまでたっても、家族からオーディオは無視されるか排斥されてしまう。 

ハイフィデリティを目指すと、五月蠅くなる確率は上がる。 下手な組み合わせをすると(装置同志の組み合わせだけでなく、レコードも含めて)、家族はもう同じ部屋にはいない。 誰もいなくなった部屋で好き放題思い込みの世界に浸るのも大いに結構。 でも、本当にいいのか? と気づく人がこのごろ増えたように感じる。 独りよがりの音を我慢して、高額の機器を前にして『いい音だ、良い音だ』 と自分に言い聞かせ続けるのに疲れた人たち。 

小さいころ、箪笥の上にラヂオが置かれていた。 テレヴィジョンが茶の間に来るまでは、これが再生装置の主役だった。 相撲やニュース、ドラマ、朗読、歌謡曲、クラシック音楽が流れ、家族やお客さんはそれぞれに好きなことをしていた。 今となっては音質のことは憶えていないけれど、本を読みながら、みかんを食べながら、親戚のおじさんの話を聞いている間も、ラヂオの音は流れていたくらいだから、五月蠅くはなかったはずだ。 音質なんて考えたこともなく、ただ話の内容や音楽の楽しみが聴く人それぞれの想像を膨らませていた。 耳から栄養が入ってくる感じ。 目立たないけれど、ところどころ印象に残る。 もともと画像と視覚がきっちりと知覚されるのと違って、音源と聴覚はもっともっといい加減なもので、『いい音でしょう?』と言われれば『いい音かもしれない』と思い込む優柔不断な感覚だ。 「耳は寛容な器官だが、視覚は非寛容である」 と今朝の新聞広告の見出しにあった。 天文学的価格のアンプはタケノコのように出現するが、そうした価格のテレヴィジョンにはお目にかかったことがない。

Pye Mozart寛容な器官である耳は、ラヂオや電蓄、はたまたカーラヂオが奏でる再生音にも反応する。 僕自身そこから出た音楽をいまでも覚えていることが多いような気がしている。 音楽を家族みんなで聴いたことが無い世代の人たち、機会があったら古いラヂオや電蓄の音も聞いてみてほしい。  つづく



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