2016年02月19日

不要の用 2

例えば、ターンテーブルは轆轤、レコードは陶土、トーンアームは職人の腕、カンチレバーは手首で針先が指先だとしよう。 
78回転や古いLPは、珪砂を多く含んだ土のように粗い肌をしている。 ターンテーブルに乗せて、回転させて腕と指先で音を成形していく。 たとえば下の写真のような手で。

Acos Black shadow
Acos Black Shadow Pick up
撮影齊藤圭吾氏 画像をクリックすると拡大します

音はこうした自由で気楽な手で盛り上げ形作られていく。 ギリシアの壺ほどの滑らかな曲線ではなく、ウィーンのそれのように完全な中心を持つ壺にはならない。 この写真にあるような針先は、わざと中心を外そうとしているのではなく、単にそれ自体のための機械的正確さに執着していないだけだ。 均整のとれた左右対称の壺は確かにうつくしい。 でも、こと音に関して言えば、シンメトリという言葉は緊張を聴き手に強いる。 音場にしても、左右のバランスを気にしている限り、音楽は遠ざかってしまう。 部屋よりも装置の方が重要な方にはそれでも良いだろうが、音が右寄りになったからと言ってそれを部屋のせいにしては、部屋がかわいそうだ。 右寄りを自然に受け入れることで音楽は近づいてくるのではないか。 そういう風にして聴いているうち、音色や音の伸びは感じられるようになる。 先端に赤いルビーが嵌められた麗しい針先、芯のしっかりした音を取り出して、音の核を露わにする。 斧を思わせるカンチレバー、不器用に音溝をぶつかりながらヨッコラサッとなぞっていくからこそ音に芯が具わる。 コンプライアンスの高い、たださすっていくだけのカンチレバーでは歪みはないかわりに音に芯がなく、奥行きも影も生まれ出ない。 すべての音が鮮明になったところで、肝心の音楽を生む音の芯と深みがでなければ、なんのためのアナログ再生といえるだろう。 最近の夜の女王がズルをして楽々と高音を出しても、コロラトゥーラにしか出せない情が欠落しているのに通じるところがある。 

これまで機械から引き出されてきた期待と、正確と精密さでレコード再生の方法と評価は打ち立てられてきたけれど、音楽を使うことと楽しむことという両面への期待は、レコードと再生機器にかける手仕事と本来ある非規則性の活力で活き活きするような予感がしている。 

古いレコード針をつぶさに見る。
見られることを意識しないもの。 
語らない美。


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