2016年11月01日
英 iFi社 retro50 番外編 ナチュラルディストーション 3
ナチュラル・ディストーション 3
ナチュラル・ディストーションが持つ力を具現化した例としてベートーヴェン 交響曲6番「田園」 を聴いてみましょう。 第3楽章の終わりからは、暗雲、雷雨、そして訪れる平和な田園風景がベートーヴェンの純音楽的手法により見事に繰り広げられていきます。 ストーリーは恐怖、畏怖、安堵、畏敬として示され、最後に美しい自然を与えてくれた神への感謝と祈りとして昇華されていく、感動のうちに音楽は幕を閉じます。 見方を変えてみるとここでの祈りは雷雨が呼び起こしたとも考えられます。 雷雨はまんまナチュラル・ディストーションであり、祈りはベートーヴェン自身にある心情告白というか、こころが生み出したディストーション。 異種のディストーションの対比がこの曲が持つフィナーレの美しさを一層際立たせているのも事実でしょう。
確かにベートーヴェンの6番は名曲です。 私自身はといえばこの曲は数回しか聴いていません。 ここに示されているベートーヴェン描くところの自然や神への心情にどうしても共感し得ないからです。 多くの日本人は、おおよそこのようには自然を感じてはいません。 自然は人間の感情とは無関係に動くもの、と思っています。 このところ起きている大きな自然災害は、ある日、突然自然が牙をむいて襲い掛かってきます。 これは冷徹な事実そのものであって、災害にあったのはたまたまそこに居たというだけです。 ベートーヴェンの時代の人々のように、災害は神の試練、教示などとは考えもしません。 キリスト教のGodと私たちが普段意識する神さまは違うからでしょう。 キリスト教が主な宗教である西欧の人々はGod こそ唯一無二の神であるのに対して、我が国の神は火の神山の神台所の神金の神ついでに目の神それに仏様も、皆が拝めばなんでも拝んでしまいます。 このごろの西欧では宗教離れはずいぶんと進んでいて、どんな神も信じないと言い張る西欧人は思いのほか多いのです。 しかし、神を信じないと言い張るからには神の呪縛から抜け出せないことの裏返しでもあるのです。 我が国のように神社があればお参りし、お寺があればとりあえず拝むという、軽くいなすことは彼らにとってははあり得ないのを私はずいぶんと見ています。 宗教がらみのことがらは西欧人が生み出したクラシック音楽だけではなく、現代人である彼らの身体のうちにも流れているに決まっています。 日本語でいえば、「しみついている」といったほうがよいかもしれません。 朝比奈隆という音楽家がオーストリアの教会でブルックナーの7番を指揮した際、楽屋を訪れた紳士が「キリスト教徒でもないあなたに、ブルックナーを演奏できるのですか!」 と言ったのは良く知られたおはなしです。 私はちょっと「えっ??」と思いました。 この曲に対して、少しは霊的というか神的なものを感じるけれど、キリスト教のGodのことは感じたことも考えたこともなかったからでした。 この国でブルックナーから強くキリスト教を意識して聞いている方は少ないのではないでしょうか。 私たちのほとんどは西洋音楽からGodを抜いて楽しんでいるはず。 音楽に宗教を持ち込むのはイヤ、と思う方も多いでしょう。 こうした感覚の差異を意識するのも、今となっては無意味なことかもしれません。 でも、私にはこう聞こえているけれど、西欧人はまた違う感覚で聴いている、という当たり前のことをすこし頭にいれておけば、ナチュラル・ディストーションの聴き方も変わってくると思いました。 つづく
以上T氏
ナチュラル・ディストーションが持つ力を具現化した例としてベートーヴェン 交響曲6番「田園」 を聴いてみましょう。 第3楽章の終わりからは、暗雲、雷雨、そして訪れる平和な田園風景がベートーヴェンの純音楽的手法により見事に繰り広げられていきます。 ストーリーは恐怖、畏怖、安堵、畏敬として示され、最後に美しい自然を与えてくれた神への感謝と祈りとして昇華されていく、感動のうちに音楽は幕を閉じます。 見方を変えてみるとここでの祈りは雷雨が呼び起こしたとも考えられます。 雷雨はまんまナチュラル・ディストーションであり、祈りはベートーヴェン自身にある心情告白というか、こころが生み出したディストーション。 異種のディストーションの対比がこの曲が持つフィナーレの美しさを一層際立たせているのも事実でしょう。
確かにベートーヴェンの6番は名曲です。 私自身はといえばこの曲は数回しか聴いていません。 ここに示されているベートーヴェン描くところの自然や神への心情にどうしても共感し得ないからです。 多くの日本人は、おおよそこのようには自然を感じてはいません。 自然は人間の感情とは無関係に動くもの、と思っています。 このところ起きている大きな自然災害は、ある日、突然自然が牙をむいて襲い掛かってきます。 これは冷徹な事実そのものであって、災害にあったのはたまたまそこに居たというだけです。 ベートーヴェンの時代の人々のように、災害は神の試練、教示などとは考えもしません。 キリスト教のGodと私たちが普段意識する神さまは違うからでしょう。 キリスト教が主な宗教である西欧の人々はGod こそ唯一無二の神であるのに対して、我が国の神は火の神山の神台所の神金の神ついでに目の神それに仏様も、皆が拝めばなんでも拝んでしまいます。 このごろの西欧では宗教離れはずいぶんと進んでいて、どんな神も信じないと言い張る西欧人は思いのほか多いのです。 しかし、神を信じないと言い張るからには神の呪縛から抜け出せないことの裏返しでもあるのです。 我が国のように神社があればお参りし、お寺があればとりあえず拝むという、軽くいなすことは彼らにとってははあり得ないのを私はずいぶんと見ています。 宗教がらみのことがらは西欧人が生み出したクラシック音楽だけではなく、現代人である彼らの身体のうちにも流れているに決まっています。 日本語でいえば、「しみついている」といったほうがよいかもしれません。 朝比奈隆という音楽家がオーストリアの教会でブルックナーの7番を指揮した際、楽屋を訪れた紳士が「キリスト教徒でもないあなたに、ブルックナーを演奏できるのですか!」 と言ったのは良く知られたおはなしです。 私はちょっと「えっ??」と思いました。 この曲に対して、少しは霊的というか神的なものを感じるけれど、キリスト教のGodのことは感じたことも考えたこともなかったからでした。 この国でブルックナーから強くキリスト教を意識して聞いている方は少ないのではないでしょうか。 私たちのほとんどは西洋音楽からGodを抜いて楽しんでいるはず。 音楽に宗教を持ち込むのはイヤ、と思う方も多いでしょう。 こうした感覚の差異を意識するのも、今となっては無意味なことかもしれません。 でも、私にはこう聞こえているけれど、西欧人はまた違う感覚で聴いている、という当たり前のことをすこし頭にいれておけば、ナチュラル・ディストーションの聴き方も変わってくると思いました。 つづく
以上T氏