2017年01月22日

英 iFi社 retro50 番外編 エレクトリック・ディストーション 17

リヒャルト・シュトラウスとディストーション

リヒャルト・シュトラウスが描いた音楽の在り方は3つのディストーションについて実に多くを語ってくれます。 彼は今日の私たちと同様に電気の時代の人だったからです。 もうトーキー映画もオーディオも彼は知っていました。 そしてブラームスが予言した「自然電気ひずみ」が電気の力でエレクトリック・ディストーションに変換され、ついには強力な破壊力でもって独裁者のメッセイジが数百万を超える人々に伝送されるのを‼! この電気の使われようはシュトラウスにとって、アインシュタインが原子爆弾の投下を目の当たりにした時と同じくらい衝撃を受けたと想像に難くはありません。 ラヂオから流れ始めた音楽は実際の音とは異質で電気的な歪みに彩られたものでしたから、彼のような聴覚バランスに敏感な男には相当な苦痛を伴ったに違いないのです。 自分を取り囲む環境がエレクトリック・ディストーションに汚染され始めていくと、作曲家としての彼の心境はいやがおうでもナチュラル・ディストーションに向かう意思を強めていきます。 だからこそ、彼が作曲した音楽は一貫して音が濁らないものになっていったのでしょう。 彼の作品はエレクトリック・ディストーションばかりではなく自然電気ひずみにも近づこうとはしませんでした。 これらはブラームスの時代でしたら新しい作風になり得たのですが、彼の時代にはもはや陳腐であり何も珍しいものではなくなってしまっていたのです。 この姿勢は彼の最後の歌曲、4つの最後の歌でも変わることはありませんでした。 否、シュトラウスのナチュラル・ディストーションはさらに深みを増していったのです。 幼いころには存在した神聖ローマ帝国の残滓、それへの憧憬と惜別が響きを深めていくさまは、華やいだ青春時代の思い出が綴られて寂々たる余韻を含んでいます。 この最後の歌曲ほど美しく深化したナチュラル・ディストーションはめったに聴くことができません。 この曲の録音をアメリカ盤やアメリカのオーディオ機器で再生しようとすれば、完全なる興覚めになることでしょう。 ハプスブルク家の文化の栄華も香りもしないからです。 それをこれらの盤や機器に求めるほうこそお門違いなのです。 今でも多くのオーディオ愛好家はそうした間違いに気が付かないようです。 ヨーロッパの私的に深化した音楽、ちゃんと味わいたいと望むのなら、ヨーロッパ製のレコードとオーディオ機器でないと無理でしょう。 初期盤に関して言えば、1950-60年代半ばまでの英国製機器が適しています。 シュトラウス音楽の再生にかかせない文化の爛熟と退廃が煙となってたなびくとき、その煙に音はいぶされて特有の金色を宿します。 これはいぶし銀ではないのです。 いぶし銀の音とはドイツやアメリカ製のオーディオ機器にこそふさわしい表現のありかたですから。 ハプスブルク家の装飾にあるような金色の音色が装置から出てくるようになれば、音と音楽はどこのものでも無い、真にオーディオの中にのみ存在します。 その時聞き手は現実の音がオーディオの音に近寄り、寄り添うことに気づくはずです。 深化が進んだクラシック音楽は爛熟を母とし退廃の海から生じてきます。 ナチュラル・ディストーションは波となって、聞く人の心情を洗い清めるのです。 つづく 
以上T氏



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