2017年10月02日

ベルトドライヴとノイズ 末期

アイドラドライヴに代わりベルトドライヴがレコードプレイヤの主流となった。 レコードプレイヤにとって求められるのは、製造時に販売されていたレコードの音質に適合することである。 60年代後半のレコードはそれまでのLPに比べて、まず、安っぽくなった。 盤そのものが持つ風格(盤材、盤厚、レーベルデザイン)、ジャケットデザインと紙質の劣化、それと演奏家の技量の低下、工芸品だったレコードは大衆消費財になる。 安っぽくなったのはそれだけでない、一番安っぽくなったのは音質である。 ビートルズのレコードはハイファイシステムではなく、ポータブルプレイヤやトランジスタラジオで聞いたときに一番良く聞こえるように電気的に処理されたもので、彼らの声そのものがノイズである。 そして若者はノイズを音楽の一部として受け入れるようになった。 歌手の電気的な加工処理は以降現在まで続く。 CDから流れる安室奈美恵から実際彼女がどんな声してるのか想像できるか? 60年代初めまでの歌手たち、シナトラ、ナット・コール、エルヴィス、パット・ブーン、クリフ・リチャード頃までは、いわゆるハイファイサウンドで彼らの声の魅力がレコードから再生されていたのを憶えている。 不思議な形をしたギターを知ったのは映画館で『アイドルを探せ』(『アルジェの戦い』と二本立て)を観た時で、すぐにフジ『ビートポップス』あたりから耳にはどんどんエレクトリックサウンドが入り込んできた。 そしてモータウン、フィル・スペクターが絡み、ポップス界ではどれが誰の声かわからなくなってしまった。 機械と電気が支配して、ノイズと楽音の区別もわからなくなって、それが当たり前で済んでしまう時代に、ベルトドライヴは大活躍する。 レコードには本当の声が入っていないのだから。 影響はクラシック音楽にも及んだ。 マルチチャンネル・マイクロフォン、巨大なディジタル・コンソール、トランジスタアンプ、これらは音楽をエフェクト化することに直結していることを、エンジニアたちは巧妙に利用した。 そう音楽はエフェクト化されてカッティングしたのだ。 こうなるとノイズはいとも簡単に取り除くことができ、ノイズどころか演奏そのものまでトリミングして効果を挙げることが可能になった。 こうしたやらしいこと常習者となったエンジニアたちにも、もっともらしい言い分はあった。 『演奏家のレヴェルが低すぎる』 60年代後半、指揮者はおろか、ヴァイオリニストや管楽器奏者たちの音楽性の低下は目を覆うものがあった。 確かに演奏技術は向上した、が、それにともない、音楽は芸から芸術というヨロイを着て、登場する。 なぜなら、芸がないからゲイジュツという看板に頼るしかない、電気的処理によってごまかしたくなる音楽素材しか提供できなくなったのだ。 レコードからノイズが消えたのはそのころからである。 ノイズは消えて、音楽も消えた。 超低域まで出るDCアンプが出現してアイドラプレイヤではゴロが出る。 手っ取り早くベルトドライヴを使う。 ポップスはほとんどシンセであり、電子リズムに合わせて人間が歌っている。 ヴォーカルをさらに電気的、いや電子的に加工する。 ノイズが消えたレコードを再生するにはノイズが出ない構造のプレイヤが必要となる。 同時にどれが本当の音なのか、わからないままにレコードを再生しなければならない。 小さな模型用のモータにベルトをかけたプレイヤである。 これではプラッタをコントロールできず、慣性力にまかせるまま。 ノイズは出ない、代わりに音楽をはじき出す力もない。 アイドラプレイヤを聴きなれた耳で、ベルトドライヴを聴くと『面白くない』『きれいごと』『音色はどこ』『溝の表面を撫でている』感が浮かぶ。 人間は進歩するものと思い込み、無理して新しい録音を聴かなくっちゃ、という時代はとっくに過ぎている。 音楽の分野(特にクラシック音楽)で、すでにゲイジュツの退化は始まっている。 音楽を犠牲にノイズを排除して、レコードは楽しくなったのだろうか。 この項終わり Aが記した


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