三分ストーリー

三分程度で読める小説が置いてあります。

次回は高い高い評論家にお越し頂きます。

 
 わたしは、いないいないばあ専門の評論家である。

 いないいないばあを評価しはじめたのは、生れたそのときから。もう十二か月である。同業者のなかではかなりの古株だと言えよう。

 今回は、いないいないばあの魅力について語りたいと考えている。その動機としては、大人たちがあまりにもいないいないばあに対して無知であり、またその良し悪しをまったく理解できていないということが挙げられる。

 さて、いないいないばあは、知っての通りわたしたちのような赤ん坊をあやすためだけの行為であるとされている。しかし、いないいないばあは一つの芸術であり、学問であるとわたしは提言する。

 両手によってその顔が隠される瞬間、そこにあったはずの存在が闇に閉ざされる。わたしたちの不安は煽られる。不在の恐怖である。そうした心を見透かすように、再び両手は広げられ、安心の化身とも言うべき顔が現れる。そのときに感じる安心感、喜びは何物にも代えがたい。自然、笑みがこぼれる。

 良いいないいないばあというのは、この不安と安心の調和がとれているもののことを指す。「いない」状態が長すぎると、わたしたちが感じる不安が大きすぎるし、それが短すぎると、大きな安心を得ることができない。このあんばいの調整がきわめて難しために、いないいないばあは複雑であり、魅力的であると言える。

 したがって大人は、いないいないばあに真剣になるべきなのだ。安易な気持ちで行われるいないいないばあは、わたしたちを不安にするだけ。生半可なものではないのだ。

 大人たちよ、いないいないばあに命をかけろ。



かえるが鳴いたら


 私はかえるであり、また、いもうともかえるである。

 父は生まれた時から知らぬ。母は私の足が生えた時に死んでしまった。夕食の蜻蛉を田から出て道路まで追って行った所で車に轢かれたのである。兄弟はたくさんあったが、いま一緒に暮らしているのは、このいもうとだけだ。

 いもうとは生まれつき身体が弱い。まったくこの話をするとすぐに他人はさも不憫そうな顔をする。型にはまった「可哀想な話」として、内情も深く知ろうとせずに、これはこのような反応をすべきであると言わんばかりに涙を見せる。諸君に何が分かる。と、言うのであれば何もこうして文章を認める必要はないわけで、これは全く私の我儘であると言える。許して欲しいと思う。

 ある日いもうとは棲家から然程歩かぬ所に聳える樹に、うつくしく蒼い花が引っかかっているという話をした。先だっての大嵐で何処かから飛ばされて来たものと見える。口には出さなかったが、いもうとがその花を欲しがっていることは明白であった。思うように運動もできない彼女の願いは何でも叶えてやりたいと思う。兄なので。

 それから私は妹が眠りに就いた後で、その樹に向かい蒼い花を手に入れる努力を続けた。樹は天を衝き、頂上は黝い月に触れている。いくら私がかえるとは言え、跳ねて届くと思うほど阿呆ではないつもりである。田の水から出て、夏草生い茂る樹の根元へ進み、前足をかけ後ろ足をあげ、私は幾度も樹に登ろうと試みたのである。花は樹の中程で分かれた枝と幹の間に挟まっていた。幾日が経っても不思議と蒼い花は枯れてしまうことなくそこにあった。自惚れて言えば花は私を待っているようであった。

 しかし私はいつまでも目的の高さまで登ることができないでいた。言い訳を許してもらえるなら私の右足を見て頂きたいのだ。腿から先がない。端は皮が強張ったようになっている。母は私を庇って車に轢かれた。足が生えて有頂天になり、前も見ずに蜻蛉を追いかけ道路へ出た私を助けた。命を失う所を右足だけで済んだのは、ひとえに母の御蔭である。愚かな私のために母は死んだ。私にできることはただ、いもうとにたいして母の代わりを務めることだけである。

 ひと夏が過ぎ秋を迎えた。急がねばならぬ。冬には我々、冬眠しなければいけないから。焦れば焦るほど簡単に樹から滑り落ちることが多くなった。左脚や腹に細い木片が刺さることはよくあった。擦り傷は無数にある。肉刺だらけ血だらけであった。

 十一月も半ばを過ぎた頃である。常のように私は妹が寝静まったのを見届けると例の樹へと向かった。水から上がると鋭利な冷気が私の身体を震わせた。私の手足でなければとうに捨てているであろう傷だらけの肢体に無理を強いる。寒さが力を奪う。それでも一歩ずつ、蒼い花を目指していた。

 枯れ果てた木肌にしがみ付き、花まであと三尺五寸と言った所であった。どこから現れたか人間の童が私の後から樹に登り始めたのである。息つく間もない出来事であった。童は獣のような身軽さですぐに私を追い抜かし、蒼い花の元へ辿り着いた。霜焼けの右手でそっと花を摘まむと、滑るように樹を降りて何処かへ去って行ってしまった。

 童の姿を茫然と見送った後、眼を上へ向けると、これまで毎日目指していた幹と枝の間にはただ空が見えた。あるはずのものがないということほど切ないものはない、そう思った。

 まったく何が起こったのか納得できぬまま力なく私は樹を降りた。根元へ着くと、身体に僅かばかりも力が入らなかった。糸が切れた木偶の様だった。悄然として空を見上げるばかりであった。

 死にたいほど、辛い。

 文字通り血の滲むような努力は一瞬で水泡に帰した。

 それよりも何よりも、いもうとのささいな願いすら満足に叶えることができない自分に呆れた。呆れかえった。

 そのまま泥のようにその場にうずくまっていた。霧の濃い夜明けであった。いもうとが私の元へやって来た。何時の間に起きたのだろう。顔も合わせられなかった。情けない。今の自分は、価値がない。

 「知ってたよ」

 いもうとは言った。

 「にいさまが毎晩、あの蒼い花を私のために取ろうと一生懸命だったこと、知ってたよ。寝たふりをして、毎日隠れて後をついていってた」

 いもうとが何を言おうとしているのかよく分かった。知っていて、言わなかったのだ。私のためを思って言わなかったのだ。優しいいもうとなのだ。そしてそれが何より今の私には辛い。何も言えなかった。

 「あの子もきっと、そうなんだと思う。誰かのためにずっと探していた花だったのだと思う。歩いて、歩いて、一生懸命に探していた。何度も諦めそうになって、それでも歯を食いしばって探して、大切な人のために、やっと見つけたんだと思う。だから、にいさまはあの花を譲ってあげたのでしょう。そうでしょう。私は、にいさまのことを心から誇りに思っています」

 優しいいもうとなのだ。

 私が思っていたよりも、はるかに。

 「帰ろう、にいさま」

 「うん、帰ろう」

 声は掠れていたかも知れぬ。



ヘッドホンに渦巻く悲鳴


 人に構ってはいられないのである。

 彼は家にいる間、常にヘッドホンを付けている。食べる時も寝る時も、便所へも風呂場へも。それでいて何を聴いているかと言えば、延々とある音を聴いている。

 他人の悲鳴。

 老若男女問わず、ひたすらに悲鳴を聴き続ける。高い声低い声、よく通る声しわがれ声。耳が痛くなる。しかし、決して家の中でヘッドホンは外さない。

 必要なことだ。

 外へ出る時。外の世界へその身一つを投じる時。彼には余りに厳しいものなのだ。悲鳴をあげている他人を見殺しにするのは。しかし。

 人に構ってはいられないのである。

 自分のこと。自分の身を持ち上げるだけで精根尽き果てる毎日に、他人へ手を差し伸べる余力があろうはずもない。

 だから。

 彼は家にいる間、常にヘッドホンを付けている。

 他人の悲鳴をひたすらに聴き通す。

 ヘッドホンを外して家の扉を開ける時、彼の耳には本物の悲鳴と幻の悲鳴との区別がつかなくなっているのだ。

 

         ○

 

 「何か、こう、痛々しいと思います」

 素直な感想を述べた。これまでも、どこか思春期の感傷を思わせる彼女の小説に散々辟易してきたのだ。

 彼女は何も言わずに俯いている。

 「今度までにちゃんとしたの書いてきてね。原稿料は払うから。はいじゃあ今日はお終い。では、僕は帰るから」

 佇む彼女を後にして、僕は事務所の扉を出てすぐの階段を下り、最寄りの駅まで五分ほど歩いた。下りの電車に乗り込むと、空いている端の席に座り、腕を組んで眠った。

 駅に着き改札を出てさらに十分ほど歩くと僕の家が見える。

 エレベーターの四階を押す。

 僕の家に着く。

 鍵を開けて中へ入り鍵を締める。

 僕はすぐにヘッドホンを付けた。



俺のパンツ


 今日午後三時頃、Aビルを清掃していたB清掃株式会社の社員吉岡一郎
(二十八)が、突風に煽られ転落死した。発見された当初、同氏は衣類を身に着けておらず、安全器具も付けていなかった。警察は現場に居合わせた同社員に事情を聞くと共に、現在事件の詳細を調査中である。(C新聞から一部抜粋)


         ○


 青い空が広がる。

地上二百五十メートルに二人の男がいた。彼らは高層ビル専門のとある清掃会社に勤めている。

ビル屋上からワイヤーに吊られた、ブランコにも似た足場に立ち、彼らは仕事を進めている。その足場は二つ用意されており、二人はそれぞれ上下の位置でそれに乗っている。

真夏ではあったが、比較的過ごしやすい気温であり、整然と並ぶ窓を磨くのには絶好の日和であった。足元に置かれているラジオは、雑音を背景に気象予報士が突風に対する注意を喚起している音声を拾っている。

「吉岡。お前知ってるか。最近お前の家近くで多発してる事件」

清水は顔を上へ向けて手を動かしながら吉岡に話しかけた。

「知ってる知ってる。回覧板で回ってきたしな。バケツそっち降ろすわ」

吉岡はワイヤーを結びつけた青色のバケツを清水の元へ降ろしながら言った。

「やっぱりか。全く何考えてんのかねえ。バケツ助かる。あと二番ブラシ取ってくれ。軽いし落としても構わん」

「ほれ」

「助かる。あーすまん。あと水切りも」

「ん」

「よしよし……ん? 何だこれ。雑巾じゃねーよ。水切りだって」

「あー。それ雑巾じゃない」

「はあ?」

「俺のパンツ」

吉岡は平然とそう言い放った。清水が驚いて見上げると、下半身を露わにしたまま仁王立ちをする吉岡が目に入った。

「お前っ! 何してんだ馬鹿ふざけんな!」

「やっぱ街を見下ろしながらの露出は堪らんね」

吉岡は鷹揚な態度で腰に手を当てている。

清水は茫然とするあまり二の句が継げずにいた。そうしている間に吉岡はあろうことか上着にも手をかけ始めたのである。

「馬鹿! 馬鹿! 何なんだ吉岡。どうしちまったんだおい」

「やっぱ全裸っしょ」

吉岡は身体に取り付けられている命綱の隙間から、あれよあれよという間に全く器用に服を脱いでしまった。

「お前か! さっきの事件の犯人……露出狂事件の!」

清水がそう叫ぶと吉岡は妖しく微笑み、裸体に取り巻く命綱さえも取り外しにかかった。

 「おいおい! まさかそれ外す気じゃないだろうな! やめろ! シャレにならんぞ!」

 「でもこれ付けてるとさ、正確には全裸とは言えないよね」

吉岡は命綱を繋いでいる三つの錠を手早く外した。

そして頃合いを見計らったかのように、突風が二人を襲った。



 

 

来る夏


 五月末日。彼は眼の奥に脈打つ頭痛を揉み消すように灰皿へ煙草を圧し付けた。マウスを握る骨張った右手は液晶画面から溢れる白光に照らし出されて、机上に影を落としている。硬い椅子の背凭れに身体を預けると、押し出されるように濃い溜息が出た。手探りで足下の電源を落とす。暗闇の中で瀕死の吸殻が赤く燻っている。彼は立ち上がり、背後のベッドに倒れ込んだ。

 眼を閉じ、後頭部が枕に溶けてゆくような感覚を味わっていると俄かに瞼の向こう側を仄かな明かりが過った。眼下に忽然と現れたそれは静かに額の上方へ滑っていく。眠りの淵にいた彼は瞼の裏でそれが何かを考えた。

 頭上にある窓の鍵の開けられる音がした。沈んだ意識が急速に輪郭を取り戻し、驚いて彼は跳ね起きた。見ると窓とカーテンは拳ほどの幅だけ開かれている。そして黄金色の小さな光がその間隙に吸い込まれていった。後を追って隙間を覗き込むと、彼は視界一杯に溢れる輝きに眼を細めた。

 土埃に汚れた窓硝子の向こうにはベランダの手摺が見え、そこに先程の光が留まっている。眼を凝らすと、その中心には半透明の蝉が見えた。濡れた氷のように滑らかに透き通るその蝉は音もなく欄干から飛び去る。彼は急いで裸足のままベランダへ出た。途端に、熱気を帯びて湿った風が彼を包む。

 夜の足下は灯りに満ちていた。二階から外を横切る道路を見下ろすと、温めた星のような淡い明かりが、向かい合うマンションの底で行列を成していた。

 二車線道路は発光する琥珀色の水で満たされていて、風鈴に似た橙色の海月が心地よい音を響かせながら無数に漂っている。列の先鋒には先の蝉が燐光を発し、円を描いて飛んでいた。水面には、微光を湛えた麦藁帽子や半月状の蛍光西瓜、青く透き通るラムネの瓶に半透明な陶器の蚊取り線香がぷかぷか浮かんでいる。それらを船代わりにして、照らし出された気泡のように揺らめき輝く雨蛙や玉虫、山椒魚や蛍などが宴を催している。

 気付けば彼は大きな団扇を櫂代わりにして空色に煌めくラムネ瓶の船を一生懸命に漕いでいた。他の船に負けぬよう腕を必死に動かすと、汗が止め処なく流れ落ちる。久しく忘れていた高揚感が彼の身体に漲った。

 温かな色の水路を進めば進むほど、彼の身体は軽くなった。それと同時に周りの宴会の騒ぎも夜空を浸す程になってゆく。辺りの眩さは次第に明度を増していき、細目で追っていた蝉はついに溢れる灯りへ溶け込んでしまった。彼は眩しさの余り、眼を開けていられなくなった。ぎゅっと眼を閉じる。

 眼を開けるとカーテンから漏れる朝陽が網膜に焼き付いていた。頭痛が後を引いている。ベッドから降りた足で窓際へ歩いた。窓を開けると、夏の匂いがした。



文字細工師


 サツキと喧嘩をした。給食の時間のことだ。サツキの大事にしていた筆箱に、手を滑らせて牛乳をこぼしてしまった。僕が悪いとは思う。でも、ワザとではない。それに、たくさん謝った。給食の時間が終わり、五時間目が終わっても、まだ謝っていた。それでも、サツキが許してくれないので、僕は言ったのだ。

 「それ、弁償するからさ。許して」

 サツキは顔を紅潮させて、もっと怒った。仲直りしようと思って言ったのに、なぜ。僕はついに不貞腐れて、いつもサツキと一緒に帰る道を、一人で歩いて家に着いた。

 鞄を二階の自室に放り込み、僕は一階の奥まった部屋へ向かった。そこではおじいちゃんが壁一面の本棚に囲まれて作業をしている。この部屋は、好きだ。古い本の香りがほんのりと薄暗い部屋に漂っている。橙色の電球に照らされた柱は、静かに黒ずんだ鈍い光沢を見せている。僕は気分が落ち込んだ時に、おじいちゃんの仕事を見せてもらうのだ。

 「文字細工師」の肩書を持つ人はそう多くないという話をお母さんから聞いた。確かにおじいちゃんの仕事を見ていると、納得できる。本は、何度も読み返される内に、一つ一つの活字が勝手に動くようになる。何万字もあるそれらを、丁寧に元の位置に戻していくおじいちゃんの手付きは、余りに緻密で、とても機械には真似できないものだと思う。鮮やかで、見ていて落ち着くものだ。

机上には虫眼鏡やピンセット、活字針や文章糊などの工具が散乱している。所々に「序」や「え」といった活字が無秩序に刻印されている。それはまだおじいちゃんが未熟だった頃に紙面から取り逃がした活字たちだと言う話だ。

黙々と仕事を続けるおじいちゃんの隣で、僕もまた何も喋らずにそれを見守った。

「また、嫌なことがあったかね」

活字針で「陽」という字を刺したまま老眼鏡を外し、おじいちゃんは僕に言った。

 「何でさ、おじいちゃんに仕事を依頼する人は、新しい本を買わないの? いまおじいちゃんが直してる本って新装版が出てるよね」

 僕が話を逸らすと、おじいちゃんは口元に微かな笑みを湛えて眼を瞑った。おじいちゃんのポケットからは懐中時計の細く硬質な音が聞こえる。

 「そうさね。例えば、誕生日にお前から貰ったあの本が読めなくなったとするね。活字がてんでばらばらだと。そうしたらおじいちゃんは新しく同じ本を買うかな」

 その言葉を聞いて僕はサツキの筆箱のことを思い出した。あの筆箱は、サツキにとって、どんなものだったろう。どんな想いが、詰まっていたのだろう。僕は、それを、知らない。

 「僕、許してもらえるかな」

 「大丈夫。早く行っておいで」

 僕は頷くと、駆け足でおじいちゃんの部屋を後にした。



花火の卵はあのお店


 お父さんの話によると、どうやら花火の卵はあそこでしか手に入らないそうなのである。少しほっとした。確かにあれほど奇妙キテレツなものがどこにでもあるなんて面白くない。よろしくない。

 転がるように薄桃色のサンダルを履いて、立て付けの悪い引き戸を全体重でこじ開けた。彼方の入道雲が暑さを溜め込んでたっぷりとしている。夏が焦げている匂いがする。庭先の玄関を走り抜けた時には、汗で白いワンピースがほんのりと淡く染まった。

 買ってもらったばかりの向日葵色をした自転車にまたがると、いひひ、と笑ってしまう。くちびるをきゅっと結んでも、わくわくする気持ちが顔に出てしまう。いひひ。

 立ちこぎでペダルをぐんぐん踏んでいると、地面からふわりと浮かんで走っているような気がしてくる。不思議な感じだ。気を抜くとどこかへ飛んで行ってしまいそうである。

 しばらく風を切って進んでいると、道が二手に分かれた。私は迷わず雑木林の中へ続く小径を選ぶ。空から降る陽射しは、青々とした木々に遮られて、道端の根っこに目のくらむような日だまりを落としている

 「アホ!」

 私は日陰で昼寝をしていたノラ猫に叫んだ。特に意味はない。猫も馬鹿にしたように片目でちらりとこちらを見ているのだから、おあいこだ。

 雑木林を抜けると道路を挟んだ向かい側に「うちゅうのいえ」がある。怪しい建物ではない。ただの洋菓子屋さんなのだが、店主のイシダさんが宇宙大好きなのだそうである。以前、本人に「宇宙大好きなんですか?」とたずねたら、「宇宙大好きです」と言っていたから間違いない。

 横断歩道を渡り、その「うちゅうのいえ」の脇にある細い道に入る。あそこへ辿り着くにはここからが肝心である。道を間違えてはいけない。道を間違えると別の楽しい場所に繋がってしまうからである。

 自転車は「うちゅうのいえ」裏にある小さな駐輪スペースに停めさせてもらう。ノドが渇いたので、以前あそこで買った、ビー玉に良く似た「ラムネの泉」をワンピースのポケットから取り出して口に放り込む。飴玉ではないので呑みこんだらダメなのだ。舐めていると「ラムネの泉」からラムネが湧き出してくる不思議な仕組みなのである。実に不思議なので、「ふひぎだ!」とふてぶてしく浮かんでいる入道雲目がけて力いっぱい声を投げた。

細い道を少し行くと、三方向を苔の生したブロック塀で囲まれ、行き止まりになっているということは分かっている。だからそのまま真っ直ぐ行っても無駄である。

 私はまず細い道の右端にそびえる電信柱と壁の狭い隙間を無理やり通る。ずりずりと白いワンピースが擦れて苔が青くこびり付いてしまうが気にしない。ぐいぐいと間から抜け出ると、前方の行き止まりが少し先に延びている。良い具合だ。

 延びた道の真ん中には、吸い込まれるような青い空を映した水たまりがある。久しく雨が降っていないので、それは空が溶けた雫なのだと勝手に納得している。私はじゃぶじゃぶ水たまりを突き進む。避けて通ることは簡単だが、じゃぶじゃぶ横断するのがポイントなのだ。薄桃色のサンダルはじゃぶじゃぶにやられてしまうが帰って洗えばよい。

 前を見ると、さらに行き止まりが遠のいており、ブロック塀であった奥の面が錆びたフェンスにすり替わっている。

 「おっちゃん、私が来たよ!」

 私がフェンスの向こう側にそう呼びかけると、遠くで涼しさの粒を水に落としたような風鈴の音が聴こえた。すると、いつの間にかフェンスに扉ができている。

 「ありがと!」

 私はそう言うとその扉の脇にあるフェンスの破れた狭い穴をくぐるのだ。決して騙されてはいけない。現れた扉を通ると別の楽しい場所に行き着いてしまうのである。前に一度間違えた時は市民プールに繋がった。あれはすごく楽しかった。

 フェンスの隙間を抜け、目の前に広がる背の高い夏草を分け入って進むと、突然視界が開ける。

 周りを背の高い木々に囲まれた草はらに、木造の体でトタン屋根をかぶったおっちゃんのお店がぽつんと建っている。針金でぐるぐるに留められたぼろ看板には空色に白抜きの大きく雑な字で「やっぱり夏なのよ」と書いてあった。

 「花火の卵、ありますか?」

 私を迎えに店から出てきたおっちゃんを見るや否や、いひひ、と笑いながら私はそうたずねるのである。



視点

   
   1

   最近の私の趣味はあてもなく電車に乗ることである。
   階段を上がり終わった時には既に電車が到着していた。私は足早に車両の中へ歩みを進める。
   ドア付近にいた人がこちらを見て驚いた様子を見せたが、いつものことであるので別段気に留めはしない。
   ドアが閉まると、ポテトとハンバーガーの匂いに私の鼻が反応した。おそらく誰かが某ファーストフード店から商品をテイクアウトしたのであろう。それを持っているだけで車内に匂いが充満する。少々おなかが減る。
   私が座ろうと辺りを見回すと、ちょうど1人分座ることのできるスペースを発見した。
   私はゆっくりそこへ向かい、座席の前の床に腰を下ろした。
   さすがに座席に抜け抜けと座るような常識知らずではないと自負している。少々暖房が効きすぎているため、ひんやりとした床が心地よい。
   何やら周りの人が私を指さしながらざわついていることに気付いた。私は特にそれに構うことなく、手をペロペロと舐める。
   そんなに猫が電車に乗ることが問題なのだろうか。
   邪魔にならぬようわざわざ空いている席の前で縮こまっていると言うのに。


   2

   僕は友人と別れを告げた後に、某ファーストフード店に立ち寄った。
   今日は母が体調不良であるため、夕食は自分で買って来いとの指令を受けているのである。夕時にハンバーガーとポテトというのも一風変わっていて良いのではないかと思うのだ。
   「お持ち帰りになられますか」
   という質問に、
   「お持ち帰りになります」
   と妙な日本語で返答し、店を後にした足でそのまま最寄りの駅へ向かった。
   秋になって急に肌寒くなってきたため、電車が来るまでの待ち時間で体が冷えてしまった。
   幸い車内は暖かく、空いている席に座ることもできた。
   僕の家は先ほどの駅から4駅離れた場所にあるのだが、3駅目に電車が着いた時に驚くべきことが起こった。
   初老の男が四つん這いで車内に乗り込んできたのである。
   ドア付近にいた大学生風の女性が驚嘆するのも無理はない出来事であった。僕自身もひどく動揺したが、なるべく目を合わせないよう努めた。
   その後男はあろうことか床へ座り込み、背を丸くして手を愛おしそうに舐めていた。
   周りの人が小声で口々に何か言っていたが、僕は次の駅で急いで降りた。
   後から友人に聞いた話では、初老の男は電車内での目撃者が絶えず、どうやら自分のことを猫であると思い込んでいるらしい。
   飼い猫が死んでしまったショックでそのようになってしまったんだとか。


静かな湖畔で

  
   うっすらと霧が立ち込める静かな湖畔。
  そこは知る人ぞ知る釣りの名所であり、男がその場へ到着した時には数人の釣り人が既に釣りを楽しんでいた。
  男はいつもの自分の定位置に付き、簡易椅子と釣り具を置く。ぼんやりとした朝の陽ざしを受けて、男の取り出した釣り竿の先が照らされた。慣れた手つきで糸と針を用意する。
   この湖畔で釣れる魚に必要な餌は市販では売られていないため、男が取り出した餌は自家製のものである。釣りの前日にその餌は冷蔵庫で保管することになっているのだが、男の妻はそれを快く思っていないようであった。しかし貴重な休日の楽しみを奪われては堪らないと男は妻の文句に耳を貸さないでいる。
   その餌をぷすりと釣り針に突き刺す。後方へしならせた竿を勢いよく振る。後は辛抱強く目当ての魚が釣れるのを待つだけである。
   耳にさわる風は気持ちよく、水面の揺れる音が心を落ち着かせる。男にとってその時間を過ごすことも一つの楽しみであった。
   その日は午前中で釣りを切り上げる予定であったが、予想以上に魚の食い付きが良く、10匹目を釣り上げた時には昼食時をとうに回っていた。
   これはいかんと男が手早く釣り具の片づけをしている時に、思いもよらぬことが起きてしまった。
   閑散としたその湖畔に紺色の制服を着た7、8人の集団が突如現れたのである。
   警察官であった。
   その内の2人が真っ直ぐに男の元へ走ってきている。
   先ほどのまでのゆっくりとした時間が嘘のように、あっという間に男は身柄を拘束されてしまった。
   他に釣りをしていた人たちも同様にすぐさま取り押さえられた。
   「現行犯で逮捕する」
   1人の警察官は男が釣り上げた魚を見てそう言った。
   釣り人たちの中には暴れている者もいたが、男は抵抗もせず、観念した様子で手錠を掛けられた。
   皆、脇道に控えてあったパトロールカーへ乗り込み、連行されていった。
   うっすらと霧が立ち込める静かな湖畔。
   そこに生息する魚は人の肉を好んで食べるのである。


優れて馬鹿な技術師

  
   ある大手企業の社長室に1人の技術師が訪ねてきた。
   「よく来た。注文の品ができたのかね?」
   社長はそう言うと、技術師が小型フォークリフトで運んできた大きな荷物に目を遣った。
   「はい。予定より早く完成致しましたので、実際に社長にご覧になっていただこうかとお持ち致しました」
   技術師は丁寧な口調でそう言うと、荷物に被せてあった大きな布をひらりと取り除いた。すると銀色に輝くいかにも頑丈そうな箱がその姿を現した。
   「こちらがご注文を承った金庫です。『絶対に中の物を盗られない金庫』とのご要望でしたので、もちろん一般的な金庫とは一味も二味も違う素晴らしいものとなっております」
   「世の中は物騒だからな。自分で言うのもなんだが、我が社は大企業だ。そうなれば当然ながら機密事項も増えてくる。それをまとめた大量の書類を納めるのだから、それぐらいでないと困るというものだな」
   技術師は社長の言葉に同調しつつ、金庫の説明に入った。
   「この金庫が他のものと大きく異なる点は、大きく分けて2つございます。
   まず1つ目はその材質。詳しくは企業秘密でお教え出来かねますが、金庫全体に特殊な金属を用いております。一般的な金庫の何倍もの衝撃や圧力に耐え、爆発や熱にも強く、その上ずっしりと重いために持ち去られる心配は全くございません。
   2つ目は金庫に取り付けられたこの高性能ロボットアーム。この金庫を無理やり開けようとしたり、壊そうとしたりすると、自由自在に動くこのロボットアームがその元凶を感知し捕捉します。人間の20倍もの握力を持つこのアームに拘束されて逃げる術はございません。
   以上2点がこの金庫が『絶対に中の物を盗られない金庫』であると自信を持って申し上げることのできる理由でございます」
   技術師の説明を聞いた社長は満足そうな表情で金庫を眺める。   「素晴らしい。注文通りの品であるようだな」
   「有難う御座ます。ちなみにこの金庫には1つの鍵穴しか付いておりません。しかしこの鍵は某国の大統領の金庫に用いられているものと同様の種類でございまして、この小さな鍵穴に想像を絶するほどのテクノロジーが駆使されているのです。オートロックになっていますので、鍵の掛け忘れの心配も無用でございます。ただし、技術面の問題で、スペアの鍵は作ることができないので、決して無くすことの無いようにお願い致します。それだけに注意していただければ、複数鍵を付けているよりも安心、安全。量より質ということですね」
   技術師がそう言うと、社長はさらに満足そうに金庫を撫でた。
   「まさに鉄壁というわけだな。うむ、君に仕事を依頼して正解だったようだな。では一度この金庫を開けて中の広さを見てみたいから、鍵を渡してくれんか」
   社長が手を差し出しながらそう言うと、技術師は丁寧な口調で答える。
   「いえ、私はこの道のプロフェッショナルでございます。最後まで気を抜かないというのが私のポリシーでして、鍵はすでに厳重にこの金庫の中に納められています。鍵を盗られたら本も子もないですから」



厳格なる魔法教師

  
   とある世界に魔法学校があった。
   魔法学校とはその名の通り、魔法を教える学校である。
   魔法使いの見習いたちが集うその場所は森閑とした深い谷底に佇んでいる。
   濃い霧から突き出るその紅の屋根が、月明かりを受けて妖しく夜に浮かぶ。巨大な校門は見上げれば首が痛くなるほどであり、校舎自体も"学校"というより"城"といった風体である。それはまさに魔法学校と呼ぶに相応しい外観であった。
   魔法の教師はみな風変わりな人ばかりである。常に巨大な蛇を体中に巻きつけている教師がいれば、小人のような教師もいる。透明で見えない教師がいれば、鼻が顔より大きい教師もいる。
   しかし魔法学校の生徒たちが最も恐れるのは、一見ふつうの老教師であった。見た目は他の教師陣よりもまともであったが、黒いローブに身を包んだ彼は誰よりも厳格なのである。
   その老教師は教室に入ってくるなりある魔法をその一室全体に施す。"この場で間違いを犯したものを何処かへぶっ飛ばす"魔法である。
   これが生徒たちが彼を最も恐れる理由となっている。
   彼がこの魔法学校へ来てから通算998名がその魔法の餌食となった。飛ばされる場所は食人植物の森や大蛇の湖などの危険区域から無作為に選ばれる。無事に帰って来られる保証は勿論なかった。
   今日もそんな恐ろしい講義の鐘が鳴ろうとしていた。
   「では……講義を始める」
   大きな教卓の前で老教師は生徒たちに向けて言った。
   戦々恐々としている生徒たちを余所に、徐に大黒板に魔法で字を書き始める。
   「……ここは前回の講義でやったな。賢者アルトネウス=コルンが魔術暦4698年にサルトルの民を虐殺した事件を何と言ったか。答えよ学級委員のシエン君」
   老教師がしわがれた声で低くそう言うと、指された生徒は肩をびくりと動かした。
   「えっと……アーマン教会大虐殺事件……でしょうか?」
   生徒は引き攣った表情で恐る恐るそう言った。
   「愚か者。間違いだ」
   老教師がそう言うか否かというところで生徒は見えない何かに背中を掴まれでもしたかのように、ふわりと宙に浮き、次の瞬間目にも止まらぬ速さで教室の窓を突き破って夜の闇に消えていった。
   999人目の犠牲者は彼となった。
   凍りつく残された生徒たちを後目に、老教師は何事もなかったかのように講義を再開する。
   「先ほどの質問をもう一度。カルロス君、わかるかね。間違いは許されない。さあ答えたまえ」
   有無を言わさぬ口調で問いかけ、杖をその生徒に向ける。
   指名された生徒は動揺し、冷や汗を滝のように流した。
   目が泳ぐ。口が震える。
   周りの生徒が固唾を飲んで見守る中、生徒は精いっぱいの勇気を振り絞って言った。
   「……先生、自分の名前はカルロスではなく、ロベルトです」
   老教師はふわりと浮きあがり、窓を突き破って漆黒の闇夜へ消えていった。
   老教師は不本意にも記念すべき1000人目を飾ることとなった。

モノクローム

   
  仲の悪かった祖父母が2人とも昨年同日に息を引き取った。
  晩年は両人とも体調が優れず、入退院を繰り返していた。病院では「別の部屋にしてくれ」などと子供のようなことを言い、日常的に「あの人が早く死ねばせいせいするのに」と罵り合っていた。
  そんな2人が住んでいた一軒家に私は住むことになった。今年の春に晴れて合格した大学は、実家よりも祖父母の家の方に近いからだ。
  1人で住むには余りに広いこの家を掃除するのには苦労した。別々の部屋で寝ていたのか、2枚の布団はそれぞれ異なる場所にしまわれていた。他にも掃除をする中でそのような不仲の証をたくさん見つけた。
  父に聞いた話だが、祖父母は私が生まれる前からよく喧嘩をしていたらしい。物事の好みも正反対で、祖父が黒を好きなら祖母は白が好きであったし、肉を好む祖父に対して祖母は魚を好み、好きな言葉はそれぞれ"急がば回れ"と"善は急げ"であったりする。当時には珍しく恋愛結婚であったらしいのにも関わらず何故そんなに仲が悪かったのか私には理解できなかった。
  山のように積まれたダンボールがようやく少しずつ減り始めた時には、私もずいぶんと大学に慣れてきていた。
  その頃になって突然、近所のペットショップから2匹の猫が届けられた。
  真っ白な体の子猫と真っ黒な体の子猫だった。
  ペットショップの店長さんが直々に家まで届けてくれたのだが、私はそのような注文をした覚えはない。店長さんが言うには、どうやら2匹の猫は祖父母が頼んだものであったらしい。
  「白い猫は君のおじいさんが、黒い猫は君のおばあさんが選んだものなんだ。2人一緒に買ったわけではなくて、別々の日に店を訪れてそれぞれ同じようにこう言ったんだよ。『自分が死んだらこの猫を残されたあの人に届けてもらえないか』と」
  その後2人がほとんど同時に亡くなってしまったため、この2匹の猫をどうするか考えていたところに、私が祖父母の家に住んでいることを知ったのだと店長さんは付け足した。
  おそらく両人とも自分の死期が近いことに薄々気が付いていたのだろう。本当に素直ではない2人だなと思った。
   しかしおかげで私には広すぎる一軒家が少し狭くなった。もともと私は猫が好きだったので、今もその2匹と暮らしている。
  名前はそのままシロとクロ。2匹はいつも良く日が当たる縁側で、背中合わせに日向ぼっこをしている。
  どうやら祖父母と同じようにシロとクロは仲が悪いようである。



夕暮れヒーロー

 
  オレンジ色が街をやさしく包み込む。夕飯のにおいが何処からともなく漂う。ヒグラシはまだ暑さの残る風を受けて静かに鳴き始める。
  夕暮れ時。
  深紅のマントを翻し、彼が颯爽と人前に現れるのは、そのわずかな時間帯だけである。
  正体不明の正義の味方。
  人並み外れた身体能力で街中を縦横無尽に駆け抜け、様々な事件を解決に導く彼の影は、夕日で伸びながら鮮やかに地面に踊る。
  人は彼を夕暮れヒーローと呼んだ。
  重い荷物を持つお年寄りを助け、非行に走る少年たちを宥め、川で溺れる子どもを救い、危険な犯罪者を懲らしめる。
  彼はまさにヒーローと言うにふさわしい存在であった。
  夕暮れヒーローがこの街で活躍するようになってからは、夕方における犯罪率は急激に低下した。
  平和が叫ばれながらも殺伐とする時代の中で、夕暮れ時は人々にとって安心できる一時となった。
  しかしその一方で、夕日が水平線へ沈んだ後は事情が違った。
  街中の色は闇に染まり、街灯がポツポツと明りを灯す夜。空に一番星が現れると同時に夕暮れヒーローは姿を消すのだ。
  余りにも平和な夕暮れ時は、人々の心に油断をもたらす結果となる。
  ヒーローの存在に気を抜いていた街の警官や消防士たちの隙につけ込み、犯罪行為や危険行為は夜中爆発的に増加し、治安は夕暮れヒーローが現れる以前の夜よりも明らかに悪くなった。
  人々は夕暮れヒーローの活動時間延長を望んだが、素姓の知れない彼への連絡手段を持つ者はいない。
  しかし仮に彼へその旨を伝えることができたとしても、その願いが叶うことはないのだ。何故なら、夜は夕暮れヒーローにとって特別な意味を持つからである。
  始めからこの状況を想定して彼は行動していたのだ。
  夕方の活躍により夜の治安を悪化させる。夕暮れヒーローはそのどさくさに紛れて悪事を働くという算段を立てていたというわけである。
  泥棒に詐欺、銀行強盗に痴漢行為。
  夕暮れヒーローは夜グレる。


凶悪事件

   
   世界が寝静まる深い夜。
  厳粛な雰囲気の中、その会議は始まった。
  「では、さっそく会議を始めたいと思う。それぞれ簡潔に被害の状況とその考察を述べてもらいたい」
  皆の注目を受けながら議長が全体に向けて発言すると、それを受けて諜報部員が順番に説明し始めた。
  「被害者の数は、世界的規模で現在も増加中です。余りにも類似した事件が多発するので、正確にその数が把握できていないのが現状です」
  「被害者は女性に限られています。非力な女性を狙った犯行は許しがたいものであり、早急な解決が求められます」
  「これらの事件には不可解な共通点があります。被害に遭った女性の多くは、外食中に油断している隙を突かれて襲われているようです。今後、この情報を全世界に公開した上で対策を講じるべきです」
  「多くの場合、被害状況は凄惨極まるもので、身元の確認すらままならないような身体の損傷具合です。しかしその状況下で、被害者本人のものとは異なる血痕が発見されることも多々あるため、事件解決の糸口となる可能性は大いにあります」
  他にも次々と新たな情報が飛び交い、最後の情報が発表された時には会議終了予定時刻をとうに過ぎていた。
  「皆、困難な状況の中、情報収集ご苦労だった。情報の共有を目的とした今回の会議はこれにて解散とする。この凶悪事件の早期解決に向けて、これからもよろしく頼む」
  議長による締めの言葉の後、会議に出席していた蚊たちはそれぞれ独特の羽音を立てながら夜の闇へ飛び去って行った。


寿命測定機

   
  とある研究室。
  2人の男が散らかったその部屋で話をしていた。
  「あんたのくだらない発明にわざわざ研究費を出す変わりものは俺ぐらいのもんだろうな。そうだろう?」
   高飛車な態度をとりながらそう言ったのは、この街でも屈指の資産家であった。ぶくぶくと太った体を覆う服は、上から下まで高級なもので揃えてある。
  「はい、まったくもってその通りです。しかし今回完成した機械は今までの発明品とは一線を画したすばらしいものになったと自負しております」
  手を擦り合わせながら資産家とは正反対の低姿勢でそう言ったのは、超が付くほど貧乏な発明博士であった。痩せた体にぴっちりと着込んだ白衣はボロボロに黄ばんでいる。
  「今までの研究の借金が腐るほどあるんだから、それぐらいの物は作ってもらわないと困るというものだ。また下らん物だったら、ただじゃおかんぞ」
  「大丈夫です。こちらへ来てください。これがその機械です」
   博士が指さした先には机があり、その上に首輪のようなものが置いてあった。
  それを手に取り博士は少し興奮気味に説明を始めた。
  「人間いつかは例外なく死んでしまうもの。一回限りのその人生があとどれほど残っているか。これが気にならない人はいないでしょう。この機械はなんと人間の残りの寿命を測定することができるという世紀の大発明なのです! これで今までの借金は間違いなくチャラになることでしょう」
  「それはすごい! 本当にそんなことをこの機械で知ることができるのなら、確かにこれは革命的な発明と言えるな。どれ、まずは俺が試しにそれを使ってみよう。まだ半信半疑だが、興味はある。もし寿命を知れるなら、今後の人生設計を考えやすくなるだろう」
  資産家はそう言いながら博士からその機械を受け取った。
  「使い方は単純明快。形状としては普通の首輪と変わりませんので、そのまま首に付けてください。そしてこの機械の前の方に付いているボタンを押すと、そのとなりにある小さな液晶パネルに寿命が表示される仕組みとなっています。近くに複数人いると機械が対象を誤る可能性がありますので、私は少し離れたところに立っていますね」
  博士は資産家から数歩離れながら言った。
  「よし、わかった。このスイッチだな。それじゃあさっそく押してみるぞ」
  資産家が太い指でそのボタンを押すと、すぐさま液晶パネルに結果が表示された。
  "あなたの寿命は残り3秒です"
  それを見た資産家が博士にこの事態について何か言及しようと口を開くか否かというところで、その寿命測定機は渇いた音を立てて爆発した。
  博士は宣言通り、機械に寿命を正確に割り出させ、借金をチャラにすることに成功したのである。

良い商売

   
  本業の儲けが伸び悩む中、私は副業として個人経営の予備校を設立した。
  世間的には予備校と一口に言っても、何に対する"予備"であるかは多種多様だ。大学受験や資格獲得へ向けての予備校に始まり、最近は就職予備校なんてのもあるらしい。
  しかし私が創設した予備校はそういった中でもかなり異質なものであろう。なぜなら、一般的な予備校は成功を目指す者たちが通うものであるが、私の予備校は失敗してしまった者たちが通うものであるからだ。
  とどのつまり、私が経営する予備校の名前はずばり"自殺予備校"であり、その内容はその名の通りのものだ。裏ルートで自殺志願者を募り、人に迷惑をかけず、楽に逝け、なおかつ立派な死を遂げてもらおうと日々努力している次第である。
  さて、それではこの予備校の進行の概要を説明しよう。
  まずこの予備校へ入るにはある条件を満たしている必要がある。それは言うまでもなく本当に死にたいと思っているということである。入校してから、やっぱり思い直しました、なんて言われては困るのだ。この予備校の存在が公に出ては、経営の存続は当然のことながら、私の社会的立場さえ危うくなるのだから。
  入校から最期までは全部で1週間のスケジュールとなっている。
  入校してからは自殺に関する"マナー"と"実技"という2分野90分の講義を6日間受けてもらう。その内容については契約上、在校生だけが学べることになっているので、ここでは割愛させてもらおう。
  そして7日目に本番である。私みずから人気のない場所まで生徒を専用のバスで送る。後は6日間の講義を活かして個々の力で自殺をしてもらう。
  この予備校の全体的な流れはこんな感じだ。たったこれだけの内容ではあるが、入校者は日に日に増えていっている。
  我ながら良い商売を考えついてしまったものだ。高い授業料もこれから自殺する者たちにとっては関係のない話であるし、最後には死んでしまうのだからこの予備校に対する悪評なんて広まるわけもない。世の中は不況であるが、この予備校には関係がない。いやむしろ不況であればあるほど生徒は増えるばかりなのだ。
  さらに、この予備校を開設してからというもの、私の本業の方も潤ってきた。まさか亡くなった父から受け継いだ墓石店がこんなに繁盛するようになるとは。


お宝のありか

 
  海は空よりも青く、空は海よりも青い。
  そんな風景の中で一隻の海賊船が押し寄せる波に揺られていた。
  「船長! このまえ海軍と戦って奪い取った金庫に、お宝のありかが記された地図が入ってやした!」
  大勢いる下っ端乗組員の一人がくしゃくしゃの髪を振り乱しながら叫ぶ。
  その報告を受けた船長はたっぷりと蓄えた髭をぐわしと撫でながら、大きな口を開けて言う。
  「なんだと? でかした! がははは、こいつは運が良い。野郎ども! 景気付けに大砲をぶっ放せぇ! ちょうど前方に海軍がいやがる!」
  「うおー! 狙撃手部隊! 位置に付けぇ! 海軍の野郎どもをまた海の藻屑にしちまいな!」
  船長の言葉を受けて顔に大きな古傷を持つ幹部が叫んだ。
  指示通りに狙撃手の一団は定位置に付き、導火線に火をつけた。その直後、ずどんと胸に響くような砲撃音が広い空にこだまする。この大砲も先日海賊たちが海軍から強奪した最新式のものであったため、飛距離、威力ともに申し分なかった。
  「がははは! 命中したぞ! 誰も俺様を止められねぇ!  ……ん? どうも敵船の様子がおかしいな。砲撃されたってのに乗員全員喜んでやがるぞ?」
  船長は双眼鏡を覗きながら言った。
  その言葉に驚いた大勢の下っ端たちも同じように双眼鏡でその様子を目撃した。
  「何なんだ気味が悪りぃ。……まぁ良い。今はそれどころじゃねぇ。何せこっちにはお宝の地図があるんだからな! おい、その地図にはどこにお宝が眠っていると書いてあるんだ? どこかの島か? それとも海底か?」
  船長は気を取り直して先ほど報告をした下っ端に問いかける。
   その下っ端は海軍の船の方をじっと見つめながらぼそりと言った。
  「……いや、前に倒した海軍の奴らさっきぶっ放した大砲の中に宝箱を隠してやがったんでさぁ」


理性的な宇宙人

  
  宇宙船はある星の前で待機していた。地球である。
  船内では2体の宇宙人がモニターでその様子を観察しながら、今回の任務について話し合っていた。
  「この星の知的生命体のサンプルを3000匹程度採取せよ……指令書にはそう書いてあるが、さて、どうするかね相棒」
  「まぁ事は穏便に進めたいところだね。できればあまり周りとの接触がない地域から選ぼうよ。海に囲まれた小さい場所が理想かな」
  「なるほど確かにそうだな。……あと、数百年前の調査ではこの星で大量の奴隷の存在が確認されたらしいから、おそらく現在も残っているはずだ。そういう種類のものから選べば、さらに周りへの影響が少なくなるんじゃないか」
  「そうだねぇ。……あ、場所はここがちょうど条件に適うね。しかも面積に反してたくさんのサンプルがいるし、採り放題さ。お、狭い箱状の移動物体にぎゅうぎゅう詰めにされている集団がある。これはきっと奴隷だね」
  「よし、それじゃあその群れで決定だな。さっそく対象物を船内の檻の中にワープさせるぞ」
 檻の中にサンプルが収まったのを確認すると、宇宙人2人組は宇宙船を起動させ、自分たちの星へと帰って行った。
  昼時。
  日本のニュース番組で、朝の通勤ラッシュ時に乗っていたサラリーマンなどの乗客およそ3000名が忽然と姿を消したという事件が報道された。


そして私の頭上に浮かぶ輪っかは棒になった。

  
   ある朝。
  目が覚めると、私の頭上には"輪っか"が浮かんでいた。
  漫画などでよく見られるような天使の輪とは異なる様子である。天使の輪が地面に水平であるのに対して、これは垂直である。そして完全な円形ではなく若干縦方向へ楕円形になっている。
  まだ寝ぼけている私はその輪っかに触れてみようとしたが、手はそれをすり抜けて何の感触もない。触れられないものは仕方がないので、とりあえず顔を洗うことにした。
  しかし洗面所へ向かう途中に私は見た。
  母の頭上にもそれが浮かんでいるのを。
  当人はそれが見えていないようだ。嫌な予感がした。私は急いでUターンし、自室へ戻り窓を開け外を見た。嫌な予感は的中する。
  道行く人たちも頭上に輪っかを携えていたのだ。
  その上、それが無い人たちの頭上には"数字"が浮かんでいた。算用数字で表示されているそれらには様々な大きさの数値があった。見える範囲で上限30程度。そのように不可解な光景を見て私は気付いた。
  輪っかだと思っていたこれも実は数字なのではないか。つまり、これは"0"なのではないか。
  そうなると、一体この数字は何を意味するのだろう。
  32と表示されているのは小学生。周りにいる子たちは皆20前後だ。対して初老の会社員や老人は0。全体的に数字は年齢に反比例しているようだが、一概にそうとも言い切れない。私の頭上のそれが当てはまらないからだ。
  私はしばらく外を眺めながらいくつか仮説を立てた。
  まず始めに考えたのは、これが精神年齢を示しているという説。高ければ高いほど逆に数字は0という無の境地へ近づいてゆくのだ。そうであるならば、年齢を重ねた人たちが0であり、私も0であることに納得がいく、などと悦に入っていると、独りでトボトボと歩く幼稚園児の頭上にある0が目に入った。
  次の案はこれが運動量を表しているというもの。何の単位であるかは不明だが、この説ならば定年後の彼らにも当てはまり、受験生であり運動不足な私が0なのも頷ける。そう納得しかけたところに、運動とは無縁そうな細身の2人が談笑しながら現れた。その頭上には23という数字が。
  その後もいくつか可能性を探ってみたが、どの仮説も道行く人々に悉く否定された。
  もしかしたらこの数字には何の意味もないのかも知れない。そんな考えが脳裏を過った。しかし無意味な数字がある日突然頭上に現れるだろうか。やはり最初に思いついた仮説は正しく、単にあの幼稚園児が偶然お老成さんだったのではないか。いや良く考えると、この数字は今日突然に現れたのだから、今日起こった何かを示すのではないだろうか。
  様々な考えを巡らせていたその時、彼らは現れた。
  数字が100を超える、何とも幸せそうな老夫婦であった。
  彼らは歩調を合わせ、目を合わせ、――微笑み合っていた。微笑む度に数字は1つずつ増えていく。
  彼らを見た私は何だか温かい気分になり、つられて微笑んだ。大学受験を目前に控え、久しぶりに笑顔になった気がした。
  そして私の頭上に浮かぶ"0"は"1"になった。


健康第一

   
   私は金持ちだ。若い頃、馬車馬のように働いた甲斐があったというものだ。
  すでに定年退職をし、今は非常に健康的な暮らしを送っている。せっかくの財産も死んでしまっては使えないからな。
  毎日規則正しく8時間の睡眠をとり、朝起きて私が一番初めにすることは決まっている。幼い頃から心臓が弱い私は、発作を抑えるための錠剤を2錠ほど水で流しこむのだ。そしてその後に副作用を和らげる粉薬も同じように飲み込む。
  仕事を辞めて食生活が急に変わったからか、私はいま高血圧で悩んでいる。多少高い程度で健康には問題ないと医者に言われたが、一応念のためというやつだ。血圧を下げるカプセル状の薬を3つばかり飲み込む。これは水で飲む必要がないもので、非常に楽だ。
  私は自室へ向かい、背の高い棚の上段から青い薬を取り出した。これは咳止め薬である。長年タバコを吸ってきた弊害がノドに来たと言うわけだ。しかしこの薬があれば咳はぴたりと止まってくれる。
  予め汲んでおいた水でそれをさっと飲みほした後、さらにその棚の下段からシャックリ防止の薬を取り出し、2錠飲む。何故か昔からよくシャックリになるのでこの薬は私にとっては必須アイテムである。
  様々な種類の薬による相互作用で体調が悪くなっては困るので、それを防ぐための大きめな錠剤をぐいと残りの水であおる。
  台所へ向かう。
  私専用の薬箱を開けると中には3種類の薬が入っている。これらは非常に画期的な薬なのだ。
  1つは尿意と便意を抑える薬。体内で生成された不要物を細かく分解し、汗として無臭の状態で体外へ出してくれるのである。
  2つ目は空腹抑制剤。1日に必要な栄養素が全てこの1錠に含有されているのだ。いわゆる栄養剤である。
  最後の3つ目は身体を清潔に保つ薬だ。この薬は毛穴から、皮膚に付着したゴミや老廃物を分解してくれる微生物を排出してくれる優れものなのだ。
  新たに汲んだ水で以上3つの薬を摂取した後、私はリビングへ向かった。
  テーブルの上には薬がずらりと並べられている。
  耳鳴りを抑える薬に始まり、ささくれが出来ないようにする薬、爪と髪が伸びるのを防ぐ薬、デキモノを治す薬、貧乏ゆすりを止める薬など、列挙していけばキリがない程の量である。
  テーブルの下にダンボールが5箱ほどあり、それらの中には同じように非常に効き目のある薬がぎっしりと詰まっている。
  すべての薬を飲むのに16時間程度かかってしまうが、なぁに、薬を飲むことで毎日すべき大抵の事は間に合ってしまうのだから問題はない。
  健康第一だからな。背に腹は代えられないというじゃあないか。おっと、背と腹と言えば、その両面のかゆみを事前に抑えてくれる薬が確かこのダンボールに……。


   
  青年は浜を歩いていた。
  よく晴れた日、打ち寄せる波を避けながら特にあてもなく進んでいた。
  すると前の方から青年と同じ位の年の男が、何かから逃げるように走ってくるのが見えた。すれ違う瞬間に、強張った表情で男は何かをつぶやいたが、青年には聞き取れなかった。
  青年は男の行動を疑問に思いながらさらに歩いていると、3、4人の子供が見えた。枝や石で亀を殴っているとわかると、青年はすぐに止めに入った。大声で怒鳴ると、子供たちは逃げていった。
  亀は青年に近寄って来ると、助けてくれた礼に、良い所へ連れて行ってくれると言った。
 海の中は思ったよりも息苦しい。亀は自分を何処へ連れて行く気なのだろうか。もうすぐだ、と亀は言う。しかしもう息がもたない。苦しさのあまり、亀の背を叩いたが、反応はない。青年はそのまま気を失った。
  青年は気が付くと砂浜へ戻って仰向けに倒れていた。何故か起き上がることができない。必死に立とうとしていると、先程の子供たちの声がした。すぐに取り囲まれ、枝や石で殴られた。
  「この亀、騙しやがったな!」
  子供たちの内の1人が言った。どうやら自分は亀になってしまっているらしいことを青年は悟った。
  それを疑問に思う間もなく子供たちとは別の声がした。青年より少し年上の男だった。男は子供たちを追い払い、青年を助けた。
  何かお礼をしようと考えると、すぐにあの亀が言っていた"良い所"のことを思い出した。
  男を背に乗せて海へ入ってしばらくすると、男が突然もがきだした。甲羅をガンガンと叩いてくる。その衝撃でいつの間にかに青年は気絶していた。
  気が付くと青年は砂浜へ戻って立っていた。
  目の前にはあの亀がいる。怒りが自然と沸いてくる。この亀のせいで訳のわからない目にあっているのだから。
  「何が良い所へ連れていく、だ! 騙しやがったな!」
  そう言って枝で亀を殴りつけているとすぐに別の男がやって来た。
  「ガキ共! 何をしているんだ!」
  その男は怒鳴った。
  青年は、今度は子供になっていたのだ。そう言われてみると背がいつもよりずいぶん低いような気がした。大人には勝てないと思い、青年はその場から逃げ出した。しかしその途中で何かにつまずき、頭を打ち気絶してしまった。
  気が付くと元の青年に戻っていた。海に自分の姿が映し出されていたためすぐにわかった。前方には亀をいじめている子供たち。青年は怖くなり逃げ出した。
  走って逃げていると、向こうから男が歩いてくる。青年はつぶやいた。
  「お前もか」


   
  夏休み。
  彼は妻と息子を連れて海水浴場に来た。
  幼い息子は妻と一緒に波打ち際で貝殻を拾っていることになった。一方で泳ぐことが得意な彼は、一人でぐんぐんと沖の方へ泳いでいった。
  そうしてしばらく泳いだ後、彼はあることに気が付いた。波に抗いながら浮いている彼の左脚がぐいぐいと何者かの手によって引っ張られているのである。水面は日光が乱反射しているため、肉眼でその元凶を突き止めることはできなかったが、彼にはその正体が何であるかが容易に推測できた。
  亡くなった彼の祖母が、海で水死した人は霊となり生きているものを海へ引きずり込もうとするのだと話していたのだ。つまりいま彼の脚を引っ張っているのはその霊だと予想できる。
  彼は若い頃にサッカーで鍛えた右脚でその手を何度も蹴った。祖母の話を前もって聞いていたおかげでパニックに陥らず冷静に対処できたためか、彼の左脚を掴んでいたその手はあっさりと離れた。
  彼はすぐさま浅瀬に戻り、妻と息子のもとへ急いだ。彼を迎えたのは顔を白くした妻であった。
  「あなた! 大変なの!」
  そう言った妻の声は震えていた。
  「どうした? ……ああ。俺がいつか話した海の幽霊の話を思い出したのか? 大丈夫。確かにそいつに俺は出くわしたが、この脚で返り討ちにしてやったんだよ」
  と、彼は自らの右脚を指さしながら笑って言った。
  妻は白くなっていた顔をさらに青白くさせて、彼が海へ泳ぎに行った直後、少し目を離した隙に息子がその後を追って海へ入って行ってしまったまま姿を見せないという経緯を話した。
  彼は自分の脚に残る小さい手の感触が明らかに死人のそれではないと気が付くのにそう時間はかからなかった。


復活しました。
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