しかし失礼な記述ではなかろうか。
 後世の自称仏教という言い方は。
 まさに大乗非仏説の極みである。
 ただ書いてあることはその通りで、つまり大乗非仏説と言っても真理は一緒であるということを考えても自称仏教という表現は不適当である。

 呉智英
 生がある以上必ず死はある。
 これが得心できないことが迷妄であり、この真理に目覚めることが覚りなのである。
 仏教の核はほぼこれに尽きている。
 しかし 釈迦の教えから遠く離れほとんど別物となった後世の自称仏教では魂(すなわち他でもないこの自我)は永遠であり、 さらには肉体さえも永遠であるかのように説く。
 そのほうが人間の願望(欲望)に合致していて喜ばれるからである。
 しかし 大きく変質してしまった後世の仏教にもこの釈迦の教えはたどれる。
 織田信長が好んだと伝えられる幸若舞の敦盛の一節にこうある。
 人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり。ひとたび生を受け滅せぬもののあるべきか。
 この人間は人の世という意味で下天は仮天とも書き、天界の下層その下天の1日は人の世の50年(800年とも言う)に当たる。
 それと比べれば人間界の寿命50年は夢か幻のように儚い。
 生を受けたからには死なないものがあるだろうか。

 果たして仏教は生死だけの宗教であろうか。
 そうではなかろう。
 慈悲や智慧があるから宗教といえるのである。
 生まれて死ぬことだけが仏教であればただの虚しさが残る。
 つまり虚無主義にすぎない 。