夕顔絵夢二郎の江戸ハブ日記

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カテゴリ: 仏教

チベットからの遺言
将口 泰浩
産経新聞出版
2008-09


 チベットというところは中国から侵略されたことになるのだろうか。
 それはともかく広義のチベット文化圏というのは 

 チベット文化圏は現在の行政区分中国のチベット自治区だけではなく,北はモンゴル,南はネパールとブータン,西はインド 北部 ラダック, 東は四川省までと広大だ。

とのこと。
 そのチベットにおける婚姻制度は

 「私の地方では僧でも皆家内を持っている。僧が家内を 持たれてこの世を楽しく過ごされると言うことはまことに利口なこと(略)」
 (略)
 「チベットでは大抵兄弟3人あっても5人あっても嫁さんは1人しかもらわん。 兄さんが嫁さんをもらってその他のものはその嫁さんと一緒にいてやはり夫婦の関係になっている」

で,女性が大切にされているということなのか,それとも血筋を大切にするということなのか,人口,少子高齢化との連関,などは一体どうなるのだろうか。
 一般的な数学では当然一夫多妻のほうが人口は増えることになるのではなかろうか。
 文化がそうなっているのだから,なんとも言えないが,一妻多夫では人は増えない。

怪奇事件の謎 (ムー・ノンフィックス)
小池壮彦
学研マーケティング
2014-07-08


 主眼が何なのかよくわからないが、とにかく不可思議なことを羅列している書である。
 まずあの酒鬼薔薇事件について、

小池壮彦

 科捜研の鑑定では少年Aの筆跡と同じとは認められなかった。
 しかし、警察は少年Aを任意で同行し、犯行声明文と筆跡が一致したと偽装して、少年Aを追い詰めた 経過がある。


と冤罪であったことを匂わせ、かと思うと、

 新しいお客さんがくることになっていたので、社員、アルバイトもエレベーターの前に並んで待っていた。
 やがて訪れたお客さんは、前日に婿が案内した 親子だった。

として、怪奇現象を紹介、そして、文化財については

 奈良県明日香村の高松塚古墳が発見以来、久々にマスコミを賑わせたのは 2004年6月のことである。
 明日香美人と呼ばれた壁画がカビの繁殖によって無残に劣化していた。
 類似の古墳でカビ対策に失敗したのは高松塚 だけである。
 (略)
 一部で囁かれたのは祟りの噂だった。

と祟りを匂わす。
 冤罪と霊的現象と祟りでは、並び立たないのではないか。
 少なくとも冤罪については、科学的に立証しなければならずまたしたからこそ少年エーが少年法、刑事訴訟法によりつまり、法的にしかるべく処理されたわけで、問題視することはできない。
 霊的現象については、多くの目撃者がいる以上、否定することはできない。
 高松塚古墳壁画の劣化は当時の文化庁職員の凡ミスである。
 これらをすべて一列に並べたのでおかしなことになっているのだが、その一つ一つを詳細に語ればまた別の読み物になったものと思われる。



 心は、坐禅により深まる。

竹村牧男

 自分の心が深くなればなるほど、ものの味わいも深く鑑賞できるようになっていく。
 それが、日本の、わび、さび、の世界だ。
 誰でもものの良さはそれなりに理解できるのですが、坐禅などをして心の統一を深めて行くと、わび、さび、の趣の受け止め方、味わい方も一段と深まっていく。

 心の深まりというのは、わび、さび、を理解する上で必要なものだということか。
 別に心を深めなくとも生きてはいける。
 それではせっかく人間に生まれてきたかいがないということではなかろうか。 
 その辺の機微を、本年の話題の映画、万引き家族、はうまくとらえていたなあ。
 心の深まり、と書いて、すぐに浮かんだのが、この作品の、安藤サクラ、さんだった。
 あの熱演、まさに、今の人たちの生き様、この人に心の深まりがあったなら、とふと思ったことだった。

仏教と気づき
ケネス 田中
武蔵野大学出版会
2016-08-05


 無自性、というのが私の本質だそうだ。
 学校に入った頃から個性を叩き込まれた私達はこの仏教の教えを素直に受け取ることができない。
 大反対、こんな虚無の宗教などクソ喰らえ、葬式だけで結構だ、となるのだろう。

 ケネス田中

 すべてのものはこのように多くの部品とかそれを作った人の手とか様々なご縁が寄り集まって和合してできているもの。
 「すべてのものに固定的で不変の実体などはない、つまり「無自性」である」ということになる。

 などという解説では到底多くの人の心を鷲掴みにすることはできない。
 相手は個性主義者ですよ、逆に、すべてのものに実体があり、それがつながってまた一つのものを作る、としたほうがわかりやすいのではないか。
 無自性、などという言葉を使うからわかりにくくなるのだ。
 この、無、の切り口は、別の方面から語ったほうがよろしい。

 



 著者は布施について

 ひろさちや

 満員の電車で老人や身障者に座席を譲るのも布施ですが、目の前に立っている人が自分より若い人であれば私達はなかなか席を譲れません。
 けれどもはじめから座らずに立っていれば誰かその席を必要とする人に座っていただけます。
 それが布施です。

と説明する。
 わかりやすいけれどもそれでいいのだろうか。
 最初から立っていたのでは布施にならないのではないのか。 
 たとえば乗客が1人しかいないとかの場合、立ち続けろというのだろうか。
 そのような議論をするより、まず電車に座ったら、隣の席に自分のものを置かないこと、それが、布施、だと心すべきだ。
 著者の言う電車の情景は大都会のものだろう。
 私の住む田舎の電車はボックス席で、1人で2人分使うのがほぼ常識化している。
 満員でもないのに立つ人が出るのはこのような理由による。
 したがって、田舎ではまず荷物で席を占領しないこと、これが、布施、だと思う。

祈りの延命十句観音経
横田南嶺
春秋社
2014-03-11



 私は毎日、妙法蓮華経観世音菩薩品第二十五のあとにこの延命十句観音経をあげている。

横田南嶺
 
 観世音と第一に呼びかけますのは観音様に救いを求めると同時に私達の本心である仏様の心を呼び戻すこと。

 なのだそうだ。
 つまり、第一声、観世音、というのはこんなにも重い言葉だったのだ。
 延命十句観音経のあとは、仏説聖不動経、般若理趣経百字の偈、般若心経をあげる。
 さてその観音様は

 浅草の観音様にお参りに行くのも観音様のお像を拝むのも我が身にある観世音菩薩にお目にかかるためである。

 ということで、私達の中にこそ仏様、観音様はいらっしゃるのだそうだ。
 至道無難禅師も

 人は家を造りて居す。
 仏は人の心にすむなり。

 と説いておられる。
 金言ですなあ。
 具体的には、

 できるできないが問題なのではなくて、なさずにいられないというこの小鳥の精神こそ仏教の心なのだと説かれました。

 なのだそうだ。
 小鳥は山火事に対し、その小さな体で消火活動に当たったのだが、小鳥の一吹き、一はばたきくらいでは当然山火事を消すことはできない。
 しかしその精神こそが仏心だとおっしゃる。

 私達は仏心と言う広い心の海に浮かぶ泡の如き存在である。
 生まれたからと言って仏心の大海は増えず、死んだからといって仏心の大海は減らず、私どもは皆仏心の一滴である。

 私達の中に住んでいたはずの仏心の中に私達はいる。
 大海の泡のように。

 世尊は…とお説きになりましたは、真理をありのままに見つめて無常の中で何が起こるかわからないと心していきましょう。
 楽しいことばかりではない。
 むしろ苦しみを耐えて生きることに幸せがある。
 我1人ではない。
 お互いに助け合ってわがままを通さずに譲り合っていきましょう。
 

 何が正しいか、どういう教えが正しいのか、皆目見当がつかないような話になってしまったが、仏心というものが存在するということ、仏心のままに生きるべきだということ、そういうのが仏教だということなのだと思う。




 幼いときから人の目を気にして生きている。
 だから精一杯生きることになる。
 もっと余裕をもったらどうなんだ。
 いい加減でいいじゃないか。
 真面目に生きるのも程々に。


枡野俊明
 
 「大地黄金」
と言う禅語は必死になって精一杯やっているとそこには自分の居場所ができることを言っています。
 すると仕事の結果もついてきて存在として輝き「あいつやるなあ!」となるのです。

 そもそも「あいつやるなあ!」なんて思われたいがために仕事をしているのかい、おい!
 俺のとは違うなあ。
 私は誰かに見られるための仕事などしたことがない。
 人におもねる仕事などまっぴらだ。
 「あいつやるなあ!」なんて思われたくもない。
 それが俺の仕事のやり方だ。




 精神だけを鍛えても体がついてこなかったら自己の改革には至らないということか。
 著者は

藤田一照
 
 ある番組でプロレスラーがアフリカの貧しい村でボランティアを行う放送をしていました。
 彼は現地の子供が水を長距離に渡って運ぶのを手伝うつもりだったのです。
 ところがプロレスラーのほうが先に疲れ果てて女の子が途中から荷を代わりにもってあげていました。
 (略)
 トレーニングは足腰ではなく外面上の体を鍛えることにしかなっていないからです。

などとして外面上のトレーニングを戒めている。
 けれども件のプロレスラーもまさかアフリカで水運びをしようとは思っていなかったろうから、著者が言うような批判は当たっていないと思う。
 むしろアフリカでボランティアをしようとしたその心意気を仏教者としては褒め称えることではないのか。
 どうも私とこの著者はポイントがずれているような気がしてならない。




 仏教は奥深い。
 仏教徒の私はなんとかして僧侶になりたいと思っている。
 菩提は、新義真言宗、羽州米沢の、般若山延徳寺。
 しかし、真宗も勉強しているし、今は道元禅師を中心に、禅、にも凝っている。
 さて、なんまいだ、と、南無阿弥陀仏、の違いは一体何なのかという問題ですなあ。 

岩井貴生
  
 吉右衛門が帰ろうとしたその時、仙僂蓮屬い、吉」と呼び止めました。 
 吉右衛門が「はい」と振り向きました。 
 仙僂蓮峙函△海譴、なんまいだ、だ」と述べ、続けてすぐに「おい、吉右衛門」と再び呼びました。 
 吉右衛門が「はい」と再度返事すると「吉右衛門、これが、南無阿弥陀仏、じゃよ」と仙僂賄えました。

というこってす。
 一つ一つ丁寧に省略せずきちんと答えています。
 これが仏教の真髄ですよね。



 道元禅の真髄は、正法眼蔵、にあることを著者は強調する。

森本和夫

 「正法眼蔵」を読む事以外に道元に直結する道はどこにもない。
 修行への道は書物以外にあるとしてもそのためには入門書のごときが用をなさないことは言うまでもない。
 また道元の真髄が只管打坐としても少なくともそのような道元禅について確信を得ることは、正法眼蔵、を読むことを通じてしか行われない。

ということだ。
 つまり、とにかく、正法眼蔵、を読め、というのが結論では、どうも合点がいかぬ。
 結論は先送りして、まず坐禅の実践から始めるというのはどうか。
 ということで私はまず坐禅を毎日実践している。
 何も得られぬということはなく、坐禅こそ心をpureにするものと感じることができるようになった。
 坐禅をしてるから目に見えぬ耳に聞こえぬものを感じるようになれたと思っている。
 靖国神社、西本願寺、姪の結婚式で感じたpureななにかをである。

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