夕顔絵夢二郎の江戸ハブ日記

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カテゴリ: 出向から帰還の記

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脳内リセット!笑って泣いて健康術 (平凡社新書 383)
著者:吉野 槙一

 精神的な疲労はもとより、肉体的な疲労が取れない。
 21日、少し飲みすぎたら、22日朝、ゲーゲーと吐いた。
 その疲れが今日に来ているのだろうか。
 しかも今日は、ブルーマンデーである。
 考えるところは、多いが、そんなものは、屁の役にも立たない。
 こんなはずじゃなかったと思っている大脳が悩ましい。
 わかりやすく言うと以前書いたように、野球で言うと、「タイミング」なのだ。
 脳が騙されているのか、脳が騙しているのかは、良くわからないが、結果、「こんなはずじゃなかった」となって、苦しんでいるという理屈だ。
 だから、脳をリセットしなければならない。
 吉野
槙一という人の「脳内リセット」によれば、笑い、泣くことでリセットされるという。
 さらには、全身麻酔によっても可能だという。
 ならば、脳をクリアにすることに関し、たとえば座禅のごとく、明鏡止水の精神状態であるといえよう。
 あるいは、大きな感動が脳をリセットすると言うことである。
 そしてもうひとつの方法が睡眠なのだそうだ。
 今朝起きたときの感想、それは、「もっと寝ていたかった」というもの。
 あるいは、「起きることなくずっと寝ていられたら」ということ・・・・そしたら、それは、「死」を表すということではなかろうか。
 いずれにしろ、笑、泣、眠ということが脳内リセットには、欠かせないということ。
 そこから進んで、脳内リセットをしないことには、人生が円滑に進まないということ。
 しかし、中高年になると、それが難しくなるということ。
 ゆえに、中高年に鬱病が多いということ。
 だから元に戻ってもう1度脳内リセットをしなければならぬということだ。
 それが自己を鬱病ないし自律神経失調症から救う道であろう。
 世尊は、たゆまぬ努力=不放逸ということを強調する。
 正に不放逸の歩みがあって、本日脳内リセットまで到着した。
 私が出向帰還記は、本日をもって一旦閉じたい。
 
 長い間、お付き合いいただきありがとうございました。 


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 イメージすると、水のような綿飴のような透明な無限大のものが「生命」としてあって、私たちは、その一部がまるでちぎれてひとつの水玉みたいになっている。
 生物としての私が寿命となったとき、生命は、元の大木に戻っていく。
 だから「生命」というものは、永遠のものなのだ。
 その「生命体」を人間は、直感的に「神」とか「佛」と読んでいるのではなかろうか。
 これは、あくまでもイメージの世界であり、実際は、虚空同体なのだろう。
 目には見えない。音には聞こえない。
 しかし、現に存在するものであろう。
 自我の意思とは別に自然に生ききっている動きを見ると、そこに「生命体のはたらき」を見ることができる。
 その辺の消息をとらえて、たとえば、「観音」ですな、「音を観る」、なによりも禅的な表現だが、生命体の一面を表現したもののようにも思う。
 そうすると、亡くなった祖父も父もその生命体に取り込まれて今も存在しているということになろう。

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梅原猛の『歎異抄』入門
著者:梅原猛

 仏教には、さまざまな宗派がある。
 私は、このさまざまな宗派について勉強した。
 私の家の菩提は、新義真言宗である。
 しかし、私は、真言宗のほか、曹洞宗も浄土宗も浄土真宗も日蓮宗も勉強した。
 これらは、日本に花開いた日本独特の仏教であり、遠くインドに起こった原始仏教とは、違うものになっているという意見もある。
 しかし、少なくとも世尊の教えが入り、達磨であり、それを信ずる者たち、すなわち僧伽が今日まで語り継いだものに違いないのだから、紛いもなく仏教なのだ。
 さて、そのような中、本日ふと心に痞えたもの、それは、「歎異抄」の中にあった情景だ。
 阿弥陀を信じて称名する。そうすると浄土に救っていただける。
 が、実を言えば、この私は、まだ、浄土に行きたいという気持ちになれない。まだ、この世に未練がある。
 そこで、親鸞聖人がこうおっしゃる。
 「唯円よおまえもか。実は、私もなのだよ。」と。
 豁然大悟して、この自分というものはない。縁というものが結び合ってできた幻に過ぎないなどとわかってもだ。
 しかしながら、私たちは、まだ娑婆に対する未練を捨てきることは、できない。
 そのことを親鸞聖人は、業と規定するわけだ。
 そしてそれゆえ悪人であり、悪人であるがゆえに悪人を救うべくいらっしゃる阿弥陀仏の対象になるのだからなんら差し支えのないことなのだと仰るのだ。
 ま、娑婆に未練を持つものも、縁で結ばれた幻だ。
 ゆえに当然業でありカルマだもの、これは、浄土に行きたいなどと思わんわいな。
 思えないものこそ業の当体。
 自我というものであり、永きに渡り排斥しなければならないものなのである。
 とすると、阿弥陀佛に救い取られるべきは一体何のか。私の思索はかなり深いものになってきた。歎異抄をもう一度読まねばならぬ。

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 私は、毎朝、真言宗の勤行をしている。
 今朝ふと思ったこと。
 毎朝毎朝不動経を唱え、印を結び、真言を唱え、心に不動明王を投影している。
 そうであれば心の苦しみなど、たちどころに雲散霧消するのでは、なかろうか。
 不動明王は、大日如来の化身であり、人々の奴僕のため、黒緑色をしている。
 完全に悟っているため、金剛石に座している。
 背の火焔により、無明を完全に焼ききっている。
 他人の貪、瞋、痴を右手の剣で切り、左手の縄で自分の教えから離れようとするものを巻いて放さない。
 印を結び、真言を唱え、姿を心に思い浮かべる。
 これが解決策だ。

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 先週のような症状(疲労感)はないが、歯が欠けたりして気分がすぐれない。何事にも腹を立てているような状況なのだが、誰にも当たりようがなく不満が鬱積したマグマになっている。いつふきだすかわからない。
 が、今感じていること。時間のめぐりが早いなあということ。それに不安、たとえば、この仕事できるかなあなどと思っていることも近い将来はすぐにやって来て、でkきようができまいがおわっているのだ。
 こういう時に対する感じ方は初めての経験だ。
 だから、私の心の中では、もう雪が降っている。冬になって、間もなく来年の人事異動期だ。
 若いときとちがうのは、やみくもにはしれないこと。
 それと少しは、がまん強くなったこと。
 結局粛々としてゆくよりほかないだろう。
 集中して、できるだけ短時間に仕事を仕上げること。
 仕上げることだから仕事。 
 だらだらしないこと。
 節度ある仕事!!!

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 午後出張の仕事が入る。
 約4時間ずっと運転していた。
 運転をしながらふと閃いた。
 もし瞬間移動というものが可能になったら、そのとき人は、最小の原子だか分子だかのレベルに分解することになるだろ。
 そしたらそのとき電源がoffになるじゃない。
 ということは、そのとき人の死というものが訪れ、再度電源をonにしても、同じ人にならないんじゃないか。
 つまりだ、大脳は、一生懸命、記憶や記録を頼りに増幅して行ってるんじゃないのか。
 生まれたときから、その繰り返しじゃないのか。
 だから生まれたときの記憶などあるわけないじゃない。大脳が紡いでいった記録、それがいつしか自己になっている。
 大脳が自己を意識した瞬間だ。
 人は、誰でもこのようなプロセスを経ているのではないのか。
 私という大脳は、この総合的な私というものの歴史の中で増幅してきたのだ。
 しかし、この意識は、自己が紡いだ記憶あるいは記録の塊。瓦礫のようなものだ。仏教は、ここをとらえて「空」というのだろうな。
 自己とか自我というのは、なるほど実体のないものなのだ。
 それに執らえられて、人は、悩み苦しんでいる。
 精神とか心というのは、こうしてみると、大脳のことなのだろうか。
 大脳が紡ぎだすこの世界。それを幻というとすると、私という者は、その幻に苦しめられているということになる。
 自然は、その進化のプロセスで人という厄介なものを作り上げたのだ。
 が、人は、その大脳の作り上げた幻の世界が空であるという判断もできる。
 そのことを「悟」というんだろう。
 そも自然には、自我などないのだ。
 出発点は、正にそこのところなのだよ。
 幻を作り、幻を見ていた人は、死をもって自然に還る。その間の生は、大自然の流転のほんの一頁にしか過ぎないのだ。

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 鬱か自律神経失調症かわからぬが、今の職には、あと9年9ヵ月しかついていることができぬ。
 9年9ヵ月しがみつくか、その前に離れるかはわからぬが、その後のビジョンを明確にしておかないと、大変なことになる。
 一口に9年9ヶ月と言うが、今から戻ること平成9年10月それこそ、大きな事業を成し遂げたあたりだ。本当にあっという間のことである。
 つまり、定年後のことについて、ビジョンをきちんと立てておかなければならない。
 まずしたいもの100リスト。
 このことは、かなり先延ばししてきたことだ。 
 最終的にどのような結論に落ち着くかは、まだまだ明確でない。
 しかし、私は、この先のビジョンを明らかにすることが最大課題と考える。
 そうしないと、十分な老後の生活ができないことになるだろう。
 この面でも焦りの気持ちになってしまうな。
 

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 遂に朝の疲労がピークに達し、一回起きたものの、出勤までの25分間横になった。
 これも重篤な症状である。
 結局精神的に背負い込むことで二進も三進も行かなくなっているのだろうな。
 そこでふと考えたこと。
 それは、私生活の充実ということ。
 徹底的に私生活の充実を図るという戦略から入ったらどうだろう。
 4月に出向先から戻ってから、どうしても私生活を犠牲にし過ぎてきた嫌いがある。
 その結果、生活のバランスがバラバラになってしまい、朝も起きることができず、ブログの更新も歯抜け、走れないし、読書量も低下、唯一ギター弾き語りだけは、欠かさぬ努力をしているという始末。
 逆転の発想というか、私生活の充実から再起を図るという方法こそ、今取り得る最善の策という気がするし、又、今一番楽な方法ではなかろうか。
 もう仕事のことなんかどうでもいい。
 自分を護ることを考えよう。
 

 そこで、この違和感は、一体何のかという問題をもう少し掘り下げてみる。
 比較しようと思っているのは、平成12年3月から平成14年3月までの間に経験した庶務の仕事である。
 現場を離れての庶務の仕事に対してとにかく本年4月に出向から元の職場に復帰するまでは、良く思っていなかった。
 つまり、あの時は、とてもつらい思いをした。
 しかし、この度は、その比でないというところに大きな問題がある。
 歴史を遡り、そして、順に今日まで戻るという作業が必要になるのではあるまいか。
 あの時の私の年齢は、43歳から45歳である。
 現場責任者からのギャップが大きすぎて、それが喉元につっかえるような感じだった。
 が、結局、2年という月日がそれを全て解決してしまった。
 最後、自分の希望をそのときのまま庶務にするか、それとももう一度現場復帰して一花咲かせるかと迷った末、上記年齢を考え、現場復帰を望んだ。
 その結果、希望どおり現場復帰を果たし、3年間1年に1度お祭り騒ぎのような素晴らしい実績を残して、出向したわけだ。
 この出向は、当初、それまで休む間もなく働いたことに対するご褒美と私なりに考えていたほどだ。
 つまり、ここのところまでは、想定内の出来事、むしろ、できすぎあるいは運がいいという感じだったのである。
 その上、出向先から戻った勤務先もまた希望どおりだったのだ。
 それなのに、なぜここでつまずいているのかわからない。
 順風満帆なのに。
 庶務の仕事をしていたとき迷い道ふらふらで参っていたが、なんとか完遂したというのに、なぜ今こんなに我慢ができないほどになっているのか。
 さらに、自覚症状のある自律神経失調症ないしうつ病。
 話は、少し飛ぶが、このような精神症例と言うのは、全くないわけではなく、たとえば、大学入学直後、五月病にかかってその後の人生が大きく変わったということもある。
 このような精神症例と言うのは、確かにかぜをひくがごとくいつでも現れる病のようだ。
 結局、このたびの違和感は、どこをどう見ても勤務の関係とか仕事の関係からは、見つけられないものであり、自律神経失調症ないしうつ病という精神症例のせいということになるのだろうか。
 だって、今まで書いたとおり、仕事上は、庶務の仕事を谷とすれば、順風満帆だもの。

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 なんか変だなという違和感が消えない。
 7年前にはなかったことだ。これは、一体どうしたことか。
 仕事がもう少しスムースに回っていたように思う。あるいは、裁量で適度に仕事をしていたように思う。
 ところが今は、全く思い通りに行かないのだ。これは、一体どうしたことだ。
 仕事の種類が違うということもあるのだろうか。
 この違和感に不調の秘密が隠されているような気もする。
 一体どこが今までと違うのか。
 正に違和感ですな。
 自分に合わないという直感、これは当たっていた。 
 ならば、その実態は、いったい何なのか。
 鵺的なものなのか。
 なんだか不思議な気分だ。確かに私は、“鬱”的であり、自律神経失調症的ではあるが、この違和感の実態を知らずにはいられない。

 

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