夕顔絵夢二郎の江戸ハブ日記

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カテゴリ: 読書



 とにかく読書に関する著述は多い。
 どなたも一家言持っている。
 読書の主義主張はそれぞれ。
 流派みたいなものだ。
 著者は全部読むな派とでもいうのかな。 

齋藤孝
 
 一方一般的な本の場合、むしろ読み通そうと考えないほうがいい。
 その本から自分の知りたい知識だけを引き出した時点で「読了」とみなしていいのです。
 全体のうち2〜3割でも読めば十分である。

 これで一つの速読の完了。
 喫茶店に駆け込み30分で読むことなども主張している。

 意図的に時間のない状態を作ればいい。
 本を買ったら喫茶店に入り「30分で読む」と決めてスマホのストップウォッチ機能を押す。
 そうすると必要なところだけを読もうという気持ちになるはずです。

 私の場合、特にこのような方法は必要としない。
 とにかく速読一筋。 
 わからなかったらそれまで、みたいなところもあるので。
 それに読む速度が早すぎて買っている暇がない。
 ひたすら図書館の本を読んでいる。
 図書館の本を付箋に抜き書きし、ブログにアップしている。



 著者は独りよがり本が多くて私はあまり好きではないのだが、

茂木健一郎

 勉強というものは机にかじりついて暗記をしたり計算をしたりすることのように世間では思われているが、僕自身ケンブリッジ大学に留学していたときに、勉強とは読むことだ、ということを悟りました。

というような彼の主張は正しいのではないか。
 つまり勉強とは、読む、こと。
 あえて、本を、と書いていないのが彼らしいが、そもそも、本の読み方、とした題名なので、勉強とは本を読むこと、と定義するのは、私も賛成だ。
 私のもう一つのブログ、楽天の、今日何読んだ、に歯の本6冊の書評を書き始めている。 
 これくらい読むと本当に勉強になる。
 特に、歯磨き法などは、いろいろなものがあり、本当に勉強になった。 
 そういう意味で、間違いなく、勉強とは、本を読むこと、である。




 かなり野蛮な速読法。

佐藤優
  
 準備するもの。
 本、シャープペン、ポストイット。
 横に時計を置き、1冊を超速読するのに5分以上かけない、と心に誓う。
 まず序文の最初1ページと目次を読みそれ以外はひたすらページをめくる。
 このとき文字を読まない。
 とにかくページ全体を読むのだ。

だそうだ。
 そもそも序文にはその本の要約が書かれており、目次にはエキスがもられている。
 ある意味著者の方法でその本の内容の大体が理解できることになる。
 その後ゆっくり読みたいところを読もうというわけだ。
 これにプラスしてあとがきも読めなどという人もいる。
 どうなんでしょうねえ、そういうの、速読というのかなあ。
 私は私なりのルールでとにかく読まなければ速読とは言わないとしているので、序文だろうが目次だろうがとにかく読み進めている。
 5分間超速読法、参考になればぜひ試してもらいたい。




 私は、このブログでは、書評の他、映画評論、水泳、絵手紙、仏教のことなどを書いている。
 そのうちの書評、読書後の感想について著者は、

白取春彦
  
 ある1冊の本を200人に読んでもらってその感想を書いてもらう。
 大多数の人はその本の内容についてずっと書き連ね、最後の数行だけ自分のささやかな感想を付け加える。
 残りの少数の人は自分の感想だけを書く。
 更に一握りの人、1人か2人くらいはその本の内容を批判したり、論のおかしさを指摘するだろう。

などと著しており、面白い。
 統計的なものは著者の勘で決して正しくあるまいが、確かに小学生の感想文はまず梗概を書き連ね、面白かったです、と結ぶだろう。
 それを読んだ教員は、感想文というのはあらすじを書くものではない、感想を書くものだ、と指導する。
 すると児童は素直に感想だけを書く。
 中学生になり、高校生になって、その本を論破するものが現れる。
 全く著者の書いているとおりのことになる。
 私は今学校回りの仕事をしている。
 教員の指導を垣間見ることがある。
 やはりその画一的な指導に懐疑的になる。
 今も感想文の指導は私の小学生時代から変わっていないのだろうか。
 読書論とともに考えなければならない過大なのかもしれない。
 
 



 この歳(齢62歳)になって図書館を利用し始めている。
 いや、図書館から本を借りていたが、図書館それ自体で本を読んだりメモしたり、つまり、知的生活ですなあ、あこがれの、をしているというわけだ。
 ところで図書館について、

前川恒夫

 宣言はあればそれでいいかと言うと残念ながら図書館にとって最も重要なこの原則を守らなかったと図書館、図書館員がいた。
 1970年(昭和45年)山口県立図書館で進歩的とみられる本をまとめて秘匿した図書館員がいた。
 この事が問題になり図書館の資料提供の自由を改めて、全図書館が確認したはずである。
 ところが2001年、船橋市立図書館で「新しい歴史教科書をつくる会」の関係者の著作著が廃棄基準に合致していないにも関わらずまとめて廃棄された。
などということがあったらしい。
 思想的に暴力的な人がしたことならともかく図書館に関わる人がしてはならないことをしたということでプロ失格、つまり、懲戒処分に等しい。
 などと言いつつ、これからの私は司書の資格を取れないものか。


 司書とは。
1 図書館は誰のために何をするところかについてわかっている。
2 世の中には様々な人がいることを知っていて人間に対して謙虚である。
  サヴィジが言うように人々を安心させ図書館を自分の居間のように感じ させることができる。
3 本が好きで本をよく読む。
  本に対しても謙虚である。
  その上で人々に資料について頼られ、気安く聞いてもらえ、信頼される応答ができる。
4  図書館の実務的な技術を修得している。

 私は、毎日図書館にいてもいい。



 今や電子本が幅を利かせる時代になってきた。
 著者は、書物の電子化について

津野海太郎

1 好むと好まざるとにかかわらず新旧の書物の網羅的な電子化が不可避的に進行している。
2 その過程で出版や読書や教育や研究や図書館の世界に伝統的な形の書物には望みようのなかった新しい力がもたらされる。
3 と同時にコンピューターによっては達成されないこと、つまり、電子化が全てではないと言うことが徐々に明確になる。
  その結果、紙と印刷の本の持つ力が再発見される。
4 こうして紙と印刷の本と電子の本との危機をはらんだ共存の仕組みが私達の生活習慣のうちにゆっくりもたらされることになるだろう。

と予想している。
 このところ図書館の読書(学?)、ラベル019の棚には電子本のことが書かれた紙印刷の本が目白押しだ。
 この本もその一冊である。
 私は電子本を否定するものではない。
 また、紙の本を礼賛するものでもない。
 そもそも本が読めないとき、つまり、本が買えない、本を借りられない、事態が生じたとき、電子本を読みあさり、それをカウントしていたほどだから。
 その反面、auの新契約に当たり、お試し、で、つけてもらったauブックは結局契約せずときたもんだ。
 ソフト数が少ないんじゃないかなと思った。
 そもそも雑誌は読書とは言わないというのが私のポリシーでもあるし。
 だが、多くの現役読書子は電子本を認めている。
 書き込みできない、アンダーラインを引けないなどと言いながら重宝していることを書いたりしている。
 まあ、戦場の兵士たちについて著者は心配しているようだが、

 そこで考えるんですが、もし仮に紙と印刷の本がなくなってしまうとしたら、21世紀の兵士たちは一体どうやって本を読むんでしょうね。
 そんなことを言うと、「とぼけたことを言うなよ。今や究極のポータブル本とも言うべき本があるじゃないか」

 ということで、本とは電子本のこと。
 紙印刷の本は有形文化財と言われてしまうのかもね。



 速読とは知識の蓄えである。

宇都出雅巳
  
 偉そうなことを言っていますが、私自身も、本を速く読めるようになりたい、と速読技術を追い求めてきました。
 しかし、学生時代から速読教室に通い始めたものの、思ったように速読できるようになりませんでした。
 渡り歩いた速読教室・講座の数は10以上。
 費やしたお金は200万円を超えます。
 その結果確かに速読技術も身に付き、本を速く読めるようになりました。
 そして、つい最近まで自分が速読できるようになったのは速読講座で学んだ結果だと思っていたのです。
 しかし、よくよく振り返ってみて、それはほんの一部だと気づきました。
 速読技術を身につけたことよりも速読技術を使いながらたくさんの本を読んで知識量や読書経験を増やしストックを蓄えたことで速読できるようになっていったのです。
 
 経験上私もそう思う。
 そして、確かに速読ができるようになったからと言ってそれが一体何なんだというのも事実だ。
 今や山ほどの読んだ本があって、処理しきれない状態になっているのだ。
 つまり、インプットはするが、アウトプットしきれない状態なのだ。
 今の私の読書の状態は、本を速読し、それを抜き書きして、それをもとに自分の文章を組み立てブログにアップするというもの。
 ブログはこのブログの他、楽天ブログである。
 楽天の方は完全に書評ブログに特化している。
 著者のように200万円もの多額の費用をかけずに速読技術を身につけることができたが、今度は速書の方法が必要となってきた。
 書くことはなかなか難しい。

百歳までの読書術
津野 海太郎
本の雑誌社
2015-07-22






 路上読書とか著者は威張っているが、

津野海太郎
 誰でもそうだろうが、私の読書にもいつのまにか身に付いたスタイルのようなものがある。
 スタイルというより癖だな。
 トイレはもとより風呂に入るときも本を手放さないとかね。
 中で一番の癖が歩きながら本を読むこと。。」
 小学生の頃ランドセルを背負って、漫画少年か何かに、読みふけり深さ1mほどのコンクリートの側溝に落っこちた。
 通りすがりのおじさんが驚いて引っ張り上げてくれたっけ。
 でもこんな間抜けな失敗は今はもうしない。
 当然でしょう。
 何しろ現在の私は経験歴60年を優に超える路上読書の大ベテランなのだから。

 歩きスマホが注意されている今、これはいけません。
 それだけ本が好きだ、読書中毒者だということを言いたいんでしょうが。
 たしかに二宮尊徳などという方がいて、幼名金次郎のころ路上読書をしていたようですが。
 私の最近の読書は本屋さんだ。
 仕事がボランティアに変わり、時間が豊富になって勢い本屋さんに入ることが多くなった。
 図書館は、山形市立と米沢市立。
 県立のカードも持っているが、駐車場の利便性が悪い。
 なんか今改装中みたいだが。
 自分で本を買え、本くらい安いものはないなどとも言われているが、そもそも速読家の私にとって買っていたら、破産が目に見えている。
 本屋さん回りと図書館の利用は欠かせない。






 音読するということは本を読むということとはまた別の行為である。
 本の中身を情報として捉え自分のものにしてそれを料理してまたアウトプットすると言う行為とはまた別という意味である。
 音読には表現と言う芸術的要素がある。

 松丸春生

 子供は文字の存在に気付きます。
 そして覚えて使うようになります。
 めざましい発達が始まっていきます。
 人類が文明を持った時の再現かと思えるほどに。
 ところがそれと引き換えたかのように声や声の言葉のあれこれが質を変えていってしまうのです。
 子供はもう歌うようには喋らなくなります。
 対する大人も散文のような話し方に戻ってしまいます。
 本を読んでやる声も平板になっていきます。
 子供は心の中の詩を封じ込めるようになり驚きが減り声の強弱は増大しても声の振幅は減少してきます。
 大人は本を読んでやらなくなります、
 子供は文字で綴られた文章をしゃくるようなみょうちきりんな調子で声に出して読むようになります。 

 この著者の見解は黙読が平板であるということを反面教師としているようにも思えるが、逆に言えば音読というのはまた一つの芸術で演劇などにも匹敵する同じカテゴリーのものなのかもしれない。
 しかし昨今音読は その芸術性よりも音声入力という、最近の コンピューター工学の発展により 第2のカテゴリーを築きつつあるのではなかろうか。
 音読の意味が芸術性から道具というものにも変わりつつあるというのが昨今の状況である。
 本日も音声入力を実施している。
 音声入力と筆記の違いは、筆記は考えながら書けるが、音声入力では言葉が詰まることが時々あるのと、文章が全然繋がらないような、いわゆる、話し言葉のせいなのだろうけれども、だから結局最終的には 書き手が整えなければならない のである。

 著者:照井留美子
 世の中には様々な速読術がある。
 大体似たようなもんだ。
 ひどいのはトレーニングと称してほとんど人様の作品を載せているものがあった。
 言語道断だ。
 それはともかく本書は、勘の利用だね。
 薄勘でそこいいねと思ったら読むだけ速読術だ。
 わりかし多い視点移動は使わない。
 じっと視てなって感じだね。
 速読が必要なのは情報を素早く得て判断するためだ。
 自分に不必要な情報はいらない理屈だから薄勘で十分だってわけだ。

 

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