夕顔絵夢二郎の江戸ハブ日記

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カテゴリ: 俳句



 俳句は文学と言うよりは言葉遊びなんだろうな。

 述べないということはどういうことか。
 この句(秋風や模様の違う皿二つ 原石鼎)は述べない俳句の典型といえるでしょう。
 秋風が吹いている。
 模様の違う皿が二つある。
 作者はそれ以上述べていません。
 だからこそ読者はこの情景から自由に連想することができます。


 などと言って勝手に連想しろというのだ。
 別に模様の違う皿が二つあるからと言って一体何だというのだ。
 その言葉遊びの典型は季語があってそれを上五にしてあとの中七,下五で勝負するというもの。
 上記の句も上五が春風やだったら春の話になるというわけ。

 型その一は上五に季語を置いて,や,で切り, 中七,下五を一つの フレーズにして名詞で止めます。
 (略)
 これは最も基本的な形です。
 ◎ 蛍火や山のやうなる百姓屋  富安風生
 ◎ 冬ばらや賞与劣りし一詩人 草間昭彦


 要するに十七音と言いながらこの言葉遊びは明らかに十二音が勝負だということだ。
 なんと難しい遊びだろうか。

酒場詩人・吉田類の旅と酒場俳句
吉田 類
KADOKAWA/角川マガジンズ
2014-02-14


 まずは健康飲みの秘訣。
 健康飲みの秘訣
 飲めば歩く。
 文豪井伏鱒二は酒豪として有名で朝に至っても紳士然として飲み続けたと言う。
 (略)
 夜風を受けながら歩けば循環系の機能も高まったに違いない。
 文豪は酒も恋も95歳の長寿のうちに全うしたと思われる。
 どそうな。
 それからハイボールの由来。
 ハイボール。
 なんたってルーツはアメリカ大西部の鉄道駅だ。
 当時の旅人は喉が渇けば炭酸飲料水を飲んだ。
 その,炭酸水を売ってるぞ,という合図に小さなアドバルーン,気球を上げていた。
 つまり高く上がった(ハイ),バルーン(ボール),ハイボールってことだ。
  
 ってことだそうで…。
 それにしても著者は達者ですなあ。
 テレビの酒場放浪記を観ていると本当に美味しそうに酒を飲んでいる。
 酒を飲むのが仕事ですもんなあ。
 私にとって酒は報酬系であります。
 だからむやみやたらに飲むのではなく,その日の仕事が無事終わった報酬に適量飲む程のものなのです。
 報酬系として上手に操ることができればやはり酒は百薬の長と言うことになるでしょう。

夏井いつきの超カンタン!俳句塾
夏井 いつき
世界文化社
2016-07-20



 夏井流の句作はまず俳句の種を作るということから始まる。
 季語を選ぶのはあとである。

 ここでなぜ季語から作らないのかということを考えてみます。
 季語を先に決めてしまうと初心者ほどその季語のイメージに引きずられてどうしても季語の状態を説明するような句になってしまうのですね。
 そうすると類想類句(似たり寄ったり)の句のオンパレードになりがちです。
 ですから自由に発想して選んだもらうためにも俳句の種を先に作ることをお勧めしているのです。


 そして夏井先生の言う自由な発想とはカメラ撮影なのである。

 これをカメラ(映像)のテクニックにたとえてみましょう。
 ズームインしてボールペンの細部までとらえる。
 ズームアウトやパン(カメラを左右上下に動かす)してボールペンと机や部屋などの位置関係を示したり,周辺の様子を広範囲に映し出すという風になります。


 昔カメラを使っていたように周辺を見,俳句の種,を作る。
 これが夏井流である。

超辛口先生の赤ペン俳句教室
夏井 いつき
朝日出版社
2014-11-29



 高校時代私は文芸部に在籍し,それこそ発想自由な俳句を作り続けていた。
 そのことについて先生は何も言わなかった。
 今日記に毎日俳句を入れている。
 もう自由な発想などない。
 俳句の本を読めば読むほど難しくなるのだ。
 

 俳句を作るとは類想類句を避けオリジナリティーのある発想や言葉を見つけ出す言葉のパズルのような作業なのです。
 ※ 類想類句:イチョウの葉が貼りついている「黄色のじゅうたん」
        子供の小さな手を見ると「モミジのような手」


 などという言葉に勇気をもらい一生懸命句作に励んでいるのだが,そうそううまくはいかない。
 去年一年で,これは!なんて俳句は作れなかったように思う。
 それでも私は俳句を作り続ける。
 そして今

 基本型
1 まず,季語とは関係のない12音のフレーズを作る。
  私は,季語とは関係のない12音のフレーズを,俳句の種,と呼んでいる。
2 1,のフレーズにあった季語を探す。
3 12音のフレーズには季語に当たる言葉を入れない。
4 12音のフレーズが楽しそうならば楽しそうな季語を,悲しそうならば悲しそうな季語を選ぶ。


の基本型にのっとって一生懸命句作に励んでいるのだ。




 日記の冒頭に俳句を入れている。
 最初は自由闊達に作っており無邪気なものだったが、最近作れなくなった。
 特にこの本を読んでから切れ字にこだわり始め、句ができない。
 それにしても「切れ」とは

長谷川櫂

 羊羹を切ることによって羊羹に隙間が生まれ、この余白によって羊羹が食べやすくなった。
 これは余白によって羊羹が生かされたということ。

として、その余白に何を込めるのかということ。
 その前提にあるのが、「取り合わせ」で

 二つの異なるものを並べた句を「取り合わせ」という。
 (略)
 二つの無縁のものが俳句という一つの器の中に並べられると背きあうどころか互いに相手を引き立て合う。
 取り合わせとは無縁のものが共存し調和し合うこと。
 それをこの国では昔から「和」と呼んで尊んできました。

 この取り合わせの余白に何を込めるのかがとても難しくて句が作れない。
 「切れ」を際立たせるのが「切れ字」。
 これには順番があり、
 
 切れ字の強弱の順番。
1 けり
2 かな
3 や
 二つ入れていいのは「けり」と「や」だけです。

とされている。




 たった17字に包まれた宇宙。
 読む方の空想力も試される。


宮坂静生
 ねむい子にそとはかはづのなく月夜 長谷川素逝
 ちゃぶ台を囲む夕飯風景。
 ダイニングキッチンに据えられた真っ白なテーブルとおしゃれな椅子ではない、畳におつくべ(正座)をする。
 すると子供はもう眠い。
 こっくりこっくりとやりだす。
 家の際まで水が張られ、早苗が植えられている。
 田んぼでは一斉にカエルが鳴く。
 折からお月夜。
 塾もお稽古事もない。
 ましてや就学前の幼子はお日様にまみれて遊ぶのがすべて。
 カエルの声は心地よく子供の眠気を誘うドーパミンだ。

 上記のような光景は私にも経験がある。
 そんな時代もあったということだ。
 でも今の時代では考えられない情景だ。
 この句を読んだとき何を想像することができるのだろうか。
 私はその経験を思い出す。
 言葉の恐ろしさだなあ。
 たった17字で絵画に匹敵する深い世界を味あわせてくれる。
 俳句侮り難し。

遠い句近い句―わが愛句鑑賞
金子 兜太
富士見書房
1993-04



 思えば金子先生とは短いお付き合いだった。
 毎日一句などというのを始めたのはつい最近。
 平成25年ころから4日に一句日記に認めていたが、毎日一句になったのはこのごろのこと。
 そして俳句の本を読み漁るようになり、金子先生の本も読むようになったというわけ。
 その人となりもわからぬうちに金子先生は逝ってしまわれた。
 
金子兜太

 春の海まっすぐ行けば見えるはず 大牧広
 俳壇年鑑1990年版掲載。
 何と言っても俳句は短歌同様に叙情詩だと思い定めている。
 それが基本であって、問題は抒情の形姿にある。
 情感に大きく傾きリリカルにリリカルにと叙情する形姿を私は叙情という字で表すことにしているが、それとは対照的に情懐に意思を加えさらには客観化して物によりあるいは映像によって暗示する所にまで至ることも多い 。
 景としての叙情という言い方に私は親近感を抱いている。

 このような奥深い見解は先生だからこそ表現できることだと思う。
 ご冥福を祈る。
 合掌。




 俳句の堅苦しさは尋常なものではない。
 まるで定型があるが如きだ。
 私なんか575と季語があればいいとしか思っていなかったから。 

鷹羽狩行

 俳句は芭蕉の昔から師匠と弟子の共同作業、作る人と選ぶ人の共同作業によって生まれていると思います。
 句会では芭蕉も句を出しそこに出席した弟子の意見を聞いて反省すべきところ直すべきところは推敲して直しています。
 他人によって直されるのが添削、自分で治すのが推敲です。
 私は誓子の添削によって俳句を学びました。
 はじめは添削を受ける。
 やがて今度はそれを自分でやるようになる。
 これが推敲です。

 添削と推敲があって 成り立つ文学でもあるらしい。
 自由詩とは1線を画す。
 それでいいのかなというのが私の感想だ。

悪魔の俳句辞典
俳魔神の会
邑書林
1993-10



 わび・さびについて

俳魔神の会

わび・さび

 俳句の中七、下五を「根岸の里の侘び住居」とすればわびの境地が表現され、また、「いずこも寂し秋の暮」とすればさびの境地になる。
 後はすべてバリエーションの問題に過ぎない。

という記事があったので抜書した。
 それでもその意味はピンとこない。
 ここで言えるのは、わびは、心境、さびは、感じた点 とでも言うのか。
 マクロとミクロの問題のようだ。 




 俳句について、定型性にこだわる人がいる。
 反面自由さを追及する人もいる。
 著者は定型性を重んじる人だ。
 特にリズム感について一家言持っている。すなわち 

藤田湘子

 そこで私は12音で考えよう というわけです。
 5音7音5音と分けて考えると意味もブツブツ切れてしまうし、リズムなど論外という句になること前述の通りですが、 上掲四句のように17音を 12+5音、または5音+12という風に割り切って考え、とにかく 12音の言葉のつながりを求めることに徹するのです。

とおっしゃる。
 俳句は12音と5音の組み合わせというわけだ。
 句作はまずこの定型性をにこだわるべきだ。
 こだわるあまり変な句も数々できるが、それはそれでいいじゃないか。
 明日への序章である。 

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