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ひきこもりと不登校―こころの井戸を掘るとき
著者:
関口

  教育の側から言えば、学校に来ないのだから不登校と呼ぶのだろうが、普通に考えたら、登校拒否と言うべきだろう。この辺の教育側の考えがおかしい。

 本書は、学校側が不登校にあまりにも関わりすぎていることに警鐘を鳴らしている。構い過ぎは却って危ない。

 学校に行きたくなくなる心理というのは、自然のものだから、それが自然に治るのを待つべきであって、変に構って、心理を曲げてしまうのが危ないという主張ではあるまいか。

 様々な要因が絡まって学校に行きたくなるのだが、いつかこれではいけないと思う日が来る。そのタイミングが重要だと著者は言っている。

 だから、私も、不登校に関しては、無理をする必要がないのではないかと思うのだが、ある教育界では、不登校を数値設定して、管理しようとしている。

 著者は、私と同年代だ。不登校或いは引きこもりであったが、24歳で一念発起、名古屋大学の医学部に入り、卒業して医師になったものである。

 24歳と言えば、私は、第一線で働いていた。そのころは、もう、ひきこもりなどと言う柔な根性でいることはできなかった。そういう時代が必ず来ると言うことを考えれば、多くの人間は、うまくいくのではあるまいか。

 実を言うと、私も大学時代は、引きこもりになり、大学不登校という感じだった。

 が、いつの間にか、治って、そして、社会の荒波に揉まれている内、自然に生きていくことができるようになったというわけだ。

 しかしながら、今の時代、小学校や中学校で不登校になった子どもを無理無理学校に来させてもろくなものにならないのではなかろうか。自然に見守ることが大事だろう。私は、著者の考えに賛成である。

 さて、その不登校或いは引きこもりであるが、時代に即して起きていると著者は考える。70年代、80年代、90年代という時代をバックにそれなりの理由で不登校、引きこもりは起きていると分析しているがこのような論をなぜ教育界では、活かさないのだろうか。どうも、教育界は、間違っているような気がする。