オレと雑誌とときどき初音ミク

メディア論とか語っちゃおうかな、もうアレだし

ドクター・コッペリウスのこと

冨田勲 追悼特別公演「ドクター・コッペリウス」の感想を書こうと思い始めてかれこれ1時間、自分でも驚くほど言葉が紡げないでいる。ドクター・コッペリウス第4楽章での胸締め付ける思いの理由を、第7楽章の途中から頬を濡らし始めた涙の理由を、ずっと考えている。

今はMacBook Airを持ち歩いているが、その前は15インチのMacBook Proを使っていた。その液晶裏面には冨田先生のサインが記されている。何年か前、ストリーミングの番組、DOMMUNEでご一緒したときに書いていただいたものだ。宝物であることは言うまでもない。そのとき、冨田先生と交わした言葉、ほんの二言三言だったけど、それを思い出しながらドクター・コッペリウスを聴いていた。あのサインをいただいたときに、喉まで出かかって聞けなかったひとつの質問を思い出した。

「先生にとって初音ミクはどんな存在なんですか?」

第4楽章「惑星イトカワにて」は、その答えであるように思えた。先生にまといついていた重力を解放をした存在。

第7楽章を終えて先生は旅立たれた。そのことの喪失感に襲われながら、それはとても幸せな旅立ちだったのだと確信した。永遠の存在であるミクと素敵なダンスをしながら、僕は十分楽しんだよ、と言っている気がした。別れの曲ーー自分にはそう思えた。

感想になりませんでした、すいません。



今回の公演に関わられたすべての皆様に心から感謝します。震えるほどの感動でした。

ドクター・コッペリウス



あのハロウィンと記憶の中のハロウィン

ハロウィンの思い出を話そう。17年前と16年前の話。投稿のタイミングじゃないけど


次男くんの通う幼稚園は、プロテスタントの牧師が経営している幼稚園だった。地域の中でもわりとユニークなところで、園児たちが喧嘩を始めても先生たちはあえて止めずに、子どもたちが折り合いをつけるのを見守る、みたいな。そんな徹底した放任主義の園だった。で、キリスト教系ということで(わが家は仏教徒だが)、クリスマスには必ずイエス誕生の劇を、園児たちだけでやったりする。女の子の園児たちにとっては、唯一のヒロイン、マリア様になれるかどうかという運命の日で、ライバルの靴の中に画鋲を仕込んだりとそれはそれは壮絶な争いが、というのはまったくなくて、毎年穏やかにメインキャストは決まっていく。ちなみに次男くんは東方の三賢人のひとり、台詞は「もうじき天使様がやって来ますよ!」の一言だけだったけどw


そのクリスマスより盛り上がるのが、ハロウィン。最近、渋谷や池袋とかでやってるのとは違って、園児たちが仮装しておやつをねだって歩くという、あ、こっちが普通のハロウィンだわ。で、その“仮装”を、当然、親が作ることになる。たいていの家ではお母さんが作ってくれるのだけど、ウチの奥さんは裁縫が苦手だということで、衣装作りは自分の仕事になった。ま、イヤじゃないんだけどねw


ハロウィンの2週間前、次男くんに「何になりたい?」と聞いたら、しばらくあって、「カメ!」との返事。えっ、カメ? 想定外のこたえに動揺するオレ。どうすればカメの衣装が作れるのか? うーん、うーん・・・


3日ほど悩んで、大きめの発泡スチロールをくりぬき、緑色に着色するのがよいのではと考え、東急ハンズに行って材料を買った。発泡スチロールをカメの甲羅状に加工し、緑のポスカラを塗る。乾かしてまた塗り、色を濃くしていく。何を思ったか、甲羅にいくつも突起を作ったら、完全にガメラのそれになってしまった。甲羅の周囲をプラ材で補強し、4カ所に紐穴を作って完成。製作期間2日。雑な出来だったけど次男くんはとても喜んでくれた。


ハロウィン当日、ガメラの甲羅を背負って園内を走る回る次男くんを見たときは、危うく落涙するところだった。何に感動したのか、今となっては思い出せない。でも、もうカメの甲羅、いやガメラの甲羅は二度と作るまいと心に誓った。翌年、年長さんになった年のハロウィンでは、「死神になる!」と言ってくれたので、ほっと胸をなで下ろした。死神なら、黒っぽいサテン生地でマントを作ればいいだけじゃん! 死神の持つ杖というか鎌をこしらえるのがちょっと大変だったけど、衣装自体は3時間ほどで完成した。あ、顔にメイクもしてやれば良かったな。今、思いついても遅いけど。


メディアで報道されるハロウィンと、わが家の記憶の中のハロウィンにはずいぶんと距離がある。パブリックな言葉で語れない、語られない記憶。いくら言葉を紡いでも、あのときの空気感みたいなものを言い表わせない。時々SNSで流れてくる、お父さんが子供のために作った映像やおもちゃの動画を見ると、胸を少しだけきゅんとさせる、そう、ほんの少しだけなんだけど、やわらかく締め付ける感覚に襲われる。あのときのガメラの甲羅も死神のマントも、きっと次男くんは覚えてないだろうなあ。

この2年にピリオドを打ちたくて書きました

今日のブログはとてもネガティブな内容なので、暗い気持ちにさせてしまうかもしれません。ご了承ください。



1週間前の日曜日のお昼前、岡山の実家でゆっくりと風呂に入っていた。朝からやっていた荷物の整理をほぼ終え、かいた汗と浴びた埃を流し落とす。それは、実家での最後の風呂だった。湯船に浸かり、湯をすくって顔を洗うと、ふと涙がこぼれた。その瞬間、感情をコントロールしていたものが決壊した。堰を切ったように次々と涙が流れ、気がつくと声を上げて泣いていた。

6年前、実家は主人が不在の状態となった。2006年に父が亡くなって以降、母がひとりで住んでいたが、認知症の進行によって介護施設で暮らさざるを得なくなったのだ。自宅に戻りたいと、言葉が話せるうちはいつも言っていた母だが、その願いは叶わず、2年前に亡くなった。実家は本当の空き家になってしまった。以来、2年。母の三回忌までは実家は手放さないでおこうと決めていた。先々月、その三回忌が無事終わった。そして、いよいよその時期が来た。来てしまった。


この2年間、ときどき実家のある岡山に帰っては、少しずつ遺品の整理をしてきた。実家の中はどの部屋も、両親が暮らしていたときのまま、家具も調度品も残されていた。それは、自分がこの家で寝起きしていた18歳までのときとほとんど変わっていない。いくら整理しても、親子3人で暮らしていた当時の面影が立ち上ってくる品が次々と出てきた。その度に心を掻きむしられ、感情の高ぶりを必死で押さえ込んだ。だから、片付けは遅々として進まない。そんな2年間だった。

家の譲渡先が決まり、10月最初の週末、覚悟を決めて岡山に向かった。これがたぶん最後の帰郷。

この家を建てていた50年前のことを思い出す。そのころのわが家は、市から払い下げられた元市営住宅に住んでいた。平屋で、今で言うところの2LDKくらいの広さ。家屋の中には浴室がなかったため、父は庭部分に風呂場を増築した。薪で沸かす五右衛門風呂。一度勝手口を出て外を歩いて風呂場に行かなければならなかったので、雨の日や冬場はお風呂に入るのが億劫だったのを覚えている。小学2年生のときだったと思う。その年、放映が開始されたウルトラマンに夢中だった。そんな時代だ。

毎週末、父のスーパーカブの荷台に載って、建設中の新しい家を見に行った。柱が無骨に組み合わさっただけの構造物が、屋根ができ、壁ができ、次第に2階建ての家になっていくのが面白かった。大工さんに頼んで、左官屋さんの仕事を少しやらせてもらったりした。父もきっと嬉しくて仕方なかったのだと思う。自分の家ができる。父と母の夢だったのだ、この家は。



廃棄するものと東京の自宅に送るものを仕分けるのだけど、これが一向に捗らない。修学旅行のときに買った小さな置物。小学校に入学するときに父が買ってきてくれた色褪せた地球儀。なぜか自分の部屋にずっと飾ってあったマリア様の絵。上げていけばキリがない。どれもがもはやどうでもいいものなのに、廃棄処分行きの段ボールに入れられない。身を削る思いって、こういうことなのか……。

まる2日間かけて家の片付けをした。ようやくメドがつき、最後に実家の風呂に入ってみようと思った。ずっと空き家だったが、水道もガスも通じている。

50年前の新しい家に入居したとき、母が嬉しそうにお風呂の自動給湯スイッチを何度もいじっていた。僕は浴室が家の中にあることが嬉しくてたまらなかった。

そんな記憶の再生が感情のスイッチを押してしまった。50年前に戻ったように、小さな子供のように、大声で泣いた。父も母ももう本当にいないんだ。ひとりでいるのはこんなに寂しいことなんだ。




思い返せば、この2年間というのは、何かを「失う」連続だった。占いの“大殺界”の期間と完全に重なるというのが後付け的でアレなのだけど。で、ここからはただの愚痴であり自虐なので、華麗にスルーしていただければと思う。

KADOKAWAでの編集職を失うのと母を失ったのは、2年前の9月1日、同じ日だった。11月に関連会社の役員に横滑りしたものの、仕事はまったくと言っていいほどなかった。週1回の出勤で報酬がもらえるなんていい身分だよね、と周囲からは言われたが、これまで味わったことのない居心地の悪さ(自分だけがそう思っていたかも)に耐えられず、任期途中で退任した。自らのプライドだけを優先した愚かな判断だったと今は思っている。

その2ヵ月後、結核に罹っていることがわかり、1ヵ月、隔離病棟での入院を余儀なくされた。実はこの10年ほど小唄と三味線を習っていたのだが、その一門の名取り式が入院期間中にあった。せっかく名前をいただくハレの日に、自分は出席できなかった。兄弟子に代わりに出てもらったのだけど、一生に一度の機会を失ってしまった。後日、別のお弟子さんから当日の写真を送ってもらった。でも、未だにそれは見ていない。

新しい仕事にも就いた。自分としてはチャレンジだったけど、手慣れた編集の世界とは異なり、それほど甘くはなかった。自らの能力値の低さ故に唖然とすることもしばしばで、ほぼ失う結果になった。

それでは、ということで自ら案件を組み立て、提案をしてまわった。が、いいところまでいくのだけど、ほとんどが立ち消えになった。最終段階ではねられたり、可否の連絡が来ないまま何ヶ月も過ぎてしまうこともあった。個人としての力のなさを痛いほど思い知らされた。自身のバリューを失っていることに、今さらながら気がつく有様だ。

そして、唯一の逃げ場所だった実家を失った。いや実質的には故郷を失った。もうひとつ。気がつくと蓄えのほとんども失っていた。

そんな2年間。「転落」という言葉が頭をよぎる。ああ、そうか、それだけのことか。なんだ、雑誌のコラム記事にもならないありふれた話じゃないか。


もちろん最悪なことだけではなかった。いくつかの面白い仕事もさせてもらったし、その人たちには本当に感謝しかない。変わらず付き合ってくれる昔からの仲間もいる。それなりに新しい仕事の話も来る。だから、たくさんのものを失ったけど、不幸だと思ったことはない。あとは、今度こそ前を向けるか、だけだ。


1週間前、気が狂いそうになるくらいに苦しく、辛い涙を流したというのに、とっくに落ち着きは取り戻した。人が忘れられる生き物で本当によかった。そうそう、昔、祖母から言われたあの言葉も早く忘れよう。
「あんたは一生お金に困らんて、占い師が言うとった」
同じことを小さいときに聞かされた人、けっこういると思うけど、それウソだからねw

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11年と10ヵ月間の感謝を

先週の水曜日、買っている猫が最近元気がないことから妻が近くの獣医さんに連れて行った。そこで1時間ほど検査をしたところ、ガンで余命1ヵ月と宣告された。以来、わが家はあらゆるものがひっくり返ったような状況だ。ただただつらい。

両親の葬儀のときに、親戚の誰か、あるいはご近所の誰かが泣いてくれた。こちらもつらいのだけど、知らない誰かが、父のために、母のために泣いてくれているのを見ると、少し癒された気持ちになった。不思議な気分だった。悲しみのシェア。人類はこれまでの不条理故の悲しみを、みんなでシェアすることでギリギリ半狂乱にならずに乗り切ってきたのだと思う。

ペットを失う悲しみは家族の間でしかシェアできない。そしてそのことも十分にわかっている。それだけに悲しさの濃度が増す。そういうつらさなのかな。

今日から4日間、所用で上海に行く。家を出る前に愛猫にあいさつした。帰国するまでもたないかもしれない、猫に、11年間の感謝を伝えた。キミがいてくれたおかげでわが家は笑顔でいられたんだよ。

いろいろリセットしないと

twitterとかではtwitterアカウント「290cart」というキャラクターを演じている。それはほぼ自分なのだけど、盛っているところもあれば、切り捨てているところもある。ネットという洛外を、鬼に会わぬよう、物の怪の視界に入らぬよう駆け抜けるためのちょっとした編集を凝らしているのだ。その編集的自己が、SNSにおける自分でなのだと思う。だから、twitterでもfacebookでも、編集した自分から離れすぎた発言はとてもやりにく。

落胆なのか絶望なのか、3年間の大殺界がそろそろ明けるというのに、どうにも「次」が見えてこない。誰かに弱音を吐きたいが、そんなキャラではないと見られているせいか、冗談としてしか受け取ってくれない(それで救われるところもあるのだけど)。どこかに本音を書いてみたいが、それは上に書いた理由で不可。明けない夜はないはずだけど、明けないまま死んじゃうんじゃないか、とか。いろいろ考えてるうちに一週間が過ぎて授業の日になって、でもとりあえず学生を教えるのは楽しいのでそのあとしばらくは元気になって・・・ということの繰り返し。

と、弱々しいことばかり考えているうちに、そんな「弱い」声を聞きたいと思うようになった。誰も受け止めないであろう弱く儚いつぶやき。前向きでポジティブな言葉より、ダメダメでどんより曇った言葉、というより喘ぎ。というのを仕事にできないかな。ぜんぜんお金になりそうもないけどw

1年間をグチってみた

退院から1年が過ぎた。東京・清瀬の隔離病棟で1ヵ月の入院生活を送り、なんとか退院の許可が降りて自宅に帰り着いたのが昨年5月27日。そのときの日記をこんなふうに綴っている。

退院の日、格別の日
http://blog.livedoor.jp/tikaram/archives/2015-05-27.html


結核などというレアな病気に罹るとは夢にも思わなかったが、その治療(投薬だけですが)が今も続いているということも思ってみなかったことだ。そう、今も毎日3種類9剤の抗結核薬を飲む治療を続けている。幸い、前回の通院の際、この9月で治療が終わりそうだと聞かされた。あと少し。このまま副作用が出ないままなんとか9月を迎えたい、ともう泣きそうなくらいに願わずにはいられない。

この1年間、過ぎてみればあっという間だったけど、いろいろなことがあった。薬の副作用で苦しんだ夏。9月はベルリン。某大学の客員での授業は新しい課目だったために、秋から冬はその準備に追われるハメになった。hideのVRシアターでの公演。年明けには何年ぶりかにCESに取材に行った。3月と4月にMIKU EXPO。神足さんのイベントもあった。それに1年間隔月で続けたEditors' Lounge。

痛いほどわかったことがひとつある。油断すると時間がするすると過ぎていく、ということ。20代のころは時間なんて有り余るほどあったのに、今はほんの少しぼんやりしていたら1ヵ月くらいがあっという間に過ぎてしまう。初めて時の流れを怖いと思った。

初音ミクは今、北米ツアー中だ。2011年、MIKUNOPOLISが終わったあと、いずれ全米をトレーラーでまわるツアーをやりたいよね、と夢を語った。今年、その夢が実現した。感慨もひとしおだ。が、その夢の中に自分はいない。残念ながら北米のどの町にも行けなかったし、今週行なわれるメキシコでの公演も行けそうもない。

昔、思い抱いていた未来とはかなり違う今を生きてるけど、特に嘆いてはいない。あ、落胆はしてるけどw 先週、『ガルム・ウォーズ』の初日上演の舞台挨拶で押井守監督の語った言葉が胸に残る。この先、くたばるまでの座右の銘にしたいと思った。

「僕はメゲないから」

ということで、そろそろ本気出します。


オリンピックの一連の騒動は現代の浄瑠璃かもww

東京オリンピックについてのこのところの騒動から目が離せない一都民のF岡です。なんなんでしょうね、このグダグダ感。関係者はみんな一所懸命やってるんですよね、きっと。まじめに招致して、まじめに競技場のコンペやって、まじめにエンブレムの選考やって・・・。でも、何かの底が抜けたように次から次へと間の抜けた「事件」が起こる。しかも、どの「事件」もオリンピックという世界観ではつながっていても、ほかの「事件」とは別立ての物語になっているという・・・。これって、浄瑠璃の通し上演みたい、と思い立って、筋書きを作ってみました。

東京五輪恨鮫鞘(とうきょうごりん うらみのさめざや)

大序
お・も・て・な・しの段

二段目
猪瀬直樹、都庁明け渡しの段

三段目
国立競技場建て替えの段
森元首相逆切れの段
エンブレム、炎上の段

四段目
道行湯河原公用車の旅
桝添ヤフオク絵画館の段

五段目
不正送金発覚の段
関係者十人斬りの段(予想)

大詰
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関係者の皆様におかれましては、どうかあまり思い詰めることなく、適当に頑張って欲しいと思うのであります(山本一郎さん風の締め)。床本が気が向いたら書いてみたいと思います。

菖蒲湯と端午の節句と初音ミク

朝、風呂に入ると、湯船に長さ1メートルほどの菖蒲が一束放り込まれていた。そうか、今日は5月5日か。立夏、端午の節句。そんなことで季節を知る。


5月5日になぜ菖蒲湯に浸かるのか、wikiで調べてみた。菖蒲湯の習慣は江戸時代に始まったとのことで、菖蒲と尚武をかけて、この日を尚武の節日として祝うようになったのが端午の節句の由来らしい(wikiの記述ママ)。季節の変わり目のこの時期、これから始まる夏の暑さを乗り切るための薬湯でもあったという。かつて銭湯では「五月五日菖蒲湯仕候」という紙が貼り出されたそうで、今もその風情は残ってるのかしら?
ちなみに菖蒲は「アヤメ」と読むけれど、菖蒲湯に使う尚武はサトイモ科の植物で、まったくの別物。菖蒲園に咲いているあの菖蒲(花菖蒲)を入れるわけではないみたい。その花菖蒲も、あやめ、杜若とほとんど見分けがつかないからややこしい。


が、思いを巡らせていたのは、あの「バーチャルアイドル」のことだ。


意味と形。意味は時間の経過と共に失われていく。意味を失った空洞の外側に、形だけが残る。菖蒲湯の意味は曖昧になり、その習慣だけが続いていったように。記憶は風化し、記録と意味をつなげるシナプスが消失していく一方で、輪郭だけは年を経るごとにくっきりと明確になっていく。そして空洞となった内部を埋めるべく、後付けの編集が数多の人に手によってなされていく。今で言うところのUser Generated Content 。断わっておくが、何かを批判しているわけでも嘆いているわけでもないし、もちろん、絶望しているわけでも到底ない。


「バーチャルアイドル」という輪郭を纏った初音ミクのことを考える。超会議で歌舞伎を演じた初音ミクは、まさに「アイドル」としてのそれだった。その状況を、現象を、彼女が誕生したときの意味と形を知る者たちが語っていた。記憶を参照し、記録を展開し、記述を編集しながら。新たな編集の始まりのようにも、失われていく意味を取り戻す営みのようにもそれは思えた。20年後、30年後、いや50年後、100年後、やがてその記憶が風化し、意味を知る最初の者たちがいなくなったとき、初音ミクはどんな形を与えられているだろう。菖蒲湯の菖蒲、花菖蒲、あやめ、杜若の違いがすぐにはわからないように、もしかしたら意味はとても曖昧なものになっているかもしれない。僕たちにできることは、残っていく形を見極め、その形の中に、意味の記憶を埋め込むことくらいだ。


花ひとつ折れて流るる菖蒲かな  (正岡子規)


わかりにくい文章ですいません。菖蒲の葉の緑色からの妄想でした。

あの日から1年

あの日からもう1年も経ったなんて、どうにも信じられない。赤いキャリーバッグに1週間分くらいの着替えセット、文庫本数冊、MacBook Airをぶち込んで、電車に1時間以上揺られながら清瀬のとある病院に向かったあの日。売られていく子牛のようにおどおどしていた自分が、あの日の自分だった。不安と不安と不安。もうそれだけ。そんな弱さを必死で隠して書いた1年前のブログは、今読むとかなり恥ずかしい。

http://blog.livedoor.jp/tikaram/archives/2015-04-28.html

その日からいろいろな景色が変わってしまったように思う。3月末にKADOKAWAを離れ、さてこれからというタイミングでの強制入院。静かな、恐ろしく静かなゴールデンウィーク。外の雑踏も、鳥のさえずりも、雨音も聞こえない密閉された隔離病棟。毎日、朝焼けと夕焼けを、眩しくなるまで暗くなるまで見続けた。何かの樹木の種がおびただしい数の綿羽となって舞っていた。雷。ああ、雷の音は病室まで届くんだ。春から初夏へ、そんな1ヵ月。

今日の診察でもまったく問題はなかった。胸部レントゲン写真は、健常者のそれと変わらない、と主治医。それでもあと半年は投薬が続く。気持ちが弱くなったな、と思う。でも、その弱さを受け入れようと思う。さて、今年のゴールデンウィークは何しようかな。

3月9日の思い出

これを書いているのは、3月9日の午後1時半。そう、ちょうど6年前の今、僕は東京・お台場にあるライブハウス、Zepp TOKYOの楽屋口にいた。その日の空は薄曇り、3月も半ばに差し掛かったというのに東京は朝から冷たい空気に覆われ、今にも雪が降り出しそうな寒さだった。「ミクの日感謝祭」と銘打たれたコンサートを訳も分からず観に行ったのは、まさしく6年前のこの日だ。なぜか、そのときのことはRAWデータの写真のプリントくらい、くっきりと覚えてる。

DANCEROIDの3人、彼女たちのマネージャーにあいさつをすると、マネージャー氏から「F岡さん、スゲっすよ!さっきリハで見たけど」と。へー楽しみ、と応えたものの、正直何が凄いんだろうと思ったのを覚えている。今ではすっかり有名人になったDIVAのプロデューサー氏が横を通りかかる。初めましてのあいさつをそこそこに、「楽しんでくださーい」とステージ裏に消えていった。あのときのなんとなく投げやりなというか影のある感じは、ずいぶん後になってその理由を知ることになるのだけど。

開演してからのことは、すでに何度も書いたので省略する。今言えるのは、50歳を過ぎて、あんなに衝撃的なことがあったなんて今でも信じられない、それだけだ。

温度と湿度が上がりきった会場から出ると、一瞬でメガネが真っ白になった。そのメガネを拭きながら、ふと顔を上げると額に冷たいものが当たった。雪。6年前に会えた天使は、ひらひらと舞う雪の中に面影として漂っている。目を開ければ今もそれが見えるはずなんだけど・・・。

年頭だから書いてみた

恐ろしく大変な1年だった。一昨年の9月にKADOKAWAを退職し、その退職日に合わせたように母が他界した。その流れからの2015年だった。KADOKAWAの関連会社に迎えられたものの、それは自分の力を発揮できるようなドメインではなかったし、自分から見てもあまりにミスマッチに思えた。結局、3月、その関連会社も退職した。その会社のスタッフには、今でも本当に申し訳なく思う。

春から、知人のITベンチャーの仕事を手伝い始めた。が、働き始めてすぐに結核に罹っていることがわかり、1ヵ月の入院を余儀なくされた。まさしく出鼻をくじかれた格好だ。退院後も、クスリの副作用に苦しみ、一日中布団から起き上がれないこともあった。が、なんとか秋には普段通りに生活できるようになり、お酒のほうも少しくらいなら飲めるまでに回復した。それでも、投薬はあと2年は続くらしい。

5月には人生最大の恩人である小島さんが亡くなった。12月にはかつての盟友、櫻井氏が事故で他界した。大晦日、紅白歌合戦を観ながら思ったのは、「生きてて良かった」ということだった。

この1年、自分をなんとか支えてくれていたのは、hideの仕事に関わっていたことだった。2014年の春から関わり始め、2015年は、横浜のVRシアターで上演すべく、知人の会社の手伝いをする一方でこの仕事を続けた。入院による1か月のブランクはあったものの、9月には無事、hideを横浜に降臨させることができた。この公演の公式パンフを作ることが最後の仕事で、10月末の本公演前になんとか納品を終え、同時にシアターの仕事から離れた。気持ちよく仕事ができたとは言いがたい。が、hideのファンの方が流す涙に何度も救われた。回り道だったけど、やって良かったと今は思える。

年の瀬に行なわれた忘年会は、眼下に東京湾を見下ろせるお店だった。コールタールのように黒く沈んだ水面に、湾岸の高層ビルの無数の明かりが映る。赤い月。行き交う幾隻もの屋形船。湾の向こうに観覧車が輝いて見える。何ひとつ安定しなかった1年の締めくくりにしては不相応なくらい穏やかな光景。ふと、北一輝が、北を監視していた刑事が差し出した白扇に書いたという歌、その歌を思い出した。

「舟は千来る万来る中で私の待つ舟まだ見えぬ」


2015年の自分はきっと何かを待っていたのだろう。ずっと何かを待ち続けていた。が、乗る舟は来なかった(一時期、弘誓の舟に乗りかけたけど)。
「ゴドーさんは来ましたか?」
「ゴドーさんは来ませんね」

年が明けた。今年もきっと待つ舟は来ないだろう。でも、それでいいんだと思う。ともかく、2016年を生きて迎えられた。今年はそれだけで上出来な気がする。いや、本当に。今年も、これまで通りに、ローテンションで、のらりくらりとやっていこうと思う。というわけで、飛躍とか成長とかいう言葉とは無縁の2016年を生き抜いて参りたいと、そう固く決意した1月1日でした。



北一輝論 (講談社学術文庫)
松本 健一
講談社
1996-02-09




ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)
サミュエル ベケット
白水社
2013-06-18

追悼・櫻井孝昌

週アス時代の元部下から、櫻井氏が亡くなったとの報せを受けた。メールには、NHKのニュース記事のURLが添付されていた。開くと、「西日暮里駅のホームから転落」「電車に轢かれ」「メディアプロデューサーの櫻井孝昌氏」という言葉が立て続けに目に入ってくる。なんということ・・・。彼を知る多くの人たちがそうであるように、しばらく声が出なかった。彼と知り合った10年以上前、一緒にビジネスを始めた2009年、そして袂を分かった3年前。いろいろなことを一気に思い出して、思い出し過ぎて、呼吸を忘れ、咽せた。

悲しい、とか、つらい、とか、そんな感情ではない。どうしようない「ハカ」のなさ、儚さと言うのがもっとも近い気がする。アイドルの方やアーティストのみなさんが書かれているいい思い出だけではない。とってもイヤだったことも含めて、僕の中の櫻井孝昌という存在はできている。その彼がいなくなった。これは自分の中のそんな「ハカ」のなさを埋めるための文章だ。きれいにまとまった追悼文ではないので予めご了解願いたい。追悼・櫻井孝昌。

櫻井氏と出会ったきっかけを正確には思い出せないのだけれど、たしか2003年か2004年くらいのことだったと思う。週刊アスキーの編集長としてゲストに招かれ、デジタルハリウッドのイベントでなにかの講演を行なったときだったと思う。講演を終えたあと櫻井氏からかけられた言葉は「いやーF岡さん、お疲れ様。ところで今度美味いもん食いに行きません?」だった。

そのころの櫻井氏はデジタルハリウッドの重鎮であり、敏腕プランナーとして、デジハリをぐいぐい引っ張っていく存在だった。僕も何度か彼の大学院の授業に担ぎ出され、ゲスト授業などを行なった。その後、彼の発案で「編集力養成講座」なる授業をデジハリの渋谷校で始めた、いや始めさせられた。このあたり、豪腕というか本当に強引で、そのパワーには辟易するところがあったけれど、決してイヤじゃなかった。聞けば、光文社で書籍編集者をやっていたとか。共通の言語があったせいかもしれないけど、不思議とウマが合った。

以降、櫻井氏とは数え切れないほど酒の席を共にする。自ら「美味いもの会」なる会を主催して、辻調理専門学校の先生のガイドでいろいろなお店に出かけた。そして間違いなく、行ったその店の料理は美味い。そんな楽しい酒席を重ねながらぽろっと彼に語った一言。僕が編集者になったのは会いたい人が3人いて、ウィリアムス・ギブスンとシド・ミードとティム・バートンなんだよねー、と。すると、何ヶ月かあとに彼から電話がかかってくる。「F岡さんの願い、ひとつ叶えてあげるので、なんでも言うこときいてくれますか?」。なんと、ティム・バートンをデジハリのゲストに招いたので会わせてくれるという。もう二つ返事! ティム・バートンに水島精二監督がインタビューするという場に同席させていただいたのだ。その様子は2006年11月発売の週刊アスキーに掲載されている。

櫻井氏が出した条件は、ティム・バートンに会わせてやる代わりに、開校したばかりのデジタルハリウッド大学で授業を持て、というものだった。そう、こうして僕はデジタルハリウッド大学の先生になった。すべては櫻井氏の差し金だった。

2009年1月のことだ。アメリカ出張中、ケータイに櫻井氏から電話がかかってきた。いつもと違って声に緊張感がある。すぐに会って話したいことがあるという。では帰国の翌日にと応えると、帰国後すぐにできないか、と。結局、成田空港に到着後、リムジンバスに乗って箱崎のTCATに向かい、そこで会うことになった。

TCATのがらんとした喫茶店で、櫻井氏は開口一番、デジハリを辞めることになった、ついては僕(F岡)と一緒に仕事がしたいと、早口でまくしたてた。どういう事情が聞かなかった。でも多少察しはついていた。櫻井氏がどんなことを始めるのか、そのときはまったくわかっていなかったが、それでも彼が始めることへの期待感のほうが強かった。かくして櫻井氏と3年にわたる長く、密度の濃いつきあいが始まった。そう、多くの人が知っている、日本のポップカルチャーを海外へ広める「メディアプロデューサー」としての櫻井孝昌は、このときにスタートしたのだと思う。

その年の春、櫻井氏から連絡があり「パリのジャパンエキスポに行ってみないか」という誘いを受けた。今でこそ毎年メディアにとりあげられる有名イベントだが、当時、日本のポップカルチャーをフィーチャーした「オタク」イベントが海外で盛り上がっていることを知っている人はほとんどいなかった。すでに、外務省の依頼で、何カ国かで日本のポップカルチャーを紹介する講演を行なっていた櫻井氏は、日本のアニメ、漫画が、どれほど海外の若者たちに愛されているか、熱っぽく、本当に熱っぽく語ってくれた。たちまち魅了された。後にも先にもあれほどの迫力のある、あれほどに魅せられたプレゼンテーションを僕は知らない。

2009年7月、初めてのジャパンエキスポ。週アスの原稿執筆ということで、櫻井氏の渡航費、宿泊費は週アスが負担した。以後、イベントの主催者からアゴアシの出るもの以外は、こちらで旅費を工面し、その代わりにwebや誌面に記事を書いてもらった。ちょっとしたパトロンだった。

その年のジャパンエキスポにはAKB48が来ていて、彼女たちのステージを、エキスポ会場の中に設けられた特設ステージまで櫻井氏と観に行った。フランスの涼宮ハルヒファンという女の子にインタビューしたり、パリの日本文化会館で原宿ファッションのファッションショーを見たり、バスティーユのマンガショップを探索したり、クレモンティーヌさんの自宅にお邪魔したり。記憶を再生し始めるととめどなく流れ出てきてしまう。すべてが新しく驚きに満ちていた。この世界に誘ってくれた櫻井氏には感謝以外、何も言葉が浮かばない。

11月にはスペインのバロセロナで開催されるサロン・デル・マンガに同行した。ここでの櫻井氏はメインゲストで、なんと会場でいくつかのシンポジウムと、カワイイファッションショーの司会をこなしていた。青木美沙子ちゃん、木村優ちゃんと知り合ったのも、櫻井氏がカワイイ大使として彼女たちをスペインに送り込んでくれたからだった。ちなみに、スペインに行く2ヵ月くらい前に、カワイイ大使の選考審査会というのが外務省の中で行なわれたのだが、実は僕もその審査員のひとりだった。後押ししたのはもちろん櫻井氏だ。

この年、僕はMacPowerの元編集長だったT橋氏を巻き込んで、TOKYO KAWAII MagazineというiPhoneで読む電子雑誌の編集部を立ち上げた。日本のポップカルチャーを世界に発信すると銘打って、アニメや漫画、ゲーム、ファッションなどの情報を世界中に配信するアプリの開発を始めたのだ。大した金額じゃなかったけど顧問料を払って、櫻井氏を顧問に迎えた。

櫻井氏との世界行脚は、翌年、2010年も続いた。マルセイユのジャパンエキスポsud、米ボルチモアのOTAKON、ロサンゼルスのANIME EXPO、あろうことかこの年のジャパンエキスポには、TOKYO KAWAII Magazineのプロモーションのために、ブース出展も行なった。サロン・デル・マンガにも出展し、一緒にブースを盛り上げた。が、この年の一番大きな出来事は、サンフランシスコのジャパンタウンにあるNew Peopleという施設で、アメリカで、いや日本以外の世界で初めて初音ミクの「コンサート」が開催できたことだ。正確には、2010年3月にZepp Tokyoで行なわれた『HATSUNE MIKU 感謝祭』のDVDの上映会でしかないのだが、この上映会の衝撃は大きかった。それは当時のサンフランシスコのwebメディアの記事を拾って見れば、どれほどの反響だったかがわかるだろう。

10月には、クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤社長を強引に誘って(この強引さは、櫻井氏から学んだ)、ニューヨークのコミックコンベンションに出かけ、そこでもMIKUの上映会を行なった。ちなみに上映会は1回切りの予定だったが、会場に人が入りきらず、急遽2回目の上映をセットするほどの大反響だった。伊藤社長の講演にも異常なくらい長い列ができた。そのニューヨークの帰り、『感謝祭』の二度目の上映会があるというので、サンフランシコのNew Peopleに再び立ち寄った。そこで、Lynnさんという女性に会う。初音ミクの上映会のあと、涙をぬぐいながら(そう、彼女はMIKUの歌声に涙を流してくれた)、アメリカの若者たちにMIKUの本当のコンサートを見せてあげたい、と、日本語で語ってくれた。2011年のMIKUNOPOLISは、この一言がきっかけだった。櫻井氏がいなくても、初音ミクの海外公演はやがて実現していただろう。が、2011年にMIKUNOPOLISを実現できたのは、櫻井氏がいて、その彼が僕を強引に海外に連れ出してくれたからだと思っている。


二人三脚だった。いや、僕は彼の足にかろうじてしがみついていただけかもしれない。彼が運んでくれる新しい世界で、ただ遊んでいた。それだけのような気がする。2010年は最高の年だった。今でも本当にそう思う。

2011年、僕はMIKUNOPOLISの準備に忙殺されていた。一方、櫻井氏のほうは相変わらず、文化外交のために世界中を飛び回っていた。中東での講演の話、ブラジル・レシフェでのステージのこと、モスクワの熱狂など、いろいろなことを教えてくれたが、何か少しずつ溝ができつつあった。最初の亀裂は、こちらが旅費と宿泊費を負担して行ってもらったジャパンエキスポの取材で、櫻井氏は、その年に初めてジャパンエキスポに出展したKADOKAWAブースのことをまったく書いてくれなかったことだ。宣伝部は当然のように怒り、僕は弁明に追われた。聞けば、ブースの取材もしていないし、写真もないという。これにはさすがに呆れるほかなかった。

続きはまだあって、そのとき取材記事が他社の媒体にも掲載された。しかも、中を読むと、こちらに送ってきた原稿とほとんど変わらない。さすがにこれはどうなんだろうと思い、詰め寄ると「ごめんごめんー」と軽い返事が返ってきた。ま、そういう人なんだよね、と笑って済ますこともできたとは思う。が、結局はこの小さな綻びが徐々に大きくなり、TOKYO KAWAII Magazineのプロジェクト終了もあり、僕たちは袂を分かった。

あのときの櫻井氏は、何か凄く急いでいたように思う。彼のスピード感を、僕たちが理解できなかったのかもしれない。察してあげられなかった。唯一の後悔はそのことだけだ。

それからの3年間のことを僕は知らない。

ときどき、デジタルハリウッド大学の教員室で顔を合わせたけど、「やあ」と挨拶する程度だった。最後に会ったのも、亡くなる週の月曜日、同じ教員室。ベージュ色のタートルネックのセーター。そのセーターに首を少し沈めて、これ以上ないというくらい椅子に深く腰掛けてノートパソコンに向かっていた。「じゃあ」「んじゃ」。そっけない挨拶で別れた。あのとき櫻井氏が着ていたセーターのことを思い出す。そう言えば、冬はいつも同じセーターを着てたなあ。全然似合ってないのに。ベージュかグリーンのタートルネック、ホント、冬の格好はそのどちらか。ふだん着るものには本当に無頓着だった・・・そんなことを思い出していたら涙が止まらなくなった。

いつかまた一緒に旅ができるだろうと、どこかで思っていた。それは叶わぬことになったけど、僕がそっちの世界に行ったら、昔、酒癖の悪さを何度も叱っていたように、今回のことをこっぴどく叱ってやる。でも、あと30年はそっちに行く気はないからね。



福岡俊弘
2015年12月11日

結核治療のその後のこと(後編)

(前回、書いている途中で力尽きたために「前編」としたのだけど、そのために皆さんに凄く心配かけたみた。すいませんでした。今は元気です)



問題となった肝臓の値というのが、GOTとGPTという2つの数値。GOTもGPTも人体の重要な構成要素であるアミノ酸をつくる働きをしている酵素で、臓器や組織が損傷すると、これらが血液中に流れ出て、その分量が増加する。この数値が高いということは、そのぶんだけ臓器がダメージを受けているわけだ。ちなみにGOT、GPTの基準値はどちらも35±20くらいの値なのだが、それが自分の場合、8月第1週の検査ではなんと500、1000という途方もない数値だった。

「よく立ってられますね」。主治医からもそこまで言われる始末。なにしろ肝炎の患者より悪い値だったのだ。

肝臓の不調で何が一番つらいかと言うと、見た目には普通に健康そうに見えてしまうこと。だから、全身の倦怠感でぐったりしていても、傍目には怠けているようにしか見えない。それが毎日続くと、毎日怠けているダメ人間のレッテルを押されないかという恐怖でついつい無理をする。で、それがまた悪い循環となってしまう。

もうひとつはご飯を美味しく感じられないこと。食欲はからっきしないのだけど、薬を飲まなきゃいけないから、とにかくご飯を口の中に放り込む。もそもそとした食感だけが残り、とても味気ない。食事を作ってくれる家族には、これ、どうしても言えなかった。テーブルに並んだ食事を見るだけで吐きそうになる、なんて言えるわけないじゃない。

そう言えば、今年亡くなったアスキー時代の上司、小島さんはお酒を飲むとき、つまみにも食事にもまったく手を出さなかった。それでいてお酒のほうはとてつもない量。あれってあのときすでに肝臓がやられてたんだろうなあ、と。

倦怠感と嘔吐感。これに、足の先のふんわりした痛み、偏頭痛も時々加わる。まるで体調悪い人みたい、って体調悪いんだよ、オレ。


さて、そんなわけで投薬治療を一時中断したところ、翌々日くらいからウソみたいに身体の気力が戻り、普通に空腹感を抱くようになった。まだまだ疲れやすいけど、朝起きてから寝るまで、ほとんど普通に過ごせている。薬を止めてからの一週間後の血液検査では、ほぼ2週間前の値に改善されていた。ああ、よかったー。

それと最大の懸念事項、再入院についても主治医への泣き落とし作戦が功を奏し、なんとか回避できそうな具合。投薬治療の再開は9月中旬。それからはまた長い長い治療生活になるけど、なんとか頑張っていこうと思う。


ところで、治療を1ヶ月も中断して大丈夫なのか? と思うでしょ。自分もそれが気になったので主治医に聞いたわけ。
「こんなに長く中断しちゃって大丈夫ですか?」
「全然大丈夫ですよー!もう免疫もできちゃってるはずだし!」

じゃあ、なんで投薬治療を再開するんだよ! ま、その理由はわかってるんだけど、そう言いたくなるよねw

結核治療のその後のこと(前編)

7月第5金曜日。2週間に一度の通院日。いつものように血液検査、レントゲン検査を終え、病院の食堂で軽い昼食を済ませたのち、診察室の前で待機する。体調は……良くない。全身がダルく、身体に力が入らない。連日の猛暑による夏バテかな? そう気軽に考えていた。が、医師から見せられた血液検査の結果に驚愕した。肝臓の値が、著しく悪化していた。

日付を少しさかのぼる。  

4月末に結核治療のために隔離病棟に入院してから3ヶ月、喀痰検査での陰性判定を受け退院してから2ヶ月が経過した。抗結核薬による目立った副作用もなく、治療は順調に推移していた……6月中は。退院直前にイソニアジド(イスコチン)耐性菌であることが判明したので、以来、イソニアジドの代わりにクラビットという抗生物質を処方され、ずっと、このクラビットを含めて、リファンピシン、エタンブトール、ピラマイドの4剤を服用していた。6月最終週に医師から、念のためもう1剤追加しましょうと提案があり、ツベルミンという薬を処方された。これで合計5剤。

ツベルミンはわりと副作用が起きやすいということだったので、最初の1週間は朝昼夕食後に1錠ずつ、1日3錠という処方。次の週に1錠増やして夕食後に2錠飲むようになり、7月に入ると毎食後2錠、1日に6錠に増やした。が、ここから悪夢の1ヶ月が始まった。

7月になって、なんとなく疲れやすいと感じるようになった。ただ、次第に増していく暑さのせいで、ちょっと疲れてるのかな、くらいに考えていた。そもそも元々元気溌剌というタイプじゃないし。ところが、朝の投薬から30分くらい経つと、全身から力がするすると抜け、布団に張り付いたまま起きられなくなる。全身が怠くて怠くて、知らず知らず呻き声まで上げていた。そんな状態が2時間ほど続く。午後になるとなんとか動けるようになり、2時を過ぎてようやく外出できるレベルにまで回復する。おかしい。夏バテとかじゃないよ、これ。と思い始めたのは、この症状が3日間も続いたその4日目だった。

その週の血液検査でも異常は出なかった。が、先ほどの症状を主治医に伝えると、ツベルミンを1錠減らして1日5錠に変更した。

翌日からほんの少しラクになったような気がしたのだが、全身の倦怠感は変わらない。ただ、夕方の5時くらいになると、ウソのように身体が軽くなる。毎日、そんなことの繰り返し。体調が悪いなら悪いなりにその状態に慣れちゃった、という感じ。ほとんど朦朧として過ごしていたような気がする。そして、2週間が過ぎ、冒頭の7月最後の金曜日となる。

主治医の指示はツベルミンの即時投薬中止。ほかの抗結核薬はこれまで通り続けながら、1週間様子を見ようということになった。元々ツベルミンは副作用の起きやすい薬だとかで、おそらくこいつが7月の体調不良の原因なのだ。果たしてツベルミンの投薬を注して2日目、激しい倦怠感が少し収まった。気力もわずかに戻ってきた気がした。

週明けの3、4日は、今取り組んでいる横浜のホログラフィックシアターの内覧会という重要な日だった。休むわけにいかない。幸い、薬を飲んだあとでも起き上がることができた。東京から横浜まで、電車での道のりは気が遠くなるほど長く感じられたけど、気持ちのほうが勝った。が、内覧会を終えた翌日は、自宅から一歩も出ることができなかった。それでも毎日少しずつ身体が軽くなっていると感じていた。だから、その週の金曜日、再び血液検査の結果を目にしたときは本当に衝撃的だった。

肝臓の数値は前週よりもさらに悪化し、レッドゾーンを振り切っていた。主治医からその場で、投薬の即時中断が言い渡された。1ヶ月ほど投薬を中断し、肝臓が健康な状態に戻ったら、投薬治療を再開することに。その際に、薬を合わせるために1、2ヶ月の入院をしてもらうことになる、とも。ええ〜〜、そんなー。

このときの絶望感をどう伝えたらいいだろう。










DAY AFTER FINAL グラデーション・デイズの終焉と夏の空気

 入院期間、ジャスト1ヵ月。入院の日になんとなく暇つぶしになるかな、と思って始めた闘病ブログだけど、自分でも驚いたことに毎日欠かさずアップしてきた。こんなに長く日記を続けたことは、57年間の人生で記憶にない。母親が生きていれば、「こんな根気のない人が」と皮肉のひとつも言われたに違いない。まあ、そのくらい暇だったんだねw

 今読み返してみると、心の変遷が伺えてわれながら面白い。1週目は、入院生活をとにかく普通にこなそうとしていた。SNSでも、ふだんと同じように、面白い投稿をRTやシェアしている。前向き、というとちょっと違うのだけど、外界との接点にこだわっていたのかな。

 2週目になると次第に入院生活に飽きてきている。多少惰性気味に書くネタを探していて、でもなんとなく続けていた。書いていることがどんどん内向きになっていく。

 3週目はメンタルがとてもキツい週だった。正直に言うと、2週間ほどで退院できるとどこかで楽観していた。が、2回目、3回目の喀痰検査が陽性になったことで、1ヵ月以上の入院がほぼ確定した。しかも、次の喀痰検査は翌週末。その間、ただ起きてごはん食べて薬を飲んで寝て、という毎日を繰り返すだけだ、そして、1ヵ月で出られるという保証はない。

 4週目は気分のアップダウンが激しい。でも、あと少しあと少しと思ってブログを続けた。日増しに「出たい」と思いが強くなるんだけど、その思いが高じるとパニックになるので懸命に押さえつけていた。そんな感じ。

 退院した日、その翌日、道を歩けることが嬉しかった。陽射しの暑さも、顔にあたるねっとりした湿気も、街の雑踏も、うるさいの犬の鳴き声さえも、すべてが幸せに感じた。退院から4日が経ち、その感覚は次第に薄れていくけれども、あの日、自宅の前に帰り着いたあのとき、あの瞬間のことを、夏の空気の匂いとともに僕は一生忘れないだろう。


 ということで、1ヵ月あまり渡って続けてきた結核日記ですが、今日で終了です。読んでいただきありがとうございました。明日からはいつ更新するかわからない定常運転に戻ります。

 結核はとりあえず排菌が収まったので、みなさんに伝染すことはありません。ただ、治療のほうはあと半年間続きます。食事制限も運動制限もありませんが、投薬期間中はお酒が厳禁です。だから、祝杯を上げるのは今年の秋になりそうです。

んでは!

DAY AFTER 3rd 結核病棟での暮らし余談

 結核病棟での1ヵ月、過去のブログで語ってなかったことをつらつら書いていこうと思う。
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入院初日

 自宅の駅から西武線の清瀬駅まで、赤いキャリーバッグを引きずって移動した。遠いなあ。このままずっとずっと遠くまで行ってしまいたい気分だった。初めて降りる駅。タクシーで病院まで向かう途中、あまりの緑の多さに、逆に気持ちが落ち込んだ。「遠さ」が際立っていくような気がした。「ドナドナ」を口ずさみたいくらい自虐的な気分。これから待ち受けていることへの恐れと怯え。そのときの自分は、どこかに引き取られていく子犬の目をしていたに違いない。

最初の病院食

 入院したのが28日、火曜日の午前中。7Fの結核病棟まで上がり、病室とベッドをあてがわれる。新しい環境。最初に患者認識用のリストバンドを腕に巻かれた。退院時に切ってくれるのだという。ミサンガみたい。
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 すぐに昼食の時間。火曜日は恒例の麺物で、この日は蕎麦だった。どんぶりに入った蕎麦に、別の椀に注がれた汁をかけて食べる仕様だったのだが、つけ麺みたいにして食べた。周りもそうしていたからなのだが、これが大きな間違いだった。つけ麺の汁としてはあまりに薄味で、しかも麺はこれでもかというくらいくっついている。なんなんだ、ここのメシは、と。このときの印象があまりに悪くて、翌日から毎食撮影するようになったのだ。でも、あれはこっちの勘違いでした、すいません。あれ、ちゃんとした天ぷら蕎麦でした。
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ふりかけと味噌汁

 ふりかけとパックの味噌汁を持参した。これで命をつないだと言っても過言ではないほどwおとなのふりかけパックをひと月で使い切った。錦祥梅の差し入れをいただき、こちらも救われた思いであった。
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お見舞い

 最初のお見舞い客は、古川享師匠だった。5月5日、こどもの日。こんなとこまで、しかも結核病棟だし、誰も来てくれないとはなから諦めていたので、とても嬉しかったと同時に驚いた。ただ、ブログでは誰がお見舞いに来てくれたかは書かなかった。書くと、なんだか「来い」と言っているような気がして。自意識過剰なのかもしれないが、せっかく来ていただいたのに、ブログでほとんど明かしていないのはそのためだ。でも、お見舞いいただいた皆様、本当に感謝しています。気持ち的にどれだけ救われたかわかりません。ありがとうございました。
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差し入れ

 入院中いろいろな差し入れをいただいた。甘い物、クッキー、たこ焼き、お花、雑誌、本、DVD、衣類、iTunesカード、プラモ、ゲーム、フィギュア、お守りのお札。どれもありがたく、嬉しかった。お酒もいただいたけど、こちらは完治後の半年先まで楽しみにとっておきます。
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病棟施設

 病棟の中にはいろんな設備があった。コインランドリー(カード式だけど)、郵便ポストは東西に2ヵ所。売店に行けないので、リストを見て商品を注文するところ。同じ場所で散髪屋さんの出張を申し込むこともできる。浴室2ヵ所、シャワールーム2ヵ所。浴室といってもお湯は張ってないので、こちらもただのシャワールームである。そして東西2ヵ所のデイルームというくつろぎ部屋。東デイルームには書籍、西デイルームにはコミックが大量に置かれていた。食堂にはなぜか「人生ゲーム」や「ジェンガ」がなどのゲームが積まれている。“結核にかかって2回休み”とかのマスはなかったと思う。
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夕暮れ

 西の空が晴れた日の夕方は、秩父連山に沈む夕陽を西のデイルームから見ることができた。美しいと感じつつも、空全体が次第に藍色のグラデーションを濃くしていくのがもの悲しかった。
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DAY AFTER 2nd 入院中の食事の話、まとめ

 退院の朝のごはんをアップし忘れてた。特別メニューのパンケーキ。この日の朝の食堂は異常にパンケーキ率が高く、いい歳をしたおっさん(自分含む)たちがむはむはとパンケーキを一斉に食らう様は壮観であった。これにて入院中の全食事晒し完了。

5月27日 朝 特別メニュー
27朝


 ちなみに味付けは決して悪くなかった。ときどき文句は言ったけど、それは厚揚げが2個とか、痩せたししゃもが3尾とか、主にボリュームのことで、味に不満だったことは一度もない。まあ、基本薄味だったわけだけど。

 何かの暇つぶしにでもなれば、と思って始めた食事の撮影だったけど、最後まで続くとは思ってなかった。だんだん飽きちゃうし。1週目の公開のときにはたくさんのリプをもらったんだけど、2週目、3週目のときにはレスポンスが激減w まあ、見るほうも飽きるよね、パターン的にはほとんど同じなわけだし。でもね、アップしてるこっちはもっと飽きてるわけw そんな我慢比べみたいな病院食の驚かされた食事5つを。

1 朝食の主菜が厚揚げ2個
   居酒屋のお通しの残り物じゃねえだろうな

2 朝食主菜、痩せたししゃも3尾
   今どき、どこでこんな痩せたししゃもが手に入るのか

3 夕食主菜の付け合わせ、しわしわ空豆4個
   4個って・・・

4 夕食主菜の付け合わせ、ショボいししとう2個
   最初に見たとき、いんげんかと思ったほど

5 昼食、焼きそば
   圧倒的な比率の麺!

 いろいろありましたが、基本、美味しゅうございました。ほとんど残さず食べたしね。ごちそうさまー。

DAY AFTER 結核の本当に怖い話をしよう

 今日は少し怖い話になるかもしれない。なるべく主観を入れないように書いていこうと思う。結核という病気の怖さを、多少でも知っていただければ幸いだ。どうか最後まで読んでいただきたい。

 退院前日、実は背筋が凍るような出来事があった。喀痰検査で3回目の陰性判定が出て、退院許可が下りたときの話は何日か前のブログに記した。が、これには続きがある。

 吉報が病室に届いた1時間後、主治医が再び病室に現われた。「F岡さん、ちょっといいですか?」。今度は声に強さがあった。マスクをしているので表情全体はわからないが、厳しい顔をしていることは想像できた。もしや……、最悪の事態かもと一瞬考えたが、その思いをすぐに振り払う。そこでの主治医の話とは……その前に結核の治療法について簡単に説明しておこう。

 結核の治療は、基本的に複数の抗結核薬を長期間服用する化学療法である。現在は、イスコチン(イソニアジド)、リファンピシン、エブトール(エタンブトール)に加え、ピラマイドという4剤を同時服用するのが基本である。1剤だけだと、ある確率でその薬剤に対する耐性をもつ菌、つまり薬の効かない菌が体内に残ってしまう。これが耐性結核菌である。この耐性菌が再び増殖を始めると、これまで使っていた抗結核薬で結核の進行を止められなくなる。

 そこで結核の治療にあたっては、複数の抗結核薬を同時に処方する。イスコチンが効かない菌にはリファンピシンが作用する、といった形で相互に補完し、結核菌の殺傷漏れをなくすためだ。問題は、それぞれの薬には副作用があって、その症状次第では投薬を中断したりしなければならない。この場合、入院期間が一気に長引き、場合によっては4〜6ヵ月を要することもある。

 だから入院期間中は、副作用が出るかもという不安との戦いで、ときどきメンタルの安定を欠くことがあった。お見舞いに来てくれた人の前で、なかなか気丈にに振る舞えないときがあったのはそういう理由があった。どうかお許しいただきたい。

 が、副作用の問題はなかった。発疹も痒みも、手足の痺れもなく、肝機能のダメージは上限値をやや超えてはいるものの
許容範囲に留まった。塗抹検査もOK。何の問題もはずだ。では何が引っかかったのか?

 培養検査の結果が出たのだ。

 入院後に採取した痰から結核菌を抽出し、それを培養する。培養した結核菌に抗結核薬を与えて、耐性を調べるためだ。しかしながら、結核菌は発育が遅いために培養には時間がかかる。そのため退院前日になって結果がわかったのだ。その結果は、

ストレプトマイシン 耐性
イスコチン     耐性
リファンピシン  非耐性
エブトール    非耐性
ピラマイド    非耐性

 なんとイスコチンが効かない、もしくは効きにくい、耐性結核菌だったのだ。頭がクラクラした。主治医は、しきりに「申し訳ない」と繰り返す。日を置いて2週間の入院をして欲しい、一般病棟でいいので、と。たぶんそのときの自分は、泣きそうな顔をしていたに違いない。奈落に突き落とされたような気分だった。

 30分後、再び主治医と面談。治療方針が伝えられた。入院措置はなし、イスコチンを別の薬剤に変更し化学療法を続ける。その代わり、予定していた自宅近くの病院への通院ではなく、この病院の外来に通う。「頑張って治療していきましょう!」。最後は力強く言ってくれた。安堵したのは言うまでもないが、やはり言いようのない不安がずしりと残った。

 実はそんなやりとりがあった。そして怖い話はここからだ。

 僕はイスコチン耐性の結核だったが、希にリファンピシンも同時に効かない結核があるそうだ。これを多剤耐性結核という。この結核菌だと治療は難しくなり、また長期になる。幸いにしてリファンピシンが効いたので退院できたが、もしそうでなかったら、と思うとぞっとする。

 さらに、エブトールもピラマイドも効かない結核がある。超多剤耐性結核という。別の患者さんから聞いた話では、病棟内にひとりその患者さんがいるらしい。その人は病棟に20年間住んでいて、病室からまったく出てこないのだという。そう、これが一番怖い。申し訳ないが完治するまでは、お酒なんかとても飲む気にならないし、パンデミックなんて言葉を軽々しく使う気分にはならない。服薬を怠って、もしくは服薬ができなくなって多剤耐性結核にでもなったら、と考えるだけでただただ恐ろしい。

 もうひとつ怖い話をする。このイスコチン耐性の結核菌は、日本固有のものではない、という話を聞いた。ロシア、東南アジア、中国、そのあたりにわりと多いタイプなのだそうだ。今回、医師から出張履歴を尋ねられたのは、そういった事情からだろう。この話はこれ以上の言及は控えておくが、日本中がインバウンド景気で沸く中で、じわじわと結核のリスクが増大していることの懸念は伝えておきたい。

 あまり偉そうなことを言える立場じゃないけど、この話、できる範囲でお近くの方に伝えて下さい。

DAY30 退院の日、格別の日

 格別の日、というと本当に陳腐なんだけど、今日はこの言葉を使わせて欲しい。5月27日、清瀬の東京病院を退院した。入院からちょうど1ヵ月、月齢がひとまわりしたこの日、まさに“格別の日”になりました。

 本当に退院できるのだろうか、エレベーターで下りかけたところを「F岡さん、ちょっと」と呼び止められてまた病棟に連れ戻されるのではないか、そんな恐怖がよぎる。ロビー会計で退院手続きを済ませ、退院完了書を看護師に渡すためいったん病棟に戻る。この証明書と引き換えに、退院後1ヵ月間の薬が渡される。これで晴れて病棟を出られる! 再び1階に下りて病院玄関を出ようとしたとき、左腕に、患者であることを表わすリストバンドがまだついていることに気がつく。本当に出られるのか。またまた7階の病棟に戻り、看護師にそれを切ってもらう。願いが叶うときにミサンガが切れる、みたいなだな、と思う。駅まで向かうタクシーの中で、リストバンドのなくなった左腕をじっと見た。ようやく退院したのだという実感が湧いてきた。

 帰りの電車の中でも、こらえようのない笑みが漏れるときがある。周囲の人にはさぞかし不気味に映ったことだろう。外界のあまりの情報量の多さに、なかなか脳が処理しきれなくて、それがおかしくて思わず笑ってしまったのだ。

 懐かしい沿線、懐かしい駅、懐かしい緑道……そして、懐かしい家。一瞬、夢に思えた。目を開けると自宅の玄関にいた。僕はここに帰ってきた。

 帰宅して玄関のドアを開けると長男がクラッカーを鳴らして歓迎してくれた。愛猫に近づくといつもの低い鳴き声でニャーと鳴いた。リビングの中はひと月前とほとんど変わらない。ただ、カレンダーが4月から5月に変わっていた。

 ハタと思って1階に下りて、父と母の位牌に手を合わせた。初めて涙が出た。

DAY29 2nd ポプラの綿毛が舞う季節と退院前日

 今日から7階の結核病棟から出てもかまないことになった。退院許可は出ているけど、1ヵ月分の薬を揃えたり、入院費の計算などなど諸手続に時間がかかるので、退院は明日。だから、病棟でのラストデイは、病院の中の散策にあてた。

 ずっと行けなかった2階の売店。7階エレベーターホール前の吹き抜けの窓から見えていた「売店」2文字の看板のところへまず行ってみた。「2階に松屋があるよ」と聞いていたが、行ってみると、それは売店で売っている松屋の弁当のメニューだった。入院中ずっとお世話になった「VC-3000のど飴」もある。この日が発売日だった紙版週刊アスキーの最終号を買う。

 1階に下りて病院の正面玄関を出る。初夏の空気。風が顔にあたる。こんなに気持ち良かったっけ、外気って。深呼吸2つ。7階のデイルームから見ていたポプラの綿毛がたくさんを落ちている。この無数の綿毛が窓の外をふわふわと舞っている景色を、この先何度も思い出すと思う。

 退院して何を食べようか。入院したとき、退院時にはそんなこと考えてるかな、と想像した。でも全然違った。食べたいものはあまり思いつかない。今はただ、自宅のお風呂にゆっくりとつかりたい。ホント、それだけでいいよ。長かったー。
Profile
F岡
19世紀末、ハプスブルグ家の末裔として生を受ける。3歳の時、ジャーナリズムに目覚め、5歳でル・モンド紙の編集デスク。6歳で、ネアンデルタール人との出会いと愛を描いた私小説『わたしのネアン』が、世界で5億人に読まれるメガセラーとなる。7歳のときに描いた落書きは、のちにキース・ヘリングに多大な影響を及ぼした。その後、日本の平凡な夫婦の子供となり、凡庸な青年時代を過ごし凡庸な大人となる。97年から『週刊アスキー』編集長。2003年より同誌編集人。座右の銘は「楽に生きる」。
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