「物語」の置き所とF岡式消失点

メディア論とか教育論とか語るウザいブログだけど時々いいことも書くよ、60代だから

またまたの再出発だけどね

いろいろ考えた末、やっぱり区切りをつけるために書くことにした。この2年間のこと、特に今年の6月から始まった62年間の人生でもっとも過酷だった3ヵ月のこと。消えていった希望や夢への門火として、少し長くなるけど淡々と記しておこうと思う。



まず、2017年8月に起業したUEIエデュケーションズという会社は、8月末付けで清算手続きに入りました。2年前、秋葉原プログラミング教室の運営を引き受け、その後、教室の拡充、フランチャイズ化、プログラミング教材の販売など、様々な試行錯誤をしてきましたが、数字という形の結果はついに出ませんでした。今年の春以降、キャッシュフローがキツくなり、資金調達のためにいくつもの提携候補先、金融機関をまわり交渉を重ねましたが、必要としている資金の目処は立ちませんでした。

経営の失敗です。経営者としてあまりに無能でした。

事業企画書や教材サンプルを抱えて、目先のキャッシュのために歩き回る様は、われながら無様だな、と。そう思うと妙なおかしさがこみ上げてきて、電車の中でひとりくすくす笑い出したこともありました。気持ち悪いですね、っていうかオレ、ヤバい。キャッシュがショートしそうという現実は、経営者のハートを高性能のカンナのように削っていきます。しゅっしゅ、という削り音が幻聴で聞こえてくるくらいです。しゅっしゅ。

週刊アスキーを立ち上げたとき、半年で3億くらいの赤字を掘っても全然へっちゃらだった自分が、100万円足りないだけで恐ろしいくらいに心折れていきます。電車に乗っていても、なぜか、消費者金融や葬儀屋の広告ばかりが目に入ってきたり、どこかで起こった人身事故に急にドキドキしたり。手のひらにじっとりと汗をかくことも多くなりました。自律神経が相当にまいっていたようです。

7月に入って、会社を清算するという判断がなされました。自己資金と金融機関からの借り入れで会社を存続させるという方法もあったのですが、結果的にこの清算という判断は極めて正しかったと思います。

秋葉原プログラミング教室の教室事業は、教材の取引先でもある静岡のライトハウスエデュケーション社で引き継いでいただけることになりました。教室に通う生徒さんたちにいささかの不便もかけないこと、これが大前提としてあったので、ライトハウスエデュケーションさんに教室運営を受けていただいことで、3000年分の安堵を得たような思いでした。本当にいくら感謝してもしきれません。一方、プログラミング教材の開発と販売については、自分で事業を継続することにしました。

7月中旬、合同会社スノウクラッシュという会社を設立しました。この会社で、引き続きプログラミング教材の開発を行ない、販売を続けていこう、と。自教室も含めてまだ30セットほどの販売実績しかありませんが、最近は引き合いも増えてきており、ブース出展した6月の教育ITソリューションEXPOでの反響もかなり大きいものでした。さらに大手の学習塾への納入も内定しており、年内を慎重にドライブできれば、年明けからは待ちに待った大きな「数字」が出せる見込みでした。シミュレーション上は。

そんな絶望と希望が高速で入れ替わり続ける中で、ひょんなことから鎌倉宮でのステージの演出を任されることになりました。「鎌倉宮奉納ライブ」です。

https://blog.piapro.net/2019/08/mo1908291.html

大阪、札幌、鎌倉と打ち合わせを重ねながら基本設計を終え、今はその仕込みに没頭しています。そうしながら、身体にたまった澱みたいなものが少しずつ排泄されるような、不思議な感覚になります。結局、また、コンテンツの世界に戻ってきた、そういうことなんだと思ってます。

こちらのほうも関わっています。

https://www.onvisiting.com/2019/08/29/tokyo-ikenohata-20190920-21/

「アーツアンドスナック運動ーー池之端仲町をひらく二日間」
東京文化資源会議のプロジェクトのひとつとして開催されるこのイベントで、Vtuberスナックというのを2日間実施します。詳細は来週の発表になりますが、こちらもまたまたコンテンツ系のお仕事(手弁当でやってますが)です。


さて、新会社の主力事業として位置づけているプログラミング教材の販売事業ですが、9月はいささかしょっぱい出足となりました。想定していた数字とは2桁違っていた、というのが正直なところです。が、どこかで覚悟はしていました。なので、それほど落胆も絶望もしていません。この事業のために、老後の蓄えをすべて投下しましたが、これを使い切ってザ終了となる悲しい未来も想定せざるを得なくなりました。でもまあ、あと2年もすれば年金が支給される年齢となるので・・・w

とまあ、いろいろありましたがとにかくまたまたの再出発です。ご心配もご迷惑もおかけしたことは重々承知しています。それでも生きていくほかありません。なので、もう少し足掻いてみようと思います。


ちなみに今回の教訓はこんな感じ
・起業は若いうちに。60歳過ぎて資金繰りに追われるの想像以上にキツい
・キャッシュフロー最強。資本主義社会のラスボスはキャッシュフローだと思う。マジで強えし誰も逆らえない。
・「失敗の本質」を読んでいても失敗するときは失敗する

2018年のこととこの先のこと、または20年に一度のアレ

2018年を振り返るブログを書いているうちに年が明けて2019年になってしまい、雑煮食って駅伝を観てるうちに三が日が明けてさらに松の内も暮れなんとするこの時期、久々のブログですが新年あけましておめでとうございます。

最初に昨年のことを少しだけ、いや存分に振り返っておこうと思う。

一昨年、shi3zからプログラミング教室のほうを見てくれないかと言われ軽い気持ちで引き受けたところ、とてもとても大変な展開になり、それでも教室を開ける新しい場所を探さなくちゃと一昨年の暮れに都内の物件をあちこち探し回った挙げ句、現在のところを見つけたのだけど入居できるのは2月からということで放浪の民として新年を迎えたのがちょうど1年前。文章長い。ふう。そんな新年のスタートだったが、翌2月には、上野広小路駅、湯島駅どちらからも徒歩2分、おまけに湯島天神の男坂に続く“学問の道”沿いというこれ以上はない好立地でプログラミング教室を始めることができた。

が、そんな歓喜も束の間、前年から最重要施策として進めていたフランチャイズの取り組みがご破算になる。フランチャイズをやりきれる組織的な体力が備わっていない、というのが唯一の理由だ。経営の教科書に出て来そうな失敗例で、これについては本一冊書けそうなくらいのネタがある。とはいえ、大きな失敗に至る前に方針を転換することができたのは周囲のアドバイスによるところが大きい。もうちょっと早く言えよ、と多少は思っているにしてもw とりあえず崩壊確実な橋を半分渡ったところで引き返すことができた。まだ少しはツキが残っていたらしい。

ただ、モチベーションのほうはというと、限りなくゼロになっていた。昨年のことだから勝手に時効を宣言して言うけど、気持ちも95%は離れていた。

それでもプログラミング教育の世界に留まったのは、5月に教室として出展した教育ITソリューションEXPOでの反響の大きさに心動かされたからだ。実はその前年の秋から取り組んでいたことがあった。

教材の一新、リニューアル。というよりも新教材の開発だ。教室でずっと使用してきた教材は、カリキュラムの狙いや、題材となるプログラム自体はよくできているのだけど、肝心のテキストに不具合が多かった。文脈の前後関係の解読が難しかったり、そもそも日本語としておかしいテキストがざらにあった。断わっておくが、だからと言って教室で間違った教育をしていたわけではない。face to faceの授業では、テキスト部分の間違いは実はそれほど問題にならない。随時、講師がその誤りを訂正し、受講者のレベルに合わせて正しい文脈を提示、指導することができるからだ。そして、それができる有能な講師が秋葉原プログラミング教室には揃っていた。

しかしながら、この教材を元にフランチャイズを展開するとなると話は別だ。すべての教室にこちらの講師を送り込むことは不可能で、それはつまり、教材の間違いは、当教室が提供するカリキュラムの不備に直結する。

ということで、教材の改修に早速取り組んだのだが、ある単元の改修作業を通してわかったのは、テキストの一部分を修正するとそこに連関するほかの部分も修正が必要になり、結果的にほぼ全文を書き換えなければならないことだった。編集者が時折向かい合うことになる、いわゆる“どうしようもない”原稿である。編集長時代、そういう原稿や初校を読んだとき、担当者の目の前で原稿用紙をまるめて屑籠に投げつけたり、ビリビリと初校用紙を真っ二つに裂いたりしていた(本当)。ま、今ならパワハラで即刻厳重注意大炎上的なアレなんですが。

であれば、イチから新しいカリキュラムを作ろう、しかも本屋さんに並んでも恥ずかしくないクオリティの教材を。これが実質的な出発点となった。

もうひとつ、いくつかの地域でフランチャイズ展開のための交渉をしているときにわかったことがあった。それは、プログラミングを教える人がいない、という致命的な問題と、プログラミングをどう教えるかがわからない、という必然的に帰結する問題だった。ここを解決しない限り、日本のすべての地域でプログラミング教育をやっていくなどできるはずがない。だから、新しい教材は次の2つの方針で作ることを決めた。

従来の自学自習教材を踏襲しながら単元ごとのテーマを明確にする
教える側に向けた、わかりやすい「解答と解説」を新規に開発する

ちょうど1年前から、この新教材・新カリキュラムの開発を本格的にスタートさせた。が、当然のとだが、この新教材の開発には時間がかかる。先行投資であり、その回収にもかなりの時間が必要だ。なにしろ、それは教室ビジネスじゃなくてメディアビジネスなのだから。この点について、教室のスタッフと共有できるかどうか、また会社側の理解を得られるかどうか。あれ? この構図っていつか来た道に似てない? EYE・COMの週刊化を企図したときに。

フランチャイズの方針を取りやめたことで、新教材の開発コストが、固定費としてずっしりとP/Lに乗ってきた。これは痛かった。フランチャイズを展開しないのであれば新教材の開発は最初からやっていないわけで、大気圏外に出るためにロケットエンジンを作って積んだのに、やっぱ出なくていいや普通のジェット機のままで、と言われたのに等しい。どうするんだよ、このロケットエンジン。

ま、新教材のほうは作りかけだったから、そんなに莫大なコストがかかってたわけではなかったのだけど、フランチャイズ展開の中止を受けて、早急に次の方針を策定する必要に迫られた。昨年4月のことだ。新教材の開発を中止するか、継続するか。それは秋葉原プログラミング教室をどう定義するかに直結する極めて重大な決断になる。そして、3日ほど考えに考えて、ふと思いついたアイデアが、新教材の販売という実にシンプルなビジネスモデルだった。

そこから書き上げた事業プランは雑ではあったが、いつもの一点突破全面展開的な自分らしい企画書だった。これが受け入れられなければ再び無職生活に逆戻りしいよいよ引退したのち山中に方丈の庵を編んでKADOKAWA時代の恨み辛みをねちねちと書きながら世を儚んでやる、と思っていたのだけど、意外にもあっさりとOKが出た。5月末のことだ。

ちなみに、その月に出展した教育ITソリューションEXPOでは、先に書いた教材作りの指針に、来場者の多くから賛意や共感の言葉をいただいた。今すぐ見積もりをしてくれという会社もあった。コンセプトとシラバスだけで、具体的なものはまだ何もできていないというのに。

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秋からはいくつかの会社と打ち合わせや交渉が始まった。また、教室自体はそんなに力を入れてPRをしていないのに、毎月、新しい入会が相次いだ。教室は俄に活気づき、昨年末にはキャパシティの関係から1クラス制から3クラス制にせざるを得なくなった。そんな中、10月には最初の新教材4単元分が完成する。本気で「ロケットエンジン」ができちゃったのだ。Aries(牡羊座)と名付けたその4単元のパッケージは、その星座の月である今年4月にいよいよ正式リリースとなる。

さらに、

教える人を養成するための指導者育成カリキュラム・教材も開発する
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という方針も昨年暮れに追加した。
とまあ、言えるのはここまでかな。

週刊アスキーを創刊したのが1997年の11月。試行錯誤を続けながらも鳴かず飛ばずだった1998年。その年の秋に大胆なリニューアルを決断し、コアスタッフと思いを共有し、西さんと取締役の前で机叩いて大見得切ってw そこまでして臨んだ1999年。あれからちょうど20年。あのとき言ったことをもう一度言おう。

20年に一度、本気出すw

それが今年、2019年です。なので、みなさんよろしくお願いします。
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富士山ミクライブとあぴミクさんと夏の終わり

秋葉原プログラミング教室の事務と雑用のすべて担う、謎のおっさんK氏が清水港までファンメイドの初音ミクライブを観に行くというので、ついていくことにした。8月19日、日曜日。久々の愛車による遠出、7月はエンジンの不調に悩まされたが、きっと大丈夫だろう大丈夫に違いない途中で急にニュートラルになったりローギアから切り替わらなかったりすることなどもうないはずだ、あ、このことはK氏には黙っておこう。「F岡さん、クルマの調子、おかしいとか言ってませんでした?」「全然」「エンジンがときどき止まるとか」「全然」。
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天気は快晴。厚木までの渋滞を抜けると、この時期には珍しく富士山が頂上から裾野まで見える。五合目あたりにスッと横にたなびく雲が浮世絵の構図みたいで美しい。

東名高速はかなりの渋滞があったものの、清水港へは2時間半ほどで着いた。ビール飲んだり、痛車を見たり、ビール飲んだり、痛車を見たり、ビールを飲んだり。時間が延々とループする夏の午後。そのうち陽も落ちて、ミクさんが降臨するかわたれ時になった。

ウイングをフルオープンにした大型トラックの荷台に、約2メール四方のディラッドスクリーン。その左右には楽器を演奏するスペース。アスファルトの上にドンと置かれた巨大なウーハー、音響機材がハンパない。観客は300名ちょいくらいだろうか、手にはもちろん緑に光るキンブレ。高田夜桜ミクライブのチームが手がける「富士山ミクライブ」。

1曲目の「こっち向いてBABY」が始まった。と、ずっとスクリーンに見入ってしまった、いや、そこで歌って踊っている“あぴミク”さんに視線と気持ちのすべてが釘付けになった。あのとき沸き上がった感情をどう表現したらいいのだろう。

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「久しぶりだね」
「元気にしてた?」
「かわいい服着せてもらってよかったね」

あぴミクさんが出ることは知ってたのに、なんだろうこの動揺。生き別れた娘に再会したとかいうわけではないのに、心の揺さぶりが止まらない。ヤバい。

プレビュー公演を入れて10日間、あぴミクさんと夏の秋葉原を駆け抜けてから5年。忘れかけていた、忘れようとしていた夏がくっきりと蘇る。

終演後、ライブを作り上げた2人のクリエイターさんと少しだけ話をすることができた。今回の映像とモーションを担当したとのことで、両名ともになんと20歳の若さ。驚いたのは、この2人の若者がともに5年前の『夏祭初音鑑』を観てくれていたことだ。初音鑑にとても刺激を受けた、とも。

高田夜桜のチームを率いるまぐろさんも、実は初音鑑を観たのがきっかけでファンメイドのライブをやろうと思った、と話してくれた。感激、という以外に言葉が見つからない。あぴミクさんを大切に扱ってくれた上に、そんなことまで言われればね、もう・・・。

やっと5年前の夏を終わることができる。そう思った。ありがとう。


そう言えば、今日は『夏祭初音鑑』の千秋楽からちょうど5年だったね。

20世紀の墓標について書いてみた 2

毎週土曜日の午前中、秋葉原プログラミング教室ではAIプログラミングコースを開講している。動画と自学自習による授業なので、全員が真っ白な椅子に腰掛け真っ白な机の上に置いたノートパソコンに黙々と向かう。静かだけど次第に微かな熱量が伝わり、やがて熱気と化していく。そんなAIプログラミングコースの授業が、月に一度だけ、のっけから高い熱量で吹き上がっていく日がある。UEI代表の清水亮氏がAIの最新技術動向について直接講義を行なう回だ。本来は90分の講義なのだが、時間がオーバーしなかった日はない。講義終盤には、熱気は熱波となり、熱の波動となって教室内の体感温度を容赦なく上昇させていく。この講義だけで、月に3万2000円の授業料は安いのではないか、と思う。あ、教室の責任者のオレが言うと自画自賛になっちゃうか。


先日、そんな清水氏の授業の中で、とても印象に残った話がある。“自然言語”と“文法”の話がそれだ。

この話は、2週間ほど前の、「今週は暑かったのでうちの会社はサンダル出勤OKだった」という呟き(この呟き自体は事例なのかな?)に対し、この意味がわからない、とする人が一定数存在するという投稿が先にあり、これ対するリアクトがほどよく炎上気味に熱を帯びたことによっている。

Twitterには「文字は分かるが文は読めない」という人が一定数存在する話


ちなみに編集者として見れば、この事例となった文章はいただけないのは言うまでもない。編集部員がこんな文章を書いてきたら、僕はその場でビリビリと原稿用紙を破くだろう(20年前の自分であればですが、今ならパワハラ確定案件)。が、これはおそらく、グーテンベルグの呪縛なのだ。

マクルーハンは、活字文化こそが人間を抑圧していると主張した。活字印刷というテクノロジーが、国語や文法の統一を加速させ、それまでの口承文学と入れ替わる形で、印刷本の上に綴られる近代文学が発展していった。重要なのは、きちんとした文法が先にあったわけではなく、あとからスタイルが確立されていったということだ。大量に流通する印刷物、つまり活字出版物がそれを必要としたからだ。が、このことに僕らは無自覚だ。「誰が水を発見したかは知らないが、それが魚でないことだけは確かだ」と言ったのもマクルーハンで、自分たちがどれほど活字文化にどっぷり漬かっているか僕らは知らない。

ちなみに上に書いていることは、すべて服部桂氏の新著『マクルーハンはメッセージ』の中にすべて載っている。




民俗学者の柳田国男も同じようなことを語っている。
「・・・印刷という事業は社会文化の上に、怖ろしいほどの大きな変革をもたらしている。以前双方がほぼ歩調をそろえて、各自の持場を進んでいたものが、瞬く間に両者その勢力を隔絶してしまった・・・」と語り、印刷技術の発展に伴って、「口承の文芸」が衰退してきていることを嘆いている。ちなみに、この部分は野家啓一『物語の哲学』からの引用である。“「物語の衰退」の一因は文字の普及と印刷術の発達にあった”、と。

物語の哲学 (岩波現代文庫)
野家 啓一
岩波書店
2005-02-16



野家の言葉を借りるなら、冒頭の「炎上」した呟きは「音声言語」であって「文字言語」ではないのではないか。つまり、「発話状況の共時性と文脈依存性を超えた通時的伝達」に属するものだ。だから、言葉の意味が「わかる」か「わからない」かの二項対立はまったく不毛だし、それこそ意味がない。

人が発するこうした曖昧な言葉を解釈しようと試みるAIの研究は、だから面白いと思うだけど。



それにしても、20世紀のアメリカのメディア学者と日本の民俗学者のこのシンクロはとても興味深い。一方は、電子メディア(それはテレビだったのだが)の時代を予見し、一方は、口承文芸の復権を試みた。少し本腰を入れて研究してみたいと思う。

20世紀の墓標について書いてみる1

中学校に入学したのは12歳のときだから、今からうーん、えーーーーっと、まあ半世紀近く前のことだ。当時は(今も?)誰もが部活をするのは当たり前、みたいな雰囲気があって、どういうわけかバレーボール部に入部した。背も低くいし、運動オンチだし、そもそも運動部向きの性格じゃないし。入ると毎日、一列に並んで声を張り上げるだけとか、雑用とかそんなのばっかり。結局、長続きせず1学期で辞めた。2学期はバレーボールよりは楽そうに見えた卓球部に入部した。入ってからはひたすら素振りとウサギ跳びをさせられる毎日で、卓球台に近づくことすらできなかった。今思えば、卓球台の数が圧倒的に足りてなかったのだろうと思う。

日大アメフト部の一連の騒動は、本筋の問題を離れて、そもそも体育会的なもののあり方や運動部の体質ってどうなのよ、みたいな話になっているのが興味深い。「理不尽な指導」という言葉が使われる。理不尽。きっと今の50歳以上(もしかすると40歳以上?)の世代の多くは、卓球部であればピンポン球さえ持つことなく、テニス部だとコートに一度も立つことなく、ひたすら素振りと球拾いとウサギ跳びをやらされた「理不尽」を体験したことがあるのではないだろうか。

これほどまでに日大の話が延々とメディアで報じられたのは、メディアの側が「バカ」なのではなく、あのときの「理不尽」を消化できないまま大人になり、その後も社会の「理不尽」と付き合ってきた自らの半生を、日大アメフト部の学生たちに重ね合わせているからではないか。そう思えてならない。メディアは、われわれの今なお消えていない「理不尽」と同質のものをちらつかせうまく掬い取っているのだ。

それは今の40代以上が仕方なく付き合ってきた20世紀の残滓だ。この20世紀的なものの多くが今、終わろうとしているように見える。いや、終わらせなければならない。

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*写真はイメージでごわす

モーガン・フリーマンとジョン・ラセターは、前世紀ではおそらく問題にならなかったであろうハラスメントが問われて、謝罪や退職に追い込まれた。日本ではレスリングのあの監督、そして今回の日大アメフト部の元監督とコーチ。財務省元事務次官のセクハラ事件なんてのもあったっけ。

中学生のとき、田舎の駅の連絡通路を歩いているとき、反対側からやってきた二人組の中年サラリーマンのそのひとりが、自分の少し前を歩いていた若い女性のお尻をポンと叩くのを目撃した。女性は小さく悲鳴を上げ、中年男性たちは何事もなかったかのようにそのまま歩いていった。しばらくすると後ろからその男性たちのスケベそうな笑い声が聞こえてきた。女性のほうも足早にそこを立ち去った。45年前のことだけど、あのときの嫌悪感とかやり切れなさをどう言い表わしたらいいだろう。

20世紀的なものをどう終わらせるのか。終わるものの中にはもちろん自分自身の一部が組み込まれている。この終わり。ケヴィン・ケリーの言葉を借りれば、「本の民」の終焉について、あと何回かつらつらと書いてみようと思う。

ちなみに、日大の理事長は姿を隠していれば騒ぎはいずれ収まると思っているのだろうけど、ネットに一度放り込まれた「炎上」は、相手の燃料が切れるまで燻り続け、いつでも第2第3の炎上を用意している。それまで大学のブランドは少しずつ毀損し続けるだろう。そこでオレを講師に雇(自粛)。

母の日と習い事と三十三間堂

母は書道に秀でていた。ペン習字も得意で、毎年届いていた年賀状も達筆すぎて読めなかったほど。その息子はというと、ペン習字の塾は途中で逃げ出し、習字は小学2年生のときに市のコンクールで金賞をとったもののその後まったく努力せず、以来、半世紀、美しい字とは無縁の生活を送ってきた。才能は遺伝も伝染もしなかった。

生け花も、母はかなりの腕前だったようだ。「ようだ」と言ったのは、4年前、母の遺品を整理していたとき、師範代の免状が出て来たからだ。そう言えば、玄関先の花は、居間にたくさんの切り花を並べて、いつも母が設えていたことを覚えている。これまたその息子は、母が挿す剣山で遊んでいて叱られてばかりいたように思う。

習い事の好きな母だった。晩年、初めてワープロ専用機を手にしたときも、嬉しそうにキーボードを打ちながら、ワープロ教室に通うてみようかしら、とか言っていた。そのワープロのほうは、ほどなく父がくも膜下出血で倒れ、その後の看病と付き添いのために、残念ながら放ったらかしになってしまった。

11年前、小唄と三味線を習い始めたとき、母はとても喜んでくれた。どこどこのおばあさんも三味線をやりょったんよう。いや、そういう情報知ってもうれしくないからw 同時に、どんな習い事も長続きしたことのない息子が、多少心配ではなかったのかと思う。あんたはほんまに長続きせんなあ。呆れかえる母の表情がすぐに想像できた。中学高校時代は毎年部活を変えていたし、20代は3年ごとに会社を移り変わっていた。そりゃ、呆れるのも無理はない。

4年前の夏、母は帰らぬ人となった。その年の暮れ、小唄の師匠から名取のお話しをいただいた。

母が生きていれば、いの一番に知らせただろう。あの飽きっぽくてどんなことも長続きしない堪え性のないあんたのセガレが、なんとお名前をもらえることになったよ!

翌年の名取式は、あろうことか結核を患い、出席することができなかった。が、あれから3年後の今年、師匠と神田明神宮司のお許しを得て、改めて名取りの儀を催していただいた。ただただ、うれしかった。

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「三十三間堂」という小唄がある。浄瑠璃「三十三間堂棟木由来」の名場面、柳の精である母が元の柳の木に戻り、三十三間堂の普請のため運ばれていく、その一場面を歌った唄だ。何年か前、この曲をおさらい会で披露したとき、当時、認知症が進んでほとんど寝たきりになってしまった母を思い浮かべながら歌った。会のあと、何人かの方から「三十三間堂、なんか凄かった」「じーんときた」というお褒めの言葉をいただいた。ちなみに、唄を誉められたのはこのときだけだ。

形あるものはなくなっても、共有した時間と思いはずっと生きている。さ、白のカーネーションでも買いに行こう。

社会人1年生のこと、社会人1年生だったこと

今朝、パタパタと慌ただしく長男が家を飛び出していった。驚くほどサマになっていないスーツ、寝癖のついた髪、そのくせ異常に真新しい鞄。どれをとっても新社会人のタグが貼られるに違いない。これで食パンを咥えて駅まで走れば、アニメの定番表現だなと思いながら、その様子をにまにまと眺めていた。が、自分が、どこか誇らしく、晴れがましい気持ちであることに気づく。彼が中学に合格したときも、大学に入学が決まったときにもこんなふうに感じたことはなかった。息子がやっとこちらの仲間になった、そんな思いからだろうか。

38年前、自身の社会人1年生のときのことを思い出す。就職して初めてのゴールデンウィーク、そう言えば親父は、帰省した僕にやたらと「仕事はどんなじゃ?」とやたらと笑顔で何度も聞いてきたっけ。あのときの父もきっと今の自分と同じ気持ちだったのだと思う。世代の受け渡し。人はこんな営みをずっとずっと続けてきたのだ。それは、晴れがましく、微笑ましく、細やかな希望と一抹の寂しさと、それらが適度に攪拌されたような感情だ。

父とシンクロする気持ち。その父のことを思い出す。

ちょうど12年前の今日、岡山市内の病院に、父を見舞いに行っていた。原因不明の貧血のため、精密検査のために入院していたのだ。病室からは中庭の貧弱な桜の木が見えた。満開の桜を見て、「来年も見えるじゃろうか?」とぼそっと父はつぶやいた。「何を言うとるん」と母も僕も盛大に笑った。でも、その30分前、担当医師からは父の余命は3か月から半年と言い渡されていた。不応性貧血という難病だった。医師の宣告通り、父はその半年後、還らぬ人となった。

臨終の3日前に父の見舞いに行った。そのときには、身体はツラそうだがまだ意識ははっきりしていて普通に会話ができた。危篤の報せを受けて東京からほとんどとんぼ返りで岡山に戻ったときには、会話などとてもできる状況ではなかったので、そのときが、10月の1日か2日だったと思うけど、父と最期に交わした会話になった。

もしかしたら父と会えるのはこれが最後かと思うと、なかなか病室を去りがたかった。そんな僕を見て、父はこう言った。
「もうええから東京に帰れ。おまえはここにいちゃあいけん」

「うん」としか返せなかった。

東京へ戻る新幹線の中、ジャケットでずっと顔を覆っていた。隣の席の人にはきっと気持ち悪かったと思う。


4月、桜が散り、そのあとに新緑が芽吹く。新しい季節、新しい世代。言葉にするとふっと消えていきそうなこの喜びを、来週、父の墓前に届けようと思う。みんな、頑張ってるよ。

物語の終わりと西部邁のこと

少し前から“物語の終焉”について考えている。物語はどうやって終わるのか、というより、何をもって終わりとなるのか。もしかしたら恐ろしく間抜けな問いかもしれない。考えるきっかけとなったのは、野家啓一先生の『物語の哲学』と、西部邁氏が自ら命を絶ったことだ。

“人間は「物語る動物」あるいは「物語る欲望に取り憑かれた存在」”である。野家先生は『物語の哲学』の序文で、きっぱりと断言する。“それゆえ、われわれが「物語る」ことを止めない限り、歴史には「完結」もなければ「終焉」もありはしない”のだ、と。歴史も虚構も「物語的事実」なのだ。

物語的事実としての人の一生、その「終焉」について思いをめぐらすうち、懐かしい光景に思い至った。

10年ほど前、西麻布の交差点から渋谷方向へ少し坂を上がり、細い路地を右に折れてさらに左に曲がったところに、『ゼフィーロ』というフレンチレストランがあった。奇跡のレストラン。そう呼ぶ人もいた。一軒家、隠れ家的な立地、豊富な品揃えのワイン、なによりそこのシェフの作り出す料理は、すべてが美しく文句なしに美味しかった。僕はその店の常連だった、つまり、そんな極上の店にも関わらず、勘定はあり得ないくらい安かった。
ある日、いつものようにお店に入り窓際の席に着くと、奥のほうに初老の男性のグループがいた。みんな和やかに笑って食事をしワイングラスを傾けている。その中のひとりに見覚えのある顔の男性がいた。西部邁だった。当時、保守思想の権化のような存在として、テレビや雑誌で幅広く活躍していた武闘派評論家。その西部が、テレビでは一度も見せたことのないような満面の笑み、時に声を上げて笑っていた。
実は、その店、ゼフィーロは、西部の息子である西部一明氏がオーナー件ギャルソンを務める店だった。
「お父さん、楽しそうですね」
「そうなんです、時々来てくれるんですけど、いつもあんな感じではしゃいでるんです(笑)」と一明氏。
転向者の誹りを受けながら、歯に衣着せぬ物言いで孤高のスタンスを貫く凶暴な保守評論家。それが西部だった。が、西麻布の瀟洒なレストランで見た西部の屈託のない笑顔は、そんなメディアから受けた西部の印象を一変させるものだった。息子が立ち上げたレストランで、楽しそうに食事する普通の父親。

今年1月21日、その西部邁が多摩川に飛び込み、自ら命を絶った。正直、何の思いも起こらなかった。ただ、あのときの幸せそうな西部の顔を思い出していた。

あの幸せな光景の7、8年後、西部は奥さんに先立たれたのだという。それが自殺の理由ではないか、そう伝えるマスコミもあった。

西部がなぜ自らの物語を終わらせたのか、ずっとよくわからなかったのだが、5日前にこんな報道を目にした。

【西部邁さん「自裁」に深まる謎 口の中に瓶、体にロープ 留守電に異音 タクシー使わず移動?】
http://www.sankei.com/affairs/news/180319/afr1803190001-n1.html

自殺を幇助した者がいるのでは? という記事だった。事実とすれば、物語の終焉に立ち会った者がいることになる。最期の句点を打っただけで、物語は終わりにならない。誰かが、その句点を見届けて初めて終焉となる。立会人、見届け人、それはつまり「編集者」だ。やはり、西部はそのことがわかっていたのだ、と思った。

西部が身を投げた橋の欄干に立ち、入水したときの西部の絶望に思いを馳せた。が、それを見届けた者がいたのだとしたら、その絶望は、彼の中では限りなく幸福を感じていたのではなかったか。なにしろ、物語の最後に、その最期を物語る姿を見せられたのだから。

秋葉原プログラミング教室、新教室のお披露目会

秋葉原プログラミング教室、新教室のお披露目会を無事終えることができました。ホントに大勢の皆様にお越しいただき、心から感謝です。ありがとうございました。

と言ったものの、実はホスト役のワタクシが当日はインフルエンザに罹っていることがわかり、まさかの欠席。会を呼びかけた本人が不在とは・・・。なので、感謝の前に、まずは深く深くお詫び申し上げます。すいませんでした!

それから、自分の代わりにホスト役を果たしてくれた清水氏には本当に感謝です。トークセッションでは古川さん、遠藤さんの濃ゆい話も聞けて、2人にも感謝のしようがありません。あ、実はスタッフがつなげてくれたskypeでこっそり見てました。


トークセッションの途中で古川さんが仰っていた、“天才と言われた人に共通していることがある、それは子どものころに、ねじ回しがあればなんでも分解したことと、百科事典を端から端まで全部読んだ体験」というのがとても印象に残っている。それって、教育学者、キエラン・イーガンの言う「物語的想像力」の話だと思った。プログラムをただ創る(creation)のではなく、プログラミングによって変わる未来を想像する(imagination)こと。それが成し遂げられれば、僕らのこの試みの成功が見えてくるに違いない。

そんなわけで、60代、頑張ります。

*まだまだお呼びできていない皆様、この先も何度かこうした会をやっていきたいと考えてますので、その際にはぜひお越し下さい。よろしくお願いします。
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というわけで、お披露目会で配布した、当日のワタクシのあいさつぶんを下に載せておきます。


みなさん、こんばんわ

今日はお忙しい中、当教室のお披露目会にご参加いただき誠にありがとうございます。日頃の悪行が祟ったのか、一生に何度もないであろうこんなハレの日に、インフルエンザに罹ってしまいました。大変申し訳ありません。

そう言えば、ここ10年以上続けている小唄と三味線ですが、3年前に名取りを襲名しました。で、神田明神での名取り式に臨むことになっていたのですが、ちょうどそのとき、肺結核を患って絶賛隔離中だったため、このときもハレの席に出ることができませんでした。後日、お弟子さんのひとりがその名取り式の写真を送ってくれたのですが、未だにそれを見ていません。きっと「悔しい」んです、僕は。

「悔しい」という言葉は、母親の口癖でした。テストの点が悪かったとき、「悔しくないん?」「悔しいいう気持ちがないん?」と、よく怒られました。母親の悔しさが子に伝染した瞬間です。「嫉妬」とも「敗北感」とも異なる、この「悔しい」という気持ち。そんな決してポジティブでない言葉から、僕はずっと目を背けてきました。自分の行動の源泉は、そんな負のエレルギーじゃないと、そう思い続けてきたのです。今流行りの言葉で言うと、心の景色を意図的に書き換えていたように思います。

3年前、肺結核での隔離療養中、病院の最上階から外の景色を夕方、毎日眺めていました。所沢あたりの夕景、高尾山の向こう側に沈んでいく夕陽。まだ赤々とした西の空から天上付近の漆黒までのグラデーションがぞっとするほど美しかった。自身がこの闇の中に埋もれていくような感覚。でも、怖くはありませんでした。そんなことより、ここから出られないことが、どうしようなく悔しいと思いました。そう、このとき初めて、本当の「悔しさ」を知ったように思います。


昨年の5月、UEI代表の清水氏からプログラミング教室をやってみないか、と打診がありました。以来、10ヵ月。社会に出てからのほとんどを編集者として、しかも現場仕事にタッチしない編集長として過ごしてきた自分には、すべてが初めて体験することばかりでした。端から見れば会社ごっこにしか見えなかったでしょうが、当人は真剣です。週刊アスキーを創刊する前以来、と言うとどのくらい本気かわかっていただけるでしょうか?


負けることが悔しいんじゃない。何もできないことが悔しいのだ。だから、何かをやり続けないことには、悔しさだけがスパイラル状に貯まっていく。だから、「悔しさ」がバネでもいいじゃないか。何かを「やれる」ことは、これほどまでに尊く輝かしいものなのだから。


週刊アスキーのときと同様、今回も優秀なスタッフが揃いました。自分はいつもスタッフに恵まれています。今日も僕がいなくてもちゃんとしたお披露目会が・・・できてますよねw

本日は本当にありがとうございます。教室としてはスタートアップの段階ですが、今日みなさんが集ってくれたこの場所から、日本の、いや世界のプログラミング教育を刷新するような新しいパラダイムを生み出していきたいと思います。最後に、こんな新しい世界に誘ってくれた清水亮氏と、「何かをやり続ける」ための船出に駆けつけてくれた皆様に、心より感謝申し上げます。

2018/03/14
株式会社UEI エデュケーションズ代表取締役社長
                福岡俊弘 拝





IKEAに行ってみて考えた非言語の編集性、もしくは編集的非言語空間(今さらIKEAの話かよ、と言われそうだけど)

 新しい会社は、主に小中学生向けにプログラミングを教える、いわゆるプログラミング教室だ。社会人向けにAIプログラミングを教える高度なクラスもある。1月までは、アルファコード社の一番広い会議室を借りて教室をやっていたのだが、この度、最寄り駅は上野広小路駅だけど、われわれが勝手に北秋葉原と命名したエリアに引っ越した。なにしろ“秋葉原プログラミング教室”という名前なので、アキバという名前は絶対に譲れない。そのうち、上野は上秋葉原、日暮里は奥秋葉原、埼玉は第3秋葉原市に、北千住は……北千住はそのままでいっかー。

 で、なんだっけ? そう、引っ越し。引っ越しにあたって、教室もオフィスも机や椅子などの什器がまったくないことがわかった。会議室借りてただけだったので当たり前なんだけど。

 というわけでIKEAである。聞くところによると、最近のスタートアップ企業の青年社長はこぞってIKEAで什器を調達するのだという。本当なのか、青年じゃない社長が行ってもいいのか、IKEAの肉団子はホントに美味いのか、大塚家具のあの娘の立場はどうなるのか、などなど様々な思いと郷愁を載せて汽車は旅立った、メーテルーー!

 自分がこれまで知っている家具売り場というのは、寝室、リビング、キッチンと、家の中のどの場所か、というカテゴリーによって製品が展示されている。家具に限らず、ほとんどの店がこのカテゴリー別、つまり「分類」によって売り物の家具を配置している。が、すでに多くの人が語っているように、IKEAのレイアウトはそうなっていない。いや、カテゴリーとしては同じように分かれているのだけど、アクセス方法がまったく異なっていた。

 欲しいカテゴリーのエリアに行って品定めをするのではなく、1本道を歩きながら家具を買っていく。道中に、IKEAによってデザインされたモデルルーム的なものがいくつも配置されている。それを見ることで、客は、おしゃれな家具が織りなす“物語”に自らの生活を同期させることができる。家具のイエローブリックロード。控えめに床に貼られた矢印の指す道を進みながら、勇気のないライオンや心のないロボットの代わりに、白で統一された子供部屋の勉強机や観葉植物の似合うリビングのソファが、自らのカートに追加していく。目指すは新生活のエメラルドシティだ。

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 そこにあるのは、家具と値札のみ。言語は意図的に排除されているように感じだた。非言語の空間。一方、新しい教室から5分ほど歩いたところにあるアメ横では、無数の言語が500メートルほどの通りに溢れている。「今なら◯◯円!」のだみ声、商品の名前、産地、分量が書かれたおびただしい数の短冊。看板にPOP。

 “編集”の対象には、言語はもちろん非言語的なものも含まれていて、というより、日常的に行なっている“編集”は、多くが非言語の領域だ。窓の外が明るくなった(知覚)→朝と判断する(認識)→仕事の予定があるので起きる(判断)と進んでいくのではなく(そういうときもあるけど)、「外が明るい」というイメージの中に一連の認識と行動は漠然と組み込まれていて、僕たちはもっとレイヤーの高いところで日常の「編集」を行なっている。ま、だから大事なスケジュールを失念したり、スマホを居酒屋に忘れたりするわけだけど。

 話が逸れてしまった。ともかく、IKEAの、「物語を見せる」のじゃなくて「物語を誘発する」仕組みはとても面白い。もっとも、店内の周遊コースはあまりに長いので、ドロシーの銀の靴が欲しいところだ。今年は、しばらく、この「物語の誘発」について考えてみたい。

ラスト・ラスベガス

 初めてラスベガスを訪れたのは22歳の今時分だった。いわゆる卒業旅行。1ドルが250円くらいのレートだったと思う。学生が海外に行くのはそれほどポピュラーじゃなかった。なにしろ、パスポートの申請の際に、預金通帳を見せなきゃいけなかった時代である。ビザの免除制度もなく、アメリカに行くにはアメリカ大使館まで行って観光ビザを申請する必要があった。そんな時代。生協かどこかの格安パックツァーになんとなく申し込んだ。ロサンゼルス、グランドキャニオン、ラスベガス、サンフランシスコ、ハワイを2週間でまわるツァー。今なら絶対に申し込まないようなハードスケジュールの旅程。

 ツァーの参加者は全員が同じ、卒業を控えた大学4年生。20人ほどの団体で男女の比率はほぼ半々、自分以外はみんな友人と連れだって参加していた。最初のロサンゼルスで、参加者の半分くらいとは打ち解けて、自由行動の時間は、レンタカーを借りて一緒にサンタモニカに行ったりした。グランドキャニオンは1泊だけだったけど(1泊で十分だしw)、早起きして全員で渓谷の朝焼けを見に行くころには、みんな仲間になっていた。やらかしたのは次のラスベガス。カジノの罠にすっぽりハマってしまったワタクシは、所持金のほとんどをあっさりスってしまったのだ。お土産を買うお金もなくなり、結局、ツァーに参加していた女性(当然、女子大生)のひとりから借金をして旅行を続けるハメになった。もう最低だわ、オレ。

 あれから38年後。あのときと同じ季節にラスベガスに来た。

 38年前と違うのは、今回は家族旅行。妻、長男と次男。息子ふたりの年齢は、一浪してたり、大学院に行ったりで同じではないのだけど、二人ともこの4月に社会に出ていくという点では、38年前の自分と同じ。この先、家族全員で旅行することはきっと難しいだろうし、もしかしたらこれが最後になるかもしれない。じゃあ、ということで、UAとANAに貯まっていたマイルをほぼすべて使って、飛行機を予約した。行き先はラスベガス。そう、ラスベガスだけは決めていた。

 財布がスッカラカンになりながら見たベガスの町は、初めて日本を飛び出した22歳の自分には、とても大きく、残酷で、形容しがたいほどに美しかった。陳腐な言い方だけど、そこに「世界」を感じられた。二人の息子が、今回、このベガスの景色を見て、何を思い何を感じてくれるだろう。カジノでギャンブルに明け暮れるのでもいい。この町を見せたかった。とにかく。

 これで僕の子育ては終了である。君たちが生まれてから、本当に素晴らしい時間を過ごさせてもらった。楽しい思い出しかない。ありがとう。僕の息子として生まれてきてくれたことを心から感謝する。

 ちょっと奮発して、ラスベガスのショーの定番「O」を家族全員で観に行った。シルクドソレイユのパフォーマンスはいつものように圧倒的で、息子たちも「すげえ」を連発していた。が、ショーの終わる15分前くらいから涙が止まらなくなった。幼い二人をウルトラマンショーに連れて行ったときのこと、ボリショサーカスを観に行ったときのこと、こどもの国にザリガニ釣りにいったときのこと、数え切れないくらいプールに連れて行った夏、少年サッカーに毎週のようにつきあった8年間、中学受験の合格発表を観に行った冬の日……、思い出がとめどなく、とめどなく洪水のように流れ出す。気がつけば、終演の時間になっていた。

 二人はそれぞれ、大学時代の友人とこのあと彼ら自身の卒業旅行を予定しているらしい。だから、このラスベガスへの旅は、自分自身の、子育てからの卒業旅行なのだ。自分自身へ、そして何より、長い時間を共有した妻へ、おめでとう。


*旅行中に図らずも会社のスタッフにかなりの迷惑をかけてしまった。これが最後のラスベガスなので、どうかご容赦下さい。

 

秋葉原プログラミング教室、まもなく新教室オープンです

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そんなわけで昨年から引き続きプログラミング教室をやっています。

昨年暮れにUEIのオフィスの引越があって、湯島のオフィスを出たのだけど、こちらは教室とセットでオフィスを探していたので、少し時間がかかってしまったのね。1月はアルファコードさんの会議室を借りてしのいでいたのだけど、ようやく新オフィス兼新教室が借りられ、まもなくそこで営業開始の予定です。2月後半か3月にオフィスのお披露目ぱーりーをしますので、ぜひ一度いらしてください。場所は上野広小路駅から徒歩2分、ギリギリ秋葉原と言い張れる場所です!住所は上野だけど

30名ほどが収容できる小さな教室です。こぢんまりしたセミナーにも使えますのでぜひ(料金はいただきます!キリッ)

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また、3月に土日を利用してのAIプログラミングの短期集中講座を開きます。今すぐAIの基本を学びたい人に最適のカリキュラムを用意しました。ぜひご参加下さい。

AIプログラミング短期集中講座 A日程(3/10、11)


AIプログラミング短期集中講座 B日程(3/24、25)



2017年の淵に

年が変わるまであと少し。この時間に2017年のことを少しだけ書いておこうと思う。

今年の年の瀬も昨年同様、家計はとても厳しい状況が続いている。が、新年を迎える気持ちは雲泥の差だ。2016年は、今だから言うけど、シャレにならないくらいヤバかった。

関わっていた仕事の報酬が支払われない。年末には払われたのだけど、期待していた学の10分1程度だった。ま、プロモーションに関わっていたブツの売れ行きがイマイチというよりさっぱり売れなかったのだから仕方ないと思いつつも、4ヵ月もやって30万はないでしょ。この仕事のために、ほぼフルタイムで勤めていた仕事を週イチにしたりしたのに。失業保険の給付の手続きをとろうとしたのはわりとマジだった。手続きの締め切りを過ぎていたので諦めたのだけど。

暗澹たる昨年の暮れだった。希望らしきものがまったく見えなかった。子供の学費どころか家のローンを払うだけの収入もなかったし、そんな仕事が見つかるアテもなかった。いや、仕事の話はいくつかあったけど、いつの間にかプロジェクトそのものがなくなったり、先方の見込み違いでキャンセルになった。そんな中、実家を手放した。主のいなくなった岡山の実家でひとり遺品の片付けをしているとき、一生分の涙を流した。心身ともにきつかった。

年が明けてももちろん状況は変わらず、わずかな蓄えはみるみるなくなっていった。プライドを捨ててヨメの実家に金を借りた。コレクションしていたフィギュアも買い取りに出した。飲み会も基本的に断わっていた。でも、文楽だけは観に行っていたかな。収入がまったくなかったわけじゃないので。

状況が一転したのが今年の5月だった。

5月にUEIの清水氏から秋葉原プログラミング教室をやってみない? と声がかかった。そのときは、別のプロジェクトが進行中だったので、少しずつ業容を把握することから始めた。8月にその事業を行なう会社を設立し、その代表になった。

自分で言うのもなんだけど、自分はエンジンがかかるのが少し遅い。物事にとりかかりながらその中で自分自身が編集されていき、それが臨界点に達したときようやくフルパワーに移行する。清水氏には声をかけてもらったこともそうだけど、そんなスロースターターの自分を根気よく待ってもらったことに感謝したい。

秋葉原プログラミング教室は、2018年2月に上野広小路に引っ越して新たなスタートを切る。これまで教室も機材も人もすべて借りものでやってきたけど、2月からはすべて自前で用意する。そのリスクをとる覚悟もできた。

絶望の淵で迎えた2017年。あと10分で始まる2018年は、最後の冒険に出かける前夜のような気分で迎えられそう。では、10分後、よいお年を。

sw ep8個人的感想まとめ(重大なネタバレあり)

すいません、すぐに削除したけど、サムネイル見ちゃった人、ごめんなさい




1)レンの口ぽかんはきっと秘密があるに違いない 2)レイの出生の秘密お預けなのでこの推測談義だけで日本酒5合はいけそう 3)緑のちっちゃいおっさん、相変わらず面倒くさい感じで好き4)スノーク迂闊すぎ 5)反乱軍の組織もダメすぎ。5億年かかっても1stオーダーに勝てねえよ 6)鳥肌は何度も立つし泣ける 7)アレとの再会シーンが一番泣けたヒューウ 8)「スカイウォーカー・フォース三代」。スカイウォーカー家が一族で話を面白くしてると思った 9)年内にあと5回は観に行くかな

風よ吹け雷鳴を轟かせ、天よ、わが生誕を祝うのだ!

というような見出しばかり書き続けて60歳になった。還暦だよカンレキ。昨日は50代最後の日だったのでなにがしかの思いがあるかと思ったけど……なかった。そう言えば、20代最後の日は、なにかやたら焦っていたような覚えがある。30歳というのは確かに男とか女に限らず人生のマイルストーンなんだなあ、と。ただ、30歳の誕生日に誓ったこととか、今思い出すとけっこう恥ずかしい。ここで語るのも憚られる。黒歴史に刻めるほど。

SNSを見てると、30歳の誕生日を迎えた人がいろいろ語っていて、とても味わい深い。魚拓とって、それを30年後に自動公開するように設定しておけば、当人は深刻なダメージを受けるに違いない。30年前にインターネットがなくてよかったー。

還暦のお祝いは2日前に家族でシャンパンで乾杯しただけ。40歳の誕生日は週刊アスキーの創刊のことだけ考えて過ごした。50歳はド派手な誕生パーティーをやってもらった。イメージしていた60歳とはかなりずれてしまったけど、これでいいのかな、と思う。お金はないけど、やるべき仕事はあるし、それを支えてくれる仲間もいる。感謝しかない。お金はないけどw

今は亡き両親に感謝。なによりも家族にありがとう。この先もよろしく。

この10年、君の見てきた風景はどんなだったのだろう?

パソコンの側から見た有名無名のボカロPの部屋。ニコニコ動画を観ていた無数のユーザーの部屋。初めて立ったSTUDIO COASTのステージから眺め。Zepp TOKYOでのサイリウムの海はどう見えていた? いくつもの文化祭の舞台、手作りのスクリーン、サイネージから見下ろした歌舞伎町。そうそう、ノキアシアターから見た景色は? 冨田先生はどんな人だった? 

朝からのタイムラインを眺めていて、少し何か書いてみようと思った。書きたいことはきっと朝Pさんが全部語ってくれるだろうと思っていたら、ホントにそうだったw 2010年から2014年までの4年間、“初音ミクという遊び”に夢中になった。楽しかった。人生の中でもっとも楽しい4年間だったと言っていい。もっとこの“遊び”を続けたかったけど、残念ながら職を失ったり病のためにできなくなった。今は、誰かの“遊び”を見て楽しんでいる。それはそれで面白いし、プレーヤーであったとき以上に楽しんでいるかもしれない。

これまでに何度も言ってきたことだけど、初音ミクに“終わり”が来るとしたら、みんながこの“遊び”に疲れてしまうか、飽きてしまう、もしくは否応なしに続けられなくなるときだ。『THE END』では、それが、イマジネーションの衰退もしくは消滅という形で暗示されていた。人が遊ぶことを止めない限り、初音ミクは永遠だ。重要なのは“遊ぶ”ことだ。


ベルサール秋葉原、フィルム越しに見た僕たちはどうだった?

そして、この先、君はどんな風景を見ていくのだろう?

起業しました。まもなく還暦ですがw

今日、会社を立ち上げました。いわゆる起業です。あと1ヵ月と数日で60歳、つまり還暦を迎えるこの期に及んでの起業です。無謀かな、と思ったんですが家族を含め誰も止めてくれませんでした。

会社名は、株式会社UEI エデュケーションズと言います。社名からわかるとおり、清水亮氏率いるUEIの子会社で、教育事業を行なう会社です。昨年の4月からUEIの一事業として行なっていた「秋葉原プログラミング教室」の事業を引き継ぎます。

起業にあたって読んだのは『マンガでやさしくわかる起業』と『マンガでわかる事業計画書のつくり方』の2冊。繰り返しますが、59歳です。かつてはアスキーのCOOだったこともあります。

そんなわけで皆様からのご支援がマストとなっておりますので、よろしくお願いします。


今回、いくつか思うところもあったので、ついでに記しておきます。

“21世紀の新教養”とは何だろう? みたいなことを、この2年くらい漠然と考えていた。デジタルハリウッド大学で「情報編集」、淑徳大学で「メディア表現論」を学生に教えながら、また、とあるITマーケティング企業にアドバイザーとして関わりながら、20世紀的な教育の根本部分が急速に意味を失っていくのを感じていた。そもそも、一般教養と呼ばれたものは、今ではネットの中にすっぽりと収まっている。そのネットは、“つながっている”というよりは、“寄り添っている”と言えるほどの存在になった。そう、ネットは人に寄り添っている。寄り添ってくれているネットは、高い確率で最適解を導いてくれる。因果を探るのは因果関係を明らかにすることによって次の最適解を得るためだが、ネットが最適解を出してくれるのなら、因果を問うこと自体に意味がなくなってしまう。いや、学問的な意味はある、と言うことはできる。が、仮に意味があったとしても価値は・・・。

21世紀もあと数年で5分の1が過ぎようというとき、僕たちは今の子どもたち、学生たちに何を教えたらいいのだろう? ネットがすぐさま教えてくれるものを、わざわざ教室の前に立って声を張り上げながら教えるってどうなのよ? 21世紀になってもう17年経ってんだぜ。

Hack Mind という言葉を教えてくれたのは、神戸電子専門学院の福岡校長だった(苗字が同じなんです)。21世紀を生きて、生き延びていくために重要なこと。Hack Mind。それを教えていかなきゃ、と。

で、いろいろ考えて、Hack Mindを構成するのは次の3つかな、という結論に辿り着いた。
・メディアリテラシー(メディアよりコミュニティかな)
・エディターズシップ(Editors’Loungeでやってまーす)
・プログラミングスキル(これ、やんなきゃ!)


と、今日はここまでにしておきます。あとはひたすら実践するだけです。こんなこと還暦のジジィがやるなんて無謀!と思った方はぜひ手助けに来て下さい。

「すずさんはこまいのう」

すっかり時期を逸してしまった感があるけど、「この世界の片隅に」の感想を書こう。

前評判通りの映画だった。これほど評判に違わぬ作品も珍しい。ゆるゆるとしたすずの日常が、迫り来る戦火の中で、それでもなお日常であらんとする姿が愛おしかった。後半に、夫の周作が、背後からすずの腕をつかんで、「すずさんは細(こま)いのう」というシーンがある。「こんなに細(こも)うて、家を守れるんかのう」と。

そこまでなんとかこらえていたものが一滴落ちた。

こまい、とは標準後で「細い」とか「小さい」とかいう意味の広島弁だ。岡山弁でもそれは同じで、岡山では地域によっては「こんまい」と、「こ」と「ま」の間に小さい「ん」が入ったりする。この「こまい」と言うときのニュアンスには、「細い」「小さい」という意味に加えて、「かわいらしい」とか「愛おしい」、という感情が込められている。さらにはある種の「はかなさ」もそこには含んでいたりする。だから、ふだんは赤ちゃんとかに使うことが多い。その言葉がこの場面で・・・と。この愛情表現にやられてしまった。

幼いころ、両親から、親戚の叔父さん叔母さんから、数え切れないくらいかけられたのであろうこの言葉の響き。

「この世界の片隅に」を観たのは年明けすぐのことだった。あれから1ヵ月、なのにあの「こまいのう」の場面が、何度も何度も浮かんでくる。

この世界の片隅に

ドクター・コッペリウスのこと

冨田勲 追悼特別公演「ドクター・コッペリウス」の感想を書こうと思い始めてかれこれ1時間、自分でも驚くほど言葉が紡げないでいる。ドクター・コッペリウス第4楽章での胸締め付ける思いの理由を、第7楽章の途中から頬を濡らし始めた涙の理由を、ずっと考えている。

今はMacBook Airを持ち歩いているが、その前は15インチのMacBook Proを使っていた。その液晶裏面には冨田先生のサインが記されている。何年か前、ストリーミングの番組、DOMMUNEでご一緒したときに書いていただいたものだ。宝物であることは言うまでもない。そのとき、冨田先生と交わした言葉、ほんの二言三言だったけど、それを思い出しながらドクター・コッペリウスを聴いていた。あのサインをいただいたときに、喉まで出かかって聞けなかったひとつの質問を思い出した。

「先生にとって初音ミクはどんな存在なんですか?」

第4楽章「惑星イトカワにて」は、その答えであるように思えた。先生にまといついていた重力を解放をした存在。

第7楽章を終えて先生は旅立たれた。そのことの喪失感に襲われながら、それはとても幸せな旅立ちだったのだと確信した。永遠の存在であるミクと素敵なダンスをしながら、僕は十分楽しんだよ、と言っている気がした。別れの曲ーー自分にはそう思えた。

感想になりませんでした、すいません。



今回の公演に関わられたすべての皆様に心から感謝します。震えるほどの感動でした。

ドクター・コッペリウス



あのハロウィンと記憶の中のハロウィン

ハロウィンの思い出を話そう。17年前と16年前の話。投稿のタイミングじゃないけど


次男くんの通う幼稚園は、プロテスタントの牧師が経営している幼稚園だった。地域の中でもわりとユニークなところで、園児たちが喧嘩を始めても先生たちはあえて止めずに、子どもたちが折り合いをつけるのを見守る、みたいな。そんな徹底した放任主義の園だった。で、キリスト教系ということで(わが家は仏教徒だが)、クリスマスには必ずイエス誕生の劇を、園児たちだけでやったりする。女の子の園児たちにとっては、唯一のヒロイン、マリア様になれるかどうかという運命の日で、ライバルの靴の中に画鋲を仕込んだりとそれはそれは壮絶な争いが、というのはまったくなくて、毎年穏やかにメインキャストは決まっていく。ちなみに次男くんは東方の三賢人のひとり、台詞は「もうじき天使様がやって来ますよ!」の一言だけだったけどw


そのクリスマスより盛り上がるのが、ハロウィン。最近、渋谷や池袋とかでやってるのとは違って、園児たちが仮装しておやつをねだって歩くという、あ、こっちが普通のハロウィンだわ。で、その“仮装”を、当然、親が作ることになる。たいていの家ではお母さんが作ってくれるのだけど、ウチの奥さんは裁縫が苦手だということで、衣装作りは自分の仕事になった。ま、イヤじゃないんだけどねw


ハロウィンの2週間前、次男くんに「何になりたい?」と聞いたら、しばらくあって、「カメ!」との返事。えっ、カメ? 想定外のこたえに動揺するオレ。どうすればカメの衣装が作れるのか? うーん、うーん・・・


3日ほど悩んで、大きめの発泡スチロールをくりぬき、緑色に着色するのがよいのではと考え、東急ハンズに行って材料を買った。発泡スチロールをカメの甲羅状に加工し、緑のポスカラを塗る。乾かしてまた塗り、色を濃くしていく。何を思ったか、甲羅にいくつも突起を作ったら、完全にガメラのそれになってしまった。甲羅の周囲をプラ材で補強し、4カ所に紐穴を作って完成。製作期間2日。雑な出来だったけど次男くんはとても喜んでくれた。


ハロウィン当日、ガメラの甲羅を背負って園内を走る回る次男くんを見たときは、危うく落涙するところだった。何に感動したのか、今となっては思い出せない。でも、もうカメの甲羅、いやガメラの甲羅は二度と作るまいと心に誓った。翌年、年長さんになった年のハロウィンでは、「死神になる!」と言ってくれたので、ほっと胸をなで下ろした。死神なら、黒っぽいサテン生地でマントを作ればいいだけじゃん! 死神の持つ杖というか鎌をこしらえるのがちょっと大変だったけど、衣装自体は3時間ほどで完成した。あ、顔にメイクもしてやれば良かったな。今、思いついても遅いけど。


メディアで報道されるハロウィンと、わが家の記憶の中のハロウィンにはずいぶんと距離がある。パブリックな言葉で語れない、語られない記憶。いくら言葉を紡いでも、あのときの空気感みたいなものを言い表わせない。時々SNSで流れてくる、お父さんが子供のために作った映像やおもちゃの動画を見ると、胸を少しだけきゅんとさせる、そう、ほんの少しだけなんだけど、やわらかく締め付ける感覚に襲われる。あのときのガメラの甲羅も死神のマントも、きっと次男くんは覚えてないだろうなあ。
Profile
F岡
19世紀末、ハプスブルグ家の末裔として生を受ける。3歳の時、ジャーナリズムに目覚め、5歳でル・モンド紙の編集デスク。6歳で、ネアンデルタール人との出会いと愛を描いた私小説『わたしのネアン』が、世界で5億人に読まれるメガセラーとなる。7歳のときに描いた落書きは、のちにキース・ヘリングに多大な影響を及ぼした。その後、日本の平凡な夫婦の子供となり、凡庸な青年時代を過ごし凡庸な大人となる。97年から『週刊アスキー』編集長。2003年より同誌編集人。座右の銘は「楽に生きる」。
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