「物語」の置き所とF岡式消失点

メディア論とか教育論とか語るウザいブログだけど時々いいことも書くよ、60代だから

母の病名は前頭側頭葉変性症と言います(10)

 診断のあと、前頭側頭葉変性症について、医師から説明を受けた。おおよそは以下のようなものだった。

「前頭側頭葉変性症という病気で、(母は)側頭に萎縮が見られる」
「進行性の病気で萎縮は次第に進んでいく」
「現在、前頭側頭葉変性症に対する治療法はなく、また効果的な薬もない」
「ピック病的な傾向も見られるが、ピック病ではないようだ」
「(母は)穏やかな性格のようなので、暴力的になるようなことはないだろう」
「やがて言葉が出なくなる」
「続いて歩くことができなくなる」
「最後は寝たきりになる」
「症状は1年ごとに進んでいく」


 「言葉が出なくなる」という話を聞いて、本当にこちらが言葉を失った。そんな……。

 順天堂越谷病院のウェブサイトでは、「進行性失語症」「語義性失語」という言葉が使われている。いくつかのウェブサイトで見つけた(前頭側頭葉変性症を疑う)チェックリストを見ても、そのほとんどが今の母に当てはまることばかりだった。

 この日、ちょっとした事件もあった。病院からの帰り、郊外のショッピングセンターに立ち寄った。自分では下着が着脱が難しくなった母のために、介護用の肌着を買うために、だ。妻が2階にある衣類コーナーで買い物をしている間、母と僕は1階のベンチで待っていた。と、そのとき突然、母が立ち上がり「トイレに行く」と言って、その場で、はいていたズボンを下着ごと下ろそうとし始めたのだ。
 「何やってんの!やめて!」と止めようとするも、「トイレ行く、トイレ行く、トイレ行く」と言って聞かない。その場で脱がれては大変なことになるので、ともかく母のズボンを押さえて、必死で女性用トイレを探す。大きなショッピングセンターなので、妻を大声で呼んでも無駄だろう。このまま、自分が母を女性用トイレに連れて行って、母のパンツを下ろすしかない……。そして、トレイに前に来たとき、そこへちょうど、普段はあまり交流のない親戚のおばさんがトレイから出てきたのだ。
 彼女に、ともかく母をトイレに連れてって、と頼んでその場を事なきを得た。このときのショックをどう表現したらいいだろう。あれほど気位が高くて、人の前で恥をかくことが死ぬほど嫌いで、いつも気丈だった母が……。ショッピングセンターに全体に響き渡るほどの声で叫びたい気持ちをようやく押さえ、トイレから出てきた母に無理矢理笑みを作って言った。「お母さん、家に帰ろ」


 前頭側頭葉変性症については河野先生という方のブログに詳しく書かれておりましたので、そちらへのリンクを勝手に貼らしていただきました。
  ピック病とは何か

母の病名は前頭側頭葉変性症と言います(9)

 2008年夏には、母の足はいよいよ不自由になっていました。ヘルパーさんによる在宅介護を諦め、叔母の家でお世話をしてもらっていたのですが、夏休みに僕たちが家族全員で帰郷したときには、ベッドから立ち上がることすら、相当に時間がかかるようになっていたのです。

 しかし、ここが重要なのですが、母は脚力が衰えたわけではなかったのです。

 タイミングがつかめない。

 ベッドからでも椅子からでも同じなのですが、すっと立ち上がれるときもあるのです。それまでそうしたように、自然にスッと立ち上がります。が、一度まごつくと、もう立てません。それでも根気よく待っていると、さっと立ち上がります。親戚筋の中には「甘えとるんじゃ」と母を責める者もいました。「人に頼まんと(頼まずに)、自分で立ちねえ(立ちなさい)」と。母は決して「甘えて」いたわけではなかったのです。自分でもどうしてすんなり立つことができないのか、戸惑っていたのだと思います。

 これが前頭側頭葉変性症の第2段階だったのです。

 夏休みの帰郷は散々なものでした。頻繁にトイレに行く母に、常に僕か妻のどちらかが付き添っていなければなりません。このころは立ち上がれば、まだゆっくりではありますがまだ自分で歩いてくれていました。このときに妻が気になること言いました。
「お義母さん、歩幅が小さいね」
 そう、歩くときの一歩が極端に小さくなっていたのです。いわゆる「刻み足」というやつです。パーキンソン病の患者にみられる症状ですが、ここへ来てやっと事態の深刻さに気づかざるを得ませんでした。いや、本当は気づいていたんです。気づかないフリをしていだけだったんだと思います。

 神経内科のある岡山の病院を調べ、すぐに母を連れて行くことにしました。そこは精神科の外来もある脳神経系の病院で、ロビーは、大声を出したり、ずっとブツブツと独り言をつぶやく患者さんたちでいっぱいです。こんなところに母親を連れてきたのか、と、本当に暗澹たる気持ちになりました。が、本当の絶望は、診断結果を聞くときにやってきました。

前頭側頭葉変性症

 診察を担当した医者は耳慣れない病名を口にして、母の頭部のCT写真を指さしました。それを見ると側頭部の外側の真ん中あたりが、確かに少し凹んでいるのです。そして、医者の口から残酷な未来が告げられます。

母の病名は前頭側頭葉変性症と言います(8)

 母を介護施設に入居させるという案は、親戚筋からも明確に反対の声が出てしまいました。毎週末、必ず母のところを訪れて何かと面倒をみてくれている叔母からは、「最後までお姉ちゃんをこの家にいさせあげて欲しい」と言われます。今思い返すと、この時期が一番大変だったかもしれません。
 当時は2つの案がありました。ひとつは介護付き施設に入居すること、もうひとつは面倒をみてくれている叔母の家の近くにアパートを借りてそこに住む、という案。いずれにしろ、坂道の上にある今の実家で一人暮らしするのは不可能だと誰もが考えていたのです。それでも、叔父や叔母は、母を家から引きはがすことに対し、首をタテに振ってくれません。

 結局、平日は、叔母が彼女の自宅に母を引き取り、週末だけ実家に母を連れて帰るということになるのですが、それは2008年の夏になってからのことです。

 2008年のお正月のころには、母は傍目にもかなり様子がおかしくなっていました。いくつか例を挙げてみます。

 大晦日に帰郷することを電話で母に伝えます。するとクリスマスのころから毎日電話がかかってきます。「今どこ?」と。ジョークじゃないんです。大まじめに、今どこにいるのか、新幹線にはもう乗ったのか、と聞いてきます。大晦日の一週間前のことです。これが毎日続きます。しかも朝の6時から平気で電話をかけてきます。

 たいていは妻が、母からの電話をとって上手く対応してくれるのですが、さすがにあまりに頻繁なのでこっちもキレてしまいます。電話で「いい加減にして!」と怒鳴ってしまうのです。
 一方、母のほうもキレやすくなっています。カーテンの裾が綻びているので直して欲しいと妻に言うのですが、それをすぐにやらないと、母は烈火のごとく怒り出したのです。こんなことは初めてのことです。妻も驚きを隠せません。「お義母さん、一体どうしたのかしら?」と。確かに、明らかにおかしくなっているのですが、記憶もしかっりしているし、ちゃんと話もできます。母のこの劇的な変化にただ戸惑うばかりだったのです。

 実家に帰っているとき、クルマでコンビニに買い物に行くと、すぐにケータイに電話がかかってきて、すぐに帰れ、と言います。今、出かけたばかりだと言っても、とにかく帰れの1点張り。朝は4時に起こされて朝食を食え、と。いやはや……これは一体……。

 2008年の春以降、介護付き住宅探しのために何度か実家に帰っていましたが、こんなことが積み重なり、母を神経内科で診てもらおうと思うようになったのです。

母の病名は前頭側頭葉変性症と言います(7)

 2010年中に終わらせるつもりだったこの連続エントリーですが、書き始めたら止まらなくなってしまって・・・。すいません、もうちょっと続きます。




 「母の作ったお雑煮をを食べた最後の正月になりました」なんて言っちゃいけないですね。この先、もう一度食べられるかもしれないし。自分で希望を捨てるなんて……反省しなくちゃ。
 2008年に入って、いろいろな介護施設の資料を取り寄せました。こういうときにインターネットは本当に便利です。介護施設の評判まで某掲示板サイトでわかります(笑)。特養老人ホームは人気で、ほとんどが長い順番待ちと聞いていたので、民間が運営する「介護付き住宅」というのを中心に探しました。
 2008年の4月、3日間の休暇をとって実家に帰り、いくつかの施設をまわりました。一件目は床がリノリウムで、それだけで病院のような印象を受けて暗い気持ちになります。2件目は床は木目調で全体的に明るい雰囲気。応対してくれた職員の方も感じのいい人で、進められるままに仮申込書を書きました。と言っても実際に入居するわけではなく、言ってみればエントリーシートみたいなものです。
 3件目もとても感じのいいところでした。ただ、食堂で、入居者であろう車椅子の老人が、介護担当の若い女性からスプーンで食事を食べさせてもらっているのを目撃します。その光景に軽いショックを覚えます。母もいつかあんなふうになるんだろうか? 母はまだ車椅子も必要ないし、食事ももちろん自分でできて、洗い物も洗濯もお風呂も、その頃は全部自分でできていたのです。

まさか、それからわずか2年後にそのすべてができなくなるとはそのときは想像だにできませんでした。

 だから、施設を選ぶ際に、書道教室やカラオケ大会などのレクレーションが充実していることをわりと重要視していました。まったく自分でも呆れかえるほどノンキだったのです。

 問題は、母親を説得することでした。母にとって家は別格です。自分そのものです。ひとりで暮らすのが無理だからホームへ、とは簡単に割り切れるものではないのです。案の定、「絶対にいかん(行かない)」と間髪を入れず拒否です。まあ、そうだよね。僕にとっても、母のいない実家なんて想像できないし。でも、これにはわが家の事情があったのです。
 実家のある地域は、山の中腹を切り開いてじょうせいしたいくつもの土地から成り立っています。当然、坂をかなり登った先に実家があり、しかもこの坂はそこそこ急でした。母が働いていた頃、クルマが運転できない彼女は、毎日自転車で出かけ、帰りはその自転車を押して坂を上がっていました。相当に体力がなければできるものでなかったのですが、母は60歳くらいまでそうしていました。
 さすがに老後は父の運転するクルマで出かけることが多くなりましたが、それでもときどきは徒歩で急な坂を自分で上り下りしていました。
 が、二度の失禁とそれに続く入院で、母の脚力が一気に弱まってしまい、坂の上り下りはほぼ難しい状況になっていたのです。周囲にコンビニなどのお店はありません。自分でタクシーを呼んで買いに行くか、誰かが食料を買っていくしかないのです。

 もうこの家にひとりで住むのは無理なんよ。

 この言葉が出てきません。母にこの一言が告げられないんです。それは、父と母と3人で暮らしたこの家を失うことだからです。
 父のバイクの後ろに乗って、この家が出来上がるのを毎週のように見に行きました。小学3年生のころでした。父と母が僕を育てるために建てた家……。

 ……すいません、胸がいっぱいになって今日はこれ以上書けません。

母の病名は前頭側頭葉変性症と言います(6)

 2007年10月、父の一周忌の法要がありました。7月の失禁事件以来、母の足はすっかり弱ってしまって、歩く速さはめっきり遅くなっています。家の中は、バリアフリー工事をして、廊下やお風呂に手すりをつけたり、コンロをガス式のものから電気のものに代えたり、玄関と裏玄関に小さなステップ台を置いたりしていました。
 介護申請も認められ、要介護1との認定を受けました。そして、その9月からは、週に2回ヘルパーさんが来てくれるようになっていました。ヘルパーさんのひとりが、僕の高校時代の同級生だったあたりが、時代を感じる出来事だったりするわけですが(笑)。
 この時期、もちろん母の病名など知りません。病気という認識すらありません。年をとって衰えた、僕も親戚も、みんなそう思っていました。だから、ヘルパーさんがときどき面倒をみてくれることで、この状況がずっと続くと思っていたのです。ただひとり、妻を除いては。彼女だけは、母の異変にいち早く気づき、「なんかヘンじゃないかしら」と警告を発していました。いわゆる「他人」のほうが、こういうときはよく見えていたりするものです。

 そして二度目の失禁事件が起きます。2007年12月初めのことでした。

 今度は、母はキッチンで倒れていました。運良く、その日はヘルパーさんが来てくれる日で、家に到着して裏玄関を開けたヘルパーさんがすぐに救急車を呼んでくれたので、大事には至りませんでした。倒れてから間もなかったようです。
 倒れてすぐに誰かに発見される。そんな「幸運」が二度も続きました。が、三度目はない。そう、三度目は決してない……。
 ここへ来て、介護施設、つまり老人ホームについて、僕たちは初めて現実味をもって検討を始めたのでした。

 東京へ呼んでの同居も考えました。が、母がこの年になって岡山を離れるというのは、かなり難しいことなのです。東京には彼女の知人はまったくいません。また、ドがつくほどの岡山弁のため、周囲が、母の言うことを理解できるとも思えません。そもそも母を寝かせられる部屋がないのです。ヘルパーによる訪問介護で暮らすのが無理となれば、もう選択肢は限られてくるのです。

 そうして、2008年のお正月を迎えます。これが、母の作ったお雑煮を食べた最後の正月になりました。

母の病名は前頭側頭葉変性症と言います(5)

 例えば朝の10時に美容院の予約を入れます。が、実際に母が美容院を訪れたのは前日の夜8時。せっかちとかいうレベルではもうなくなっています。笑うに笑えない話です。ネットで調べると、昼夜の区別がつかなくなるのは、認知症でよく見られることだとされていますが、どうもそういう感じでもないのです。
 記憶も確かだし、約束も覚えている。文字も読めるし、字もちゃんと書ける。2007年当時の母は、それこそ賄いも毎日ではないにしろやっていましたし、金銭の出し入れ、年金の申請などなど、すべてのことを自分一人でやっていました。そもそも母は、海上保安庁に定年まで勤めた、キャリアガールのはしりでしたし、働くことが何より好きな女性でした。
 当時、母がつけていた帳面を見ると、金銭の出し入れについて克明にメモが記されていて、その几帳面さは見事というほかありません。しかしながら、そこにある深刻な変化を認めざるを得ません。

字が徐々に雑になっていくのです。

 というより、書かれた文字が、横に真っ直ぐに並ばなくなっていくのです。たいていは下にさがっていき、字の大きさも途中から急に小さくなったり……。

 文字を同じ大きさで書けなくなる。真っ直ぐに並べて書けなくなる。こらえ性がなくなってくる時期、同時にこんな変化が現われるのです。

 親しいご近所の人と10時に約束をすると、早朝6時に相手の家を訪れます。相手は当然まだ寝ていたりするわけで、だけど母はそんなことお構いなしです。そのあたりの客観的な目線が完全に失われています。こんなことが何度も繰り返されたようで、ついには、相手のご家族が怒って出入り禁止になってしまいます。友人を失って、母はますます孤立していきます。何日も誰とも会わないで過ごすことも多くなっていきます。あんなに社交的で、話し好きな母だったのに。
「ウチ(わたし)はもう変わってしもうたんよ」。そんな言葉をぽつんと残したのも、きっと、そんなふうに内向きになっていくのがなぜなのか、自分でもわからなかったせいでないかと思います。

 そして、こらえ性がなくなって一番大変なのがトイレでした。1時間に1回は必ずトイレに行きます。ひどいときは20分に1回。2007年のお盆休みの帰省時、この母の“トイレ詣で”にどれほど悩まされたことか(笑)。

 ともかくこの年の夏、初めて僕は「介護」という言葉に接し、ここからわが家の態勢は、一気にこの「介護」へとドライブを切っていくことになります。

母の病名は前頭側頭葉変性症と言います(4)

 叔母から電話があったのは2007年7月の初めの朝のことでした。母が入院したけど心配ないから、と、まずは安心するようにというのが第一声です。え? え? 状況が呑み込めないうちに安心しろと言われても……。
 要はこういうことでした。
 週末、一人暮らしをしている母のもとを訪ねたら、寝室の畳の上で母が倒れていた。それで、すぐに救急車を呼んで病院へ運んだ。診断は脱水症状による失神。すでに元気になっているが様子見のため、しばらく入院する。わざわざ岡山に帰ってくる必要はない、と。

 叔母は、母の妹にあたり、母とはやや年齢が離れています。むしろ僕との年齢の方が近いので、昔から、叔母を姉のように慕ってきました。母が一人暮らしを始めてからは、彼女はほぼ毎週、母の家というか自分の実家に足を運んでくれて、なにくれとなく面倒を観てくれていて、今回も、彼女の訪問があったので事なきを得たのです。本当に感謝してもしきれない、そんな思いでした。
 さて、来なくていいとは言われたものの、普通、駆けつける状況にあるわけで、電話をもらってから1時間後には新幹線に乗り込んでいました。安心、なわけないですもん。
 病室に入ると、母はベッドの上に身体を起こして、やや照れ笑いを浮かべていました。拍子抜け(笑)。「もう大騒ぎじゃ」と他人事のようなこと言って、周囲を笑わせてくれました。まったく、ウチのお母ちゃんときたら……。
 と、ひとまず安心したのですが……、あれ? と思うことが気になり始めます。
 まず、トイレにやたら行くのです。1時間に1回は行きます。排尿が上手くいかないのかな? そっちのほうも診てもらったほうがいいかなあ。もうひとつ気になったのは、お金のことでした。


 まとまったお金を肌身離さず持っていたがるのです。


 母は愛用のバッグを病室に持ち込んでいて(叔母が持ってきてくれたようです)、その中に20万円ほどの現金が入っていました。そこは市民病院の病室です。母のほかにも大勢の人が入院しています。いかに平和な田舎町の病院といえども、そんな大金を鍵のかからない部屋に置いておくのは慎むべきでしょう。
 その旨を話し、お金をこちらに渡すように言ったのですが、母はかたくなに拒否します。しかも、論理性は皆無で、イヤだの一点張りです。え? どういうこと? なんかヘンだし。かつての母はそんなことをするような人ではなかったし、理屈に合わないダダをこねる人でもなかったのです。
 ようやく胸の奥に、小さな不安の明かりが灯ります。もしかして、と思って実家の母の部屋を調べてみると、50万円ほどの現金が見つかりました。翌日、再び病院に行き、母にそのことを問い質しました。すると、電気代の集金とか、郵便局が来たりするから、とワケのわからないことを言います。そもそも電気代は口座引き落としのはずだし。

 認知症? いやいや、そんなはずない、そんなはずない、そんなはずは……。

 母の手元にあった20万円のうちの10万円をやっとのことで説得して預かり、先ほどの50万円と一緒に銀行に入金しました。母の通帳を手にした最初の出来事でした。今、その通帳は、この2年間、ずっと僕の手元にあります。


 母は倒れたとき失禁していました。衣服は叔母が洗濯してくれて、また倒れた場所も軽く拭き掃除をしてくれていました。でも、その現場、母の寝室は、むせ返りそうなくらいその臭いが立ちこめていました。温度も湿度も過剰なまでのその日、僕はその部屋の畳を、濡らした雑巾で何度も何度も何度も、本当に何度も拭きました。きっとそれは、臭いを消したかったんじゃなくて、今回のことが夢であって欲しい、無かったことにしたい……そんな思いだったような気がします。……2007年7月のことでした。

母の病名は前頭側頭葉変性症と言います(3)

「お母さん、なんかヘンじゃないかしら?」

母の異変に最初に気づいたのは妻でした。父の初盆で岡山の実家に帰省したときのことです。妻は、母が同じ言葉を何回も繰り返すようになったと言うのです。「ようけある、ようけある」みたいなことを。ちなみに、“ようけある”というのは岡山弁で“たくさんある”という意味です。この言葉をぶつぶつと何度も繰り返しつぶやくようになったと、こんなことはこれまでなかった、と。

息子はいつも鈍感です。いや、鈍感であろうとしているのかもしれません。「そうかなあ?」。息子である自分は、母のちょっとした異変に気づかないフリをしていたのです。母がヘンになんかなるはずがない。おかあちゃんがまさか……。

実は、気づいてなかったわけではないんです。

その年の年末年始は、中学2年の長男とふたりだけでの帰省でした。次男の中学受験の年だったので、次男と妻は東京に残っていました。

あれ? なんか怒りっぽくなってる。

長男と一緒に夜、ラーメンを食べに出かけます。で、1時間も立たずに帰宅したというのに、何度も携帯に電話した、と母は怒るのです。あれれ? なんかヘン。でも、そのときは、父が死んで以降ずっと一人暮らしをしてきたので、それで溜まっていたものが爆発したのかなあ、と解釈していたのです。

この、思い通りにならないと激高する、というのが初期症状です。些細なことでも自分の思い描いたとおりでないと、感情が乱れ激しく怒り出します。

正月2日目は、母の実家筋の親戚の家に行って、母の兄弟縁者で鍋をつつくのが毎年の行事になっています。クルマで約30分ほどのところなので、11時に家を出れば、みんなが揃うちょうどいい時間です。母にも「11時くらいに出かけよう」と前日に言って、彼女も納得していたのですが、当日、僕は朝の5時に叩き起こされます。茶屋町(親戚の家がある町です)に行くので早く雑煮を食べろ、と言うのです。「まだ早いよ」と抵抗して布団にもぐりこむのですが、10分後にはまた起こしに来ます。そんなことが数度繰り返されて、とうとう根負けして6時前には仕方なく朝ごはんの雑煮を食べるのですが……いや、もう相当にヘンです。

さらに、11時に出かけると言っているにもかかわらず、8時には支度を完璧に調えて、もう出かけた方がいいんじゃないかと言うのです。いくらなんでも、向こうの家の人はまだ寝てるでしょうし、それは無理だと。母はいったんは納得するのですが、15分くらい経つと、もうそろそろ行こうと繰り返します。だ、か、ら、そんなに早く出かけても意味ないし、相手に失礼でしょ! こちらもだんだん声が大きくなります。そして最後はついにキレました。母との大喧嘩。

怒りの感情が、心配する気持ちを勝ってしまいます。これが、もっともポピュラーな初期症状なので、同じようなことに直面された方は、絶対に怒ったりしないで下さい。今は本当に悔やまれてなりません。

時間感覚が希薄になる。
思い通りにしたがる。
激高しやすくなる。

でも、このとき、異変が起きているとは思わなかったのです。おそらく無意識に、“異変なんかであるはずがない”と思い込もうとしていたんだと思います。きっと一時的なものだ、すぐに元に戻るはずだ、と。

そして、その年の7月、最初に失禁事件が起きます。

母の病名は前頭側頭葉変性症と言います(2)

母は高校を出てから海上保安庁に定年まで勤めた、キャリアガールのはしりでもありました。社交的で、近所づきあいも多く、特に職場の関係から(なにしろ海猿とか流出とかのあのお役所です)、男友達も多かったようです。

父は国鉄勤務で、今では廃止された宇高連絡船に関わっていました。仕事は現場なので夜勤など、勤務形態は不規則で、しばらく家を空けることも多かったようです。学校から帰ると夜勤明けの父が居間で寝ていたりして、そのときは本当に嬉しくて、無理矢理起こしてキャッチボールをせがんだりしたものです。逆に土日には仕事に出かけていないことが多く、一人っ子で内向的な性格だったので、家で淋しく一人遊びしているような、そんな子供時代でした。父が唯一の遊び相手というか、父のことが本当に好きだったんです。

あ、思い出話が長くなってしまいました。ともかく、そんなわけで、働いているときは家でも滅多に顔を合わせなかった夫婦が、さらに、定年後もそれぞれ別々に遊んであまり接点のなかった二人が、くも膜下を患ったあと、ずっとずっと24時間、顔を合わせっきりでいるわけです。しかも母の立場はただの「召使い」という状況です。「牢屋にいるような」と、電話で母がつぶやいたのを確かに聞きました。が、盆と暮れに実家に帰ると、なんとなく仲良さそうにふるまっている。あ、大丈夫なのかな、と。でも、そのときには、おそらく母の脳の収縮は始まっていたんだと思います。

2005年、父はくも膜下出血から立ち直り、普通に生活できるようになりました。が、その年の夏、地元のお地蔵様の敷地を掃除しているとき、熱中症で倒れ、救急車で運ばれます。相当に暑い日だったようです。僕も急遽東京から実家に帰りました。幸い、父の回復は早く、2日ほどの入院で帰宅できるほどでした。が、そのときお医者さんから意外なことを告げられます。

「赤血球の値が異常に低いですね」

血液の中で酸素を運ぶ物資、ヘモグロビンは、g/dlの単位で表わします。血液100mlあたり何グラムのヘモグロビンがあるか。正常値とされるのは、成人男性の場合、14gから17gです。ところが、父の場合、そのざっと半分、7gくらいしかなかったのです。医者は、何度か首をひねって、「昔からなのかなあ」と何度となくつぶやきます。父の血液の中の赤血球は、健常者の半分しかないと言うのです。こんなに少ないと、ちょっと歩いただけでも息切れしたりするはずだと。だから、熱中症で倒れたのではなく、貧血だったのだろう、と。

それは、不応性貧血という決して治る見込みのない難病でした。

赤血球を増やす薬を処方してもらい、ヘモグロビン値の維持・回復に努めました。定期的な検査で10gを超えて、家族で大喜びしたりしたこともあったのですが、その翌月にはまた7g台に逆戻りして、言いようのない不安に苛まれたり……。そうこうしているうちに、ヘモグロビンの値は5g台まで落ち込み、そのころの父は、ちょっと動くだけでもしんどいようでした。

翌年、2006年の3月、5g/dlを切り、父は、血液外来のある大きな病院に入院します。いくつもの検査を受けたあと、主治医の先生は僕だけを診察室に呼びました。父の病状を説明したあと、まるでテレビドラマのシーンのような一言を告げます。「半年から1年半です」

病室は、病院の中庭の桜が見える部屋でした。3月末、桜の枝は、ようやくちらほらと花をつけていました。「来年も桜が見えるじゃろか?」。父の独り言に胸の中心部を射貫かれたような思いでしたが、何食わぬ顔で「あ、花見とかもいいねえ」と明るく言葉を返しました。あのときの自分を、僕は今でも思いっきり褒めてあげたいです。

主治医の言葉通り、それから半年後、最後は白血球の増殖が止まらなくなり、自らの免疫が自己を攻撃しはじめ、父の脳は活動を止めます。父と最後に交わした言葉は、「お前はもう東京に帰れ」「うん……」。その言葉通りに東京に戻った翌日、危篤の報せを受けてかけつけたときは、父はもう人間の尊厳を失う一歩手前の状況でした。

そして、父がこの世から、この家からいなくなったときから、母の異変に、否応なく直面することになったのです。

母の病名は前頭側頭葉変性症と言います。(1)

母の病名は前頭側頭葉変性症と言います。



前頭側頭葉変性症。この聞き慣れない病名を聞かされたのは、2年前、2008年夏、岡山市のはずれにある、「心の病い」専門の病院でのことです。あとで書きますが、以前からちょっとおかしかった母の行動が、明らかに異常に思えることが相次いでいたからです。この手のものは、世間では、ボケとか認知症とかと、十把一絡げに呼ばれていたりするのですが、前頭側頭葉変性症はそれらとはまったく異なります。この病気のこと、病気にかかった母のこと、そしてその病気にかかった母をなすすべもなく見ているしかない自分のこと。それらを少しずつ書き記したいと思います。

実は、この病気に母が明らかにかかっていたころ、そうだとは知らずに自分は母に厳しくあたっていました。猛烈に怒ったり、怒鳴ったり。昔はちゃきちゃきとして気丈な母だったこともあり、「なんでこんなことがわからないんだろう?」と、その歯がゆさからキツくあたってしまうのです。申し訳ないことをしたと思います。そんな自責の念と、同じ境遇にある人が自分と同じことをしないように、と思って書き残すことにしました。

2006年のことにさかのぼります。

2006年の秋、父が他界します。父は2002年にクモ膜下出血に襲われますが、そのときは手術によって事なきを得ます。が、以降、ゴルフに釣り、夜は常にはしご酒と、いわゆる「遊び人」だった父はぴたりと外出することを止めてしまいます。生活は母に頼りっきり。母が少しの時間、近所に出かけても、父は不機嫌になり母を叱り飛ばしたと言います。これは母が当時ぽつりと僕に漏らした話です。

「俊弘、どっか連れ出してぇ」

母は本気とも冗談ともつかないことを言って、こちらは苦笑いを返すしかなかった、みたいなことを覚えています。あのとき気づいてあげれば……。そう、このときになんとかしておけば。後悔するポイントがあるとすれば、ここだけです。

父は明らかに母を拘束するようになっていました。「早く帰らんとお父さんに怒られるから」。正月に帰省したとき、母と一緒に買い物に行ったとき、買い物もそこそこにやたらとすぐに家に戻ろうとする母親を不思議には思いました。ただ、

脳が収縮するほどのストレス

を母が感じていたとは、まったく想像だにできませんでした。

バルセロナでのつぶやき・まとめ

ネイルな3週間

ジェルネイルをしてから3週間。最初は1週間でオフするつもりだったのが、ちょっとずつ伸びて、ついに3週間越え。でも、今週末からサンフランシスコに行くので(知人によれば、

ネイルアートしている男性の99.99%はゲイ!

このままではサンフランシスコで超人気者になってしまうーーw)、どうしてもオフしなきゃ、ってことで、昨日、下北沢でぱっさりとリムーブしてもらいました。

リムーブして思ったのは、


なんか、さぴしい・・・


いや、電車の中で何度ガン見されたことかw。うしろから「ねえねえ、今の男の人、ネイルしてなかったー?」「えー、やだー」なんつー声が聞こえてきたり。他人の反応のほうが面白かった。

女性の反応は、「ヤダー、どうしたのー」→「見せて見せてー!」→「あら、カワイイじゃない!」→「どこでやったの?」「ジェル?」「アタシもやりたいー」と実に素直w。逆にがっかりなのは男性のリアクション。「どうしたの?」ここまでは一緒。「・・・」無言になるなーーー!! 「光ってるね」そのままかよ。最低だったのは、「なんかの罰ゲーム?」 いや、男のイマジネーションなんてこんなものなんだよねw。

それにしてもネイルサロン、気持ちよすぎ。日本の女子たちはこんな極上の体験をしてるなんて・・。生まれ変われるのなら次は女子か、男子のネイルが普通になってる時代に生まれますように。

ということで、今年、もっかいやるかも

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文楽「新版歌祭文」



油屋の段。咲甫大夫の中、咲大夫の切。この流れがすごくいい。この日ばかりは咲大夫の声に聞き惚れた。咲大夫の「大阪味」たっぷりの語り(としか表現しようがない(笑))に、勘十郎の遣う小助の、いかにも小さい悪役ぶり。もう抱腹絶倒。文楽の楽しさがこれでもかというくらい詰まっている。この60代のふたりの時代になるんだなあ、と、この先が本当に楽しみになってきた。

酒とバクチな日々

東京・大塚の串駒にて

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なんか超偉い人がうしろにちらっと見えてるんですけど・・・

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負けました・・・

Tokyo Kawaii Magazine 宣伝中

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おかげさまで、電子書籍カテゴリーで1週間連続1位でした

これ、ちょっと欲しい




konomiのなんちゃって制服もいいんですが、こっちほうがそそられますなあ。海外でもけっこう売れるんじゃないだろうか・・

岡山の実家の二階で・・

実家は二階建ての一戸建てだ。

かつてその実家の寝室は二階にあった。二階には二部屋。両親の寝室、僕の勉強部屋兼寝室。一人っ子だったので、そのたりの環境条件は良かったのだ。

父と母は、布団をふたつ並べて寝ていた。眺めのいい二階の部屋。隣の家と迫り出した山の間から、瀬戸内の穏やかな海を望むこともできる部屋。この部屋から、父と母が切り離されてしまったのはいつのことだったろう?

くも膜下出血を克服して自宅に戻ってきた父は、あるときから二階の寝室で寝なくなった。階段を上がるのがつらいと、一階に布団を下ろし、夫婦ともに一階のリビングで寝るようになった。二階は、34年前に主を失った子供部屋と、使われなくなった夫婦の寝室。存在しながら、機能的に役目を終えた2つの部屋。


今、その部屋にあるのは、古びた箪笥、色褪せたスナップを飾った写真立て、二度と着られることのない母のスーツ、着物、45年前となんら変わることのない勉強机……。畳の上にはいくつも羽虫の死骸。

ある日突然にゴーストタウンとなってしまった部屋。


この2つの部屋で、かつて親子3人が育んだ穏やかな時間が、天井にも壁にも床にも、すべてすべて、すべて染みこんで! 儚い影となっている。嗚咽を何度漏らしても、そのときの3人がこの部屋に戻ってくることはない。

お正月は切なくて…

この5年間、正月はずっと岡山の実家で過ごしている。

5年前は、長男くんが中学受験を目前に控えていたので、次男くんと二人だけの帰郷だった。4年前が三世代6人で過ごした最後のお正月。3年前、父のいない初めての正月。そして、母のおせち料理を食べた最後の年。2年前、母との最後の口げんか。夜中に頻繁にトイレに立つ母に苛立った。昨年、その母をトイレに連れて行くための介助が必要になり、夜中、何度も起こされるハメに。
そして今年の正月、言葉と運動機能をほぼ失った母を、夜中に無理矢理起こしてオムツを替えることになった。

時間は狂おしいほどに残虐で、現実は切ないくらいの絶望が漂っている。

なんか最近のつぶやき

澪ベース!……欲しい




ここにも神がっ!
Profile
F岡
19世紀末、ハプスブルグ家の末裔として生を受ける。3歳の時、ジャーナリズムに目覚め、5歳でル・モンド紙の編集デスク。6歳で、ネアンデルタール人との出会いと愛を描いた私小説『わたしのネアン』が、世界で5億人に読まれるメガセラーとなる。7歳のときに描いた落書きは、のちにキース・ヘリングに多大な影響を及ぼした。その後、日本の平凡な夫婦の子供となり、凡庸な青年時代を過ごし凡庸な大人となる。97年から『週刊アスキー』編集長。2003年より同誌編集人。座右の銘は「楽に生きる」。
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