中学校に入学したのは12歳のときだから、今からうーん、えーーーーっと、まあ半世紀近く前のことだ。当時は(今も?)誰もが部活をするのは当たり前、みたいな雰囲気があって、どういうわけかバレーボール部に入部した。背も低くいし、運動オンチだし、そもそも運動部向きの性格じゃないし。入ると毎日、一列に並んで声を張り上げるだけとか、雑用とかそんなのばっかり。結局、長続きせず1学期で辞めた。2学期はバレーボールよりは楽そうに見えた卓球部に入部した。入ってからはひたすら素振りとウサギ跳びをさせられる毎日で、卓球台に近づくことすらできなかった。今思えば、卓球台の数が圧倒的に足りてなかったのだろうと思う。

日大アメフト部の一連の騒動は、本筋の問題を離れて、そもそも体育会的なもののあり方や運動部の体質ってどうなのよ、みたいな話になっているのが興味深い。「理不尽な指導」という言葉が使われる。理不尽。きっと今の50歳以上(もしかすると40歳以上?)の世代の多くは、卓球部であればピンポン球さえ持つことなく、テニス部だとコートに一度も立つことなく、ひたすら素振りと球拾いとウサギ跳びをやらされた「理不尽」を体験したことがあるのではないだろうか。

これほどまでに日大の話が延々とメディアで報じられたのは、メディアの側が「バカ」なのではなく、あのときの「理不尽」を消化できないまま大人になり、その後も社会の「理不尽」と付き合ってきた自らの半生を、日大アメフト部の学生たちに重ね合わせているからではないか。そう思えてならない。メディアは、われわれの今なお消えていない「理不尽」と同質のものをちらつかせうまく掬い取っているのだ。

それは今の40代以上が仕方なく付き合ってきた20世紀の残滓だ。この20世紀的なものの多くが今、終わろうとしているように見える。いや、終わらせなければならない。

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*写真はイメージでごわす

モーガン・フリーマンとジョン・ラセターは、前世紀ではおそらく問題にならなかったであろうハラスメントが問われて、謝罪や退職に追い込まれた。日本ではレスリングのあの監督、そして今回の日大アメフト部の元監督とコーチ。財務省元事務次官のセクハラ事件なんてのもあったっけ。

中学生のとき、田舎の駅の連絡通路を歩いているとき、反対側からやってきた二人組の中年サラリーマンのそのひとりが、自分の少し前を歩いていた若い女性のお尻をポンと叩くのを目撃した。女性は小さく悲鳴を上げ、中年男性たちは何事もなかったかのようにそのまま歩いていった。しばらくすると後ろからその男性たちのスケベそうな笑い声が聞こえてきた。女性のほうも足早にそこを立ち去った。45年前のことだけど、あのときの嫌悪感とかやり切れなさをどう言い表わしたらいいだろう。

20世紀的なものをどう終わらせるのか。終わるものの中にはもちろん自分自身の一部が組み込まれている。この終わり。ケヴィン・ケリーの言葉を借りれば、「本の民」の終焉について、あと何回かつらつらと書いてみようと思う。

ちなみに、日大の理事長は姿を隠していれば騒ぎはいずれ収まると思っているのだろうけど、ネットに一度放り込まれた「炎上」は、相手の燃料が切れるまで燻り続け、いつでも第2第3の炎上を用意している。それまで大学のブランドは少しずつ毀損し続けるだろう。そこでオレを講師に雇(自粛)。