毎週土曜日の午前中、秋葉原プログラミング教室ではAIプログラミングコースを開講している。動画と自学自習による授業なので、全員が真っ白な椅子に腰掛け真っ白な机の上に置いたノートパソコンに黙々と向かう。静かだけど次第に微かな熱量が伝わり、やがて熱気と化していく。そんなAIプログラミングコースの授業が、月に一度だけ、のっけから高い熱量で吹き上がっていく日がある。UEI代表の清水亮氏がAIの最新技術動向について直接講義を行なう回だ。本来は90分の講義なのだが、時間がオーバーしなかった日はない。講義終盤には、熱気は熱波となり、熱の波動となって教室内の体感温度を容赦なく上昇させていく。この講義だけで、月に3万2000円の授業料は安いのではないか、と思う。あ、教室の責任者のオレが言うと自画自賛になっちゃうか。


先日、そんな清水氏の授業の中で、とても印象に残った話がある。“自然言語”と“文法”の話がそれだ。

この話は、2週間ほど前の、「今週は暑かったのでうちの会社はサンダル出勤OKだった」という呟き(この呟き自体は事例なのかな?)に対し、この意味がわからない、とする人が一定数存在するという投稿が先にあり、これ対するリアクトがほどよく炎上気味に熱を帯びたことによっている。

Twitterには「文字は分かるが文は読めない」という人が一定数存在する話


ちなみに編集者として見れば、この事例となった文章はいただけないのは言うまでもない。編集部員がこんな文章を書いてきたら、僕はその場でビリビリと原稿用紙を破くだろう(20年前の自分であればですが、今ならパワハラ確定案件)。が、これはおそらく、グーテンベルグの呪縛なのだ。

マクルーハンは、活字文化こそが人間を抑圧していると主張した。活字印刷というテクノロジーが、国語や文法の統一を加速させ、それまでの口承文学と入れ替わる形で、印刷本の上に綴られる近代文学が発展していった。重要なのは、きちんとした文法が先にあったわけではなく、あとからスタイルが確立されていったということだ。大量に流通する印刷物、つまり活字出版物がそれを必要としたからだ。が、このことに僕らは無自覚だ。「誰が水を発見したかは知らないが、それが魚でないことだけは確かだ」と言ったのもマクルーハンで、自分たちがどれほど活字文化にどっぷり漬かっているか僕らは知らない。

ちなみに上に書いていることは、すべて服部桂氏の新著『マクルーハンはメッセージ』の中にすべて載っている。




民俗学者の柳田国男も同じようなことを語っている。
「・・・印刷という事業は社会文化の上に、怖ろしいほどの大きな変革をもたらしている。以前双方がほぼ歩調をそろえて、各自の持場を進んでいたものが、瞬く間に両者その勢力を隔絶してしまった・・・」と語り、印刷技術の発展に伴って、「口承の文芸」が衰退してきていることを嘆いている。ちなみに、この部分は野家啓一『物語の哲学』からの引用である。“「物語の衰退」の一因は文字の普及と印刷術の発達にあった”、と。

物語の哲学 (岩波現代文庫)
野家 啓一
岩波書店
2005-02-16



野家の言葉を借りるなら、冒頭の「炎上」した呟きは「音声言語」であって「文字言語」ではないのではないか。つまり、「発話状況の共時性と文脈依存性を超えた通時的伝達」に属するものだ。だから、言葉の意味が「わかる」か「わからない」かの二項対立はまったく不毛だし、それこそ意味がない。

人が発するこうした曖昧な言葉を解釈しようと試みるAIの研究は、だから面白いと思うだけど。



それにしても、20世紀のアメリカのメディア学者と日本の民俗学者のこのシンクロはとても興味深い。一方は、電子メディア(それはテレビだったのだが)の時代を予見し、一方は、口承文芸の復権を試みた。少し本腰を入れて研究してみたいと思う。