或る大学生の読書ブログとウィーン留学記録|The Record of Wien and My Favorite Books

ふらふらした大学生のぶろぐです。趣味は、旅・読書・野球観戦です。 /// The Blog is written by an plain student. My hobby is TRAVELING/READING BOOKS/WATCHING BASEBALL.

吉田修一の代表作と言えば、『怒り(上) (中公文庫) [文庫]』や『悪人(上) (朝日文庫) [文庫]』のような動きのある作品が想起されると思います。本作『パーク・ライフ (文春文庫) [文庫]』は、そういった強烈な強さを押し出す作品とは違い、芥川賞らしさのある作品です。以前、鵜飼哲夫の『芥川賞の謎を解く 全選評完全読破 (文春新書) [単行本]』(書評はこちら)でも述べましたが、芥川賞というのはその時代に即していて尚且つ斬新さを提供している作品です。なので、オリンピックのような金銀銅という明確な序列を持った賞ではありません。実際のところは文学作品の完成度は直木賞の方が高いことも多いでしょう。とはいえ、本作に文学作品の完成度がないという訳ではなく、その斬新さがやはり芥川賞らしいと感じるのです。

パーク・ライフ (文春文庫)
吉田 修一
文藝春秋
2004-10-01





パーク・ライフという名の通り、舞台は日比谷公園。公園の公共性というのは非常に独特です。もちろん、経済学的な公共財の性質を満たしていて、「非排除性」「非競合性」の性質を帯びています(正確には、準公共財と言い得るかもしれません、というのも排除可能性や競合可能性がゼロとは言い切れないので)。しかし、もっと「公共」というものをもっと政治哲学的に考えれば、ハンナ・アーレントのいう「公共的空間」を持ち出すこともできるでしょう。彼女のいう「公共的空間」とは「自由」と「排除への抵抗」の存在、つまり「他者の存在」がありながら「自由」を与えられている空間。公園での「自由」とは何でしょうか...。



小説へ目線を戻せば、この日比谷公園に足繁く通う主人公は、ある朝通勤途中に電車の中で、ぼんやりしていて、ふと後ろの女性に声をかけてしまいます。日本臓器移植ネットワークの広告『死んでからも生き続けるものがあります。それはあなたの意思です。』を見て、一言「ちょっとあれ見てくださいよ。なんかぞっとしませんか?」。その女性は「ほんとねえ、ぞっとする」と平然と答えを返す。
そんな現実感のない出来事から物語がスタートしていきます。男性と女性は日比谷公園でお昼だけ顔をあわせる間柄になります。

女性:
「私ね、この公園で妙に気になってる人が二人いるのよ。その一人があなただったの。こんなこと言うと失礼だけど、いくら見ててもなぜかしら飽きないのよね」
と。

一人は何時間も公園を眺め続ける化粧品の会社で働く主人公の男性、もう一人は気球を揚げ続けようと頻繁に公園に現れるお爺さん。この二人の共通点て何だろうと考えてみたのですが、公園の公共性を犯しているものなのかもしれません、それが女性の目に止まった。普段、公園では、私たちは他者を前提として行動しています。ランニングするにしたって、毎日ランニングしていれば「あ、あの人もよくランニングしているな」とか、目的としている行動に付随して他者との関わりが生じてきます。そういった中で、この小説では公園にいるのに「他者の存在」を考えもしない人間として、サラリーマンと初老のお爺さんを描いたのではないか、そう思うのです。



そしてもう一節気になるところが、ちょっと長いですが、
男性:「じゃあ、(人体臓器の売買の)原価ゼロ?」
女性:「まあ人件費やなんかはあるけど、原材料費はゼロね」
ふと、ショーウィンドウに横たわる人体模型の姿が浮かんだ。
「と言うよりは、原材料は善意よね」
「え?」
「だから...」
彼女はそこで言葉を切ると、何かを思い出したように笑い出し、「そういえば、私たちが知り合ったのって臓器提供を呼びかける広告の前だったわよね」と僕の顔を覗き込んだ。『死んでからもいき続けるものがあります。それはあなたの意思です』思わず、二人で声を揃えて呟いた。人の善意を加工して販売し、「フォーブス」に提供されるような優良企業になった会社が、この世に存在しているリアリティを感じられなかった。
「でも、やっぱり不気味だな。何ていうか、世の中が進んで、だんだんそれが自然になったりしたら.......」
「そう深刻に考えることないじゃない」
「だって、何ていうか、例えば俺の心臓だとか肝臓だとか眼球なんかも、いずれは他人のものになるんだって考えたら、何だか自分のこの体が、借り物みたいじゃないですか」
「借り物かあ.......、ほんとよね。外側だけが個人のもので、中身は全部人類の共有物。ちょうどマンションなんかと正反対。マンションは中身は私物で、外は共有だもんね。」
本当に私たちの肉体って「自分の」ものなのか...。実は「公共物」なんじゃないか...。そういう鋭い見方をする女性。私たちの肉体・精神は本当に私たちの「意思」によるものなのか。「排除」もされないが「主張」もない、とにかく生きている、あるいは生かされている何か。人体模型のようなものなのかもしれません。こういった中で、先の女性の見方が繋がってきます。公園という公共物で、私的な目線で公共を利用できている人、それが男性でした。自分の空間に入り込み、公園の風景などには目もくれず、ただボンヤリしている。実際、公園でボンヤリしていても、それは営業の休憩という目的を持ったものだったり、誰かと合う待ち合わせをしているものだったり、私的に自由な空間として過ごしている人はあまり多くはないのかもしれません。


公共性はいつの間にか、公園に限らず、私たちの肉体まで、毛細血管のごとく張り巡らされていて、何から何まで公共的な何か・他者という存在に共有されている状態が実現している。かもしれません。もう公共的にも私的にも、境目というのはつけづらくなっているのかもしれません。実際、私たちの考えや思考というのは、基本的にはあらゆる他者から構築されたものです。むしろ他者の刺激によって、私たち自らの考え、と私たちが称するものを構築していると言った方が正確でしょうか。私たちの思考を剥き出しにすれば、後に残るのは、この世の共有概念。そこに存在価値はあるのでしょうか。



最後に女性は男性を写真展に誘います。その写真展は、何気ない道端の写真展。女性は秋田県角館という彼女の故郷の写真だと言います。そうして公共化されていく彼女の私的な思い出だったものを見て、彼女は「よし。........私ね、決めた」と呟いて、小説は終わっていきます。


女性が最初から最後まで変わらないのに対して、男性は実は少しづつ変わっていきます。最初は女性を何でもないものとして眺めていたのに、何度か会ううちに、女性の腕の白さ・細さに気づいたり、顎のほくろに気づいたり、最後には「あの、明日も公園に来てくださいね!」と叫びます。芸が非常に細かいと思いますね。男性はそれまで他者に関心を抱いてもいなかったのに、徐々に他者への関心を深めていくのです。

ここからは私の空想ですが、女性は公園にこなくなるでしょう。きっと男性のそういう強烈な無関心さに興味を抱いていたんじゃないかなと思います。何を決めたんでしょうね。男性と会わないことを決めたのかもしれません。




こうしてみると、とても斬新な作品だなと思います。恋愛の要素はほとんど出てこず、淡白に進んでいく小説です。でも、一貫して臓器移植や人体解剖やら一見グロテスクな話題が出てくる。とても不思議な感じです。書き手の力量が伝わってくる素晴らしい小説でした。


【ならんで読みたい本】

公共性 (思考のフロンティア)
齋藤 純一
岩波書店
2000-05-19

(公共性についてもっともわかりやすい本はこれじゃないかなと思います。)

怒り(上) (中公文庫)
吉田 修一
中央公論新社
2016-01-21

(映画化もされた(よね?)吉田修一の代表作)


(芥川賞の見方を教えてくれるとっても面白い本)

 
           
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