書評問屋

大学生も社会人になってしまいました。経済学に携わりながら、仕事をしています。主に書評を書いています(このブログは個人的な考えのみを書いています)。関心分野は経済学(Econometrics, Bayesian, Macroeconomics, IO, Machine-Learning)、哲学(ポストモダン)、社会・文化、歴史、物理学、小説・随筆などなどです。

言わずと知れた相当な名著です。私はこれを4年ほど前に読み、今こうしてパラパラっと軽く読み直してみています。なぜかというと、元歴史学者の与那覇潤さんの「歴史学者廃業記」という記事を読んだからであります(この記事を書いているのは公開の1週間前です)。なかなかショッキングな記事ではありますが、言わんとすることは切実に伝わります。本来的な「歴史」の認識が、歴史学者・政治家・若者・党派性を持つ人々などあらゆる人たちから、放棄されており、「自分の当てはめたい像を当て込んで喜んでいる」というこの現状に与那覇さんは絶望している、さしずめそんなところでしょうか。

実感として、こうした「ある物事に自分の意見が既に存在していて、自分の認識を確認・周知するためだけに、過去の著作や他者の意見を消費している」という例は数多に存在します。政治性を持つ議論はもちろんのこと、科学の分野でもたまにニュースになることと思います。この自分の認識を押し通す行為が、強まりすぎると、STAP細胞の時のような結果の捏造や神戸製鋼のデータの捏造などの話になってしまうわけでしょうが(勿論結果を出したいという気持ちもあったでしょうが)、近年私たちは「嘘をつくこと」に余りにも抵抗がなくなっている、そんな気がします。そこで一時立ち止まって、「自分の認識を改める」という方向に迎えるようにならなければいけないでしょう。でも、そのためには、「相手の意見の真意を汲み取り、丁寧なディスカッションをする」という、言葉では簡単だけれども、実践するのが非常に難しい、行為ができなければいけません。これをどうやって、醸成すれば良いだろうか、という議論はハーバーマスの『増補ハーバーマス――コミュニケーション的行為 (ちくま学芸文庫) [文庫]』などを参照する必要も出てくるため、本記事の射程を超えてしまいますが、「熟議」をどう実現するか、という点が課題かと思います(他にもサンスティーンの『熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論 [単行本]』とかも良い本です)。そうするには、教育制度をどうのこうのしなければとなるでしょう。私は、歴史認識ひいては「自分の認識を改める勇気・難しさ」というのは日本固有の問題ではなく、世界的な問題だとも思いますし、教育制度を欧米水準に整えたとしても、議論のお作法・勝ち方が身につくだけで、望まれる議論の方法がそう簡単に実現できるとは思いません。


ここでは、熟議や議論・コミュニケーションについて深掘りするのは避け(本当は、日本の岩波文化が議論の方法論の基盤を作っていたことなど言いたいことはいろいろあるのですが...、詳細は『出版と知のメディア論―エディターシップの歴史と再生 [単行本]』とか私のブログ記事をご覧ください)、「歴史認識」という点に絞りたいと思います。


歴史とは何か (岩波新書)
E.H. カー
岩波書店
1962-03-20




「歴史認識」という点で何よりも大事なことが、「認識」とは何か?という点です。私たちが何かを「認識」する際に、経験的な(ア・プリオリな)認識を頼りにすることが多いかと思います。どういうことかといえば、「赤くて丸くて甘い果物」をどうやって「りんご」であると認識するのか?という話です。「赤くて丸くて甘い果物」には、他にも「いちご」や「ドラゴンフルーツ」などたくさん存在します。この中で「りんご」を認識するには、より細かい味覚やりんごのサイズ感など柔軟な情報が必要になってきます。こういう話をすると、機械が何十年もかかってたどり着いた画像認識と人間の知覚を比べると、人間の知覚の多面性にただひたすらに驚嘆の意を覚えますが、それはさておき、「りんご」を認識する際に、私たちは「好き」「嫌い」という感情的な「認識」をします。これこそが「認識」の正体です。世の中には「赤くて丸くて甘い果物」はたくさんあるのに、一般に「ザクロ」ではなく「りんご」が想起されるのは、「りんご」が好きな人が多いというのが一つにあると思います。勿論、りんごの方が多く栽培されている、りんごの方が栄養素的に良いところがあるなど、他にも様々な要因があるでしょうが、少なくとも「赤くて丸くて甘い果物で一つ挙げるとするならば何か?」に対する世論調査をすれば、全ての果物が一律に認識されているという結果にはならないでしょう。


この陳腐な話を「歴史」という大きな枠組みに応用すれば、
事実はみずから語る、という言い慣わしがあります。もちろん、それは嘘です。事実というのは、歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかを決めるのは歴史家なのです。ピランデルノの作品中のある人物であったかと思いますが、事実というのは袋のようなもので、何かを入れなければ立ってはいない、と言ったことがあります。一〇六六年にへスティングスで戦闘が行なわれたことを知りたいと私たちが思う理由は、ただ一つ、歴史家たちがそれを大きな歴史的事件と見ているからにほかなりません。シーザーがルビコンという小さな河を渡ったのが歴史上の事実であるというのは、歴史家が勝手に決定したことであって、これに反して、その以前にも以後にも何百万という人間がルビコンを渡ったのは一向に誰の関心も惹かないのです。(p.8)
となります。つまり、「認識」には自ずと「解釈」が入ってきてしまうのです。これは重要である、と歴史家が判を押したものだけが、歴史というカテゴリーに入り、他の有象無象は捨象され、歴史のクズとなっていき、忘れ去られるのです。であるからこそ、歴史家というのはできる限り、中立で影響的な出来事を歴史のキーワードとして拾い上げなければならず、私たちの歴史認識にも影響を与えているわけなのです。E.H.カーの言葉を借りれば、
歴史家の機能は、過去を愛することでもなく、自分を過去から解放することでもなく、現在を理解する鍵として過去を征服し理解することであります。(p.33)
そう、愛することと叙述することは全く異なるものです。歴史家が歴史の愛を押し付けてしまっては、「大きな物語」としての歴史が歪んでしまいます。それは正当な歴史認識とは言えないでしょう。叙述することは、理性をもっていかなる結果であっても、自らの感情を押し殺し、正確な認識を展開することであると言えるでしょう。これは必ずしも、歴史認識に止まらず、影響力のある人は、常にこの「認識を表明すること」を意識するべきでしょう。プラトンの『ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫) [文庫]』を読めば、ソクラテスの偉人たる所以が非常に鮮明にわかります。ソクラテスは裁判にかけられた際に、自らの罪は否定しても、自らの行為は事実であると全く否定をせず、自分の罪の否定の認識の理由は述べませんでした。青年に様々な知恵を授けていたソクラテスを不審者である・何か良からぬことを焚き付けていると、ソクラテスは密告されてしまったわけですが、ソクラテスはその解釈・認識をその場の議論に委ねました。ソクラテスという有名人が自らの認識の表明の理由を明らかにしなかったことは、大きな意味を持ちます。「偉人とは、歴史的過程の産物であると同時に生産者であるところの、また、世界の姿と人間の思想とを変える社会的諸力の代表者であると同時に創造者であるところの卓越した個人である(p.77)」からには、認識の生産者として多分に意識すべきところがあるに違いないでしょう。しかし、悲しいかな、多くの過去も含めた為政者は認識を強制的に流布し、私たちの認識に自由を与えないことが多いものです。それは個人の自由を超えて、公共の福祉に反した、欲望の権化と見なしてもいいでしょう。



与那覇潤さんはこうした「歴史認識」を放棄するあらゆる人々、言い換えれば、「神話」的な物語にすがる人々で溢れかえっている現在の世の中に絶望して、歴史の力を信じることができなくなっているように思えます。また、与那覇さんの文章の最後には、「歴史の終わり」には二つあると述べられています。一つはヘーゲル的な「もうこれ以上進歩しようのない、最終状態に人類が到達した(すくなくとも、なにが最終状態かは確定した)」、一方でニーチェ的な「歴史的にものごとを語って、一本のすじを通そうとする試み自体に無理があるのであり、もはや有効ではない」があり、私たちは後者の諦念的な歴史感覚になってきているという局面にきてしまっていると、嘆いています。

私自身も、この感覚をひしひしと感じて、過ごしています。「認識すること」に理解のある自分の周りの一部の友人を除けば、ディスカッションをしても、「意見を変えずにぶっ通す」か「面倒臭いので周りの意見に合わせる」の二極化をしていて、「声の大きい人間が勝つ」という悲しい事態が起きていると日々感じます。圧迫や妥協ではない、そして立場や所属を超えた、何か協調的な議論や会話というものが本当にできないのだろうか、というのは人との会話でどうしても常に私の心の中に引っかかっているところであります。ひとまず、本書はこの世であらゆる何かについて議論をする上では、必読。と私は考えています。


【オススメの三冊】

オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)
エドワード・W. サイード
平凡社
1993-06-01

(解釈については、こちらも超がつく代表作。『歴史とは何か』と『オリエンタリズム』さえ読んでいれば、日々の違和感について感じるところが出てくるはず...。)

コミュニケイション的行為の理論 上
ユルゲン・ハーバーマス
未来社
1985-10-01

(コミュニケーション、熟議について。ハーバーマスの議論は実践するには難しいけど、理想ですね。)


(歴史認識についてよくまとまった本。いわゆる「歴史修正主義」の根幹には何が潜んでいるのか?)
 
           
このエントリーをはてなブックマークに追加

人気ブログランキングへ 
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

コメント

コメントフォーム
評価する
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット