書評問屋

大学生も社会人になってしまいました。経済学に携わりながら、仕事をしています。主に書評を書いています(このブログは個人的な考えのみを書いています)。関心分野は経済学(Econometrics, Bayesian, Macroeconomics, IO, Machine-Learning)、哲学(ポストモダン)、社会・文化、歴史、物理学、小説・随筆などなどです。

今回は、堅苦しい話は抜きにして、コーヒーブレイクってことで、イギリスのロンドンを中心とした、コーヒーハウスの歴史をご紹介差し上げたいと思います。今では日本を含めて世界中でカフェというのは見かけないことがないくらいの文化になっています。






私の留学したウィーンではカフェ文化が歴史無形文化遺産としてれっきとした文化として根付いています。ウィーンでもっとも古いカフェは1685年に創業したと言われています。現存している中で最古のカフェは「Cafe Frauenhuber」だそうです。よく通ったけど、あそこは行かなかったな...、次回の楽しみにしておきます。ウィーンではこれほどにカフェが根付いている一方で、イギリスは紅茶文化ですよね。しかし、実はコーヒーがもっと前に一大文化として、流行ったのはイギリスのロンドンなのです。

まずは、コーヒーの伝播の歴史を振り返りましょう。どうやら決定的な説は言えないようなのですが、代表的なものとしては、約1000年ほど前にアラビアのバクダッドにおいて医学者のラーゼスが、バンという木の種子を砕いて煮出したバンカムという液が胃に良いことを唱え、これが後にアラビア哲学のアビナンケ(980-1037)などによって、胃薬、覚せい剤としての価値を認められるようになったそうです。この頃のコーヒーはまた今のものとは別物だったようで(煎っていないため)苦味もなく、色もレモンのようだったそうです。これが13世紀の半ばごろになると、イスラム教国で、煎って煮出すようになり、現代のような色の黒い、コーヒーが主流になってきたそうです。とりわけ、イスラム教圏では酒が禁止されていたため、刺激性のあるコーヒーが嗜好品として飲まれたのでしょう。実際、私もウィーンでは友だちのシリアやイラクの方達から、コーヒーを振舞っていただきました。このイスラム圏のコーヒーはご存知の方も多いでしょうが、どろっとしたかなり苦味のあるコーヒーです、今ではトルココーヒーとして親しまれています。真鍮や銅の鍋で煮出したもので、ものによってはスパイスを入れて、香りも含めて楽しむものです。
さて、その後トルコにコーヒーが伝わり、1554年にはコンスタンティノープルに世界最初のコーヒーハウスが開店しました。そしてイタリア、フランス、イギリスと伝わっていきます。イタリアでは濃いめのエスプレッソを飲むのに対して、ウィーンまでくるとMelangeというクリームの乗っているコーヒーになります。徐々に北上するにつれて、コーヒーの煎り方が変わってきて、濃さや深み、スパイスの使い方が変わってくるのは面白いですね。味覚や気候などとも関わりがありそうです。
そして、イギリスで初めて開かれた最初のコーヒーハウスは、1650年にユダヤ人のジェイコブなるものがオックスフォードに開いたものだそうです。

IMG_4079
(@ Near Stephansplatz, カフェ。暖かくなると外にテーブルが出され始めます。)

IMG_3275
(@ in Mostar, Bosnia and Herzegovina)


ロンドンにおいて、コーヒーハウスがどのような役割を果たしたのでしょうか。実は本当にあらゆる役割を果たしていました。もちろん、賭博やトランプなどに興じるためのグレーなコーヒーハウスも多かったのですが、男の時間の潰し場所でもありました。夏目漱石の『文学評論〈上〉 (岩波文庫) [文庫]』によれば、
中流の市民に至ってはまず家族と食事をともにした後、十時頃から各自行きつけの珈琲店に至て煙草を飲み、珈琲を喫し、雑誌類を読む。『デーリー』『パブリック』『レッジアー』『クロニクル』の類である。それから家に帰るかまたは仕事を処理する。午後二時にはChange(取引所)に行って二時間ほどはここで潰す。それから四時になるとdinnerを食う。dinnerを食った後は散歩とか娯楽とか朋友と会合するとかで日を暮らす。
また、偽医者がインチキな薬を売買もしたと言います。1710年の10月、『タトラー』第128号では、偽医者のことが報じられており、
頭痛、腹痛、また洋服のしみで困っている人は、適切な治療、修理を受け入れられる。妻を奪われたり、馬がいなくなったとか、あるいは新しい説教書、練薬、ロバのミルク、その他身体や精神に必要なものは、ここへ探しに行けば良い。
二〇年ほど前には、道を歩けば必ず広告を渡され、そこには「グリーン・アンド・レッド・ドラゴンについて知識を得て、雌のシダの胞子を発見せし」医者などと書かれていたものだ。と言っても一体なんのことだが誰にもわからなかった。ところがこのグリーン・アンド・レッド・ドラゴンなるものは大衆に大いに受け、おかげで医者はたいそうな羽振であった。同じ頃、道路の角角に難しい言葉が貼られていた。記憶を手繰り寄せてみると、確か「テトラキマゴゴン」とかいう言葉が貼られていたと思う。これが多くの人々の目に止まり、信じられないくらいの好奇心をかきたてたのであった。病気になると、誰も彼もこの学識ありそうな名前のところへ見てもらいに行ったのだ。...(中略)..
.私自身はと言うと、これまでまあ生きてこられたのは、節制のおかげだと思う。これこそが病を防止し、もっとも効果的な治療になることが多いのだ。結論を言えば、「何も飲むな」と言うことになる。
他にも、フリーメーソンが集まる場所としても機能したり、政治集団の会合の場所になったりもしたそうです。イギリスの二大政党といえば、トーリー党とホイッグ党です。トーリー的色彩の強い集団がよく使ったのは、「ココア・ツリー・チョコレートハウス」であり、一方ホイッグ党系の集団がよく使ったのは「セント・ジェームズ・コーヒー・ハウス」です。こうしたコーヒーハウスでは政治談議が活発に行われ、大変な喧騒だったと言います。
...まずセント・ジェームズへ行ったところ、表に近い部屋は政治談義で大変な喧騒だった。そして部屋の奥へ向かうと、全く違った意見が語られているのだが、ますます激しい議論が交わされ、奥の部屋ではコーヒー・ポットの蒸気の中に座った理論家たちが議論をますます高尚にするものだから、スペイン王国が壊滅するだの、ブルボン王朝の血筋が十五分もしないうちに絶えるだのと言う話が聞かれたのである。
など、政治会合の場所としても機能し、また文学評論が行われる場所でもありました。

そうそう、ロイズ・コーヒー・ハウスについても言及しなければいけません。ロイズはイギリスの金融街にある保険取引所、またはそこで業務を行っているブローカー(保険契約仲介業者)及びアンダーライター(保険引受業者)を含めた保険市場そのものとしてのがまず一つあります。アンダーライターというのは、証券の下部に引き受けたことを示す署名をしたことに由来します。一方で、ロイズは別に法人格を持つロイズ保険組合というのものも存在します。一部は法人ですが、大部分が個人の保険引受業者であるアンダーライティング・メンバーのための建物や事務的なサービスの提供をしている保険組合です。このメンバーになるためには、厳密な審査を受けなければならず、日本人では過去に数名しかいないそうです。というのも、このアンダーライティング・メンバーは無限責任を背負わなければいけないそうです。イギリスではこのロイズのメンバーになることがある種のステイタスになっていると言います。
そんなロイズはコーヒー・ハウスから生まれたのです。大型船舶やマリリン・モンローの足にまで保険をつけたロイズですが、もともとは17世紀末のイギリスのコーヒー・ハウスでの海上保険が走りになります。十七世紀の保険制度は、今のように法人格を持つ保険会社が存在するものではなく、金融業者や貿易商人が個人で保険を引き受けていました。ロイズは1688年頃にエドワード・ロイドが元を作ったと言われています。これが正しく近代的保険の始まりとも言われています。


また本書でもっとも重要視されているのが、コーヒー・ハウスとジャーナリズムの関係ですが、それは本書を実際に読んでいただくとしましょう。新聞の発行とコーヒー・ハウスの隆盛は密接に関わってきます。今でもカフェに新聞が置いてあるのは、その名残でもあるのでしょうね。


コーヒー・ハウスはこうして様々な議論や取引、遊びの舞台となりましたが、それゆえ政府からの圧力も強く、なんどもイギリスのコーヒー・ハウス禁止令との闘いになりました。その度に、コーヒー・ハウスの文化としての強さを見せつけて、復活を遂げましたが、最後は暗いコーヒー・ハウスは徐々に廃れていき、また紅茶に取って代わられることになります。その理由として著者は5点ほど理由を挙げます。
  1. コーヒー・ハウスの数が多くなりすぎたこと
  2. 当初はコーヒー・ハウスでは酒類が禁止されていましたが、モラルの低下からか徐々に酒類が供されるようになり、秩序が乱れていきました
  3. コーヒー・ハウスの「人間の<るつぼ>」的性格が十八世紀頃から失われていきました
  4. コーヒー・ハウスの経営者が『コーヒー・ハウス・ガゼット』なるものをジャーナリズムの進展とともに発行し始めました。これは、店の馴染みなどが記事を出して、コーヒー・ハウスの経営者がお金を取るというものでありましたが、コーヒー・ハウスの中で情報を集めていたジャーナリストたちがそれに反発をし、一悶着おきました。こうしたコーヒー・ハウスの姿勢が客の反感を買い、情報センターとして機能していたコーヒー・ハウスから客足を遠ざける結果となりました。
  5. 政府の植民地政策が変わったため
などが本書で理由として挙げられています。こうしてロンドンのコーヒー・ハウスという二百年続いた歴史は次第に幕を閉じていくわけであります。こうした一つの文化の栄枯盛衰をみると、文化というのはそれが終わりを迎えるにつれて文化として意識されていく、そういうものである気もします。とりわけ、形として現れない無形の文化遺産は流行っている限りにおいては、文化としては意識されづらく、ある種当たり前のものとして受け止められるのでしょう。今では海外と比較して、その稀少性を痛感するといったこともあるでしょうが、昔はそれも多くの人々には実感しづらく、文化の中には良い面も悪い面も見え隠れするものでしょうから、それを文化というポジティブな意味合いで捉えることも難しくなってくるものなのでしょう。改めて、「文化とは何か?」そういった問いを突きつけられた気がします。

【オススメの三冊】


(こちらの本もコーヒーを巡る歴史の本です。)


(フリーメーソンについてなら...。)

文学評論〈上〉 (岩波文庫)
夏目 漱石
岩波書店
1985-09-17

(イギリスの文化史は、夏目漱石のお陰で、私たちも相当程度知ることができます。)

 
           
このエントリーをはてなブックマークに追加

人気ブログランキングへ 
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

コメント

コメントフォーム
評価する
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット