書評問屋

大学生も社会人になってしまいました。経済学に携わりながら、仕事をしています。主に書評を書いています(このブログは個人的な考えのみを書いています)。関心分野は経済学(Econometrics, Bayesian, Macroeconomics, IO, Machine-Learning)、哲学(ポストモダン)、社会・文化、歴史、物理学、小説・随筆などなどです。

突然ですが、米内光政という人物をご存知でしょうか。第37代内閣総理大臣(1940年1月16〜1940年7月22日)であり、第39~41(1937年2月2日〜1939年8月30日)、49~52代海軍大臣(1944年7月22日〜1945年11月30日)を務めた人物です。
こういう伝記物を自ら進んで取り上げるのは、あまり好きではないのですが、敢えて取り上げてみます。というのも、伝記物はどうしても手放しの礼賛が前提にあり、かつその人物について直接知るわけではないので、その記述が妥当かどうか判断に苦しむからです。ですから、私は米内光政という人物の完璧な描写を本書には求めず、下駄を穿かされた「神話的な」米内光政を本書で読んだことになります。ノンフィクションとはいえど、記述者の主観が入っている以上、フィクショナルな部分が混ざっている、そういう理解をした上で、本書含む伝記物を読むべきでしょう。そうした前提を敷いた上で、本書に記述されている米内光政は非常に素晴らしい人物であると言えるでしょう。別に本物の米内光政が実際にどうであったかはさておき、本書の「米内光政」のような人物に私はある種の憧れを抱きますし、本当に格好いい人物であると思います。こういった理解のもと、本書について軽くご紹介したいと思います。
(ですから、私は伝記物を好きではありますが、半分くらいは差っ引いてその人物を見ています。『宮本武蔵(一) (新潮文庫) [文庫]』とかも非常に良いですが、やっぱり神格化されている部分が大きいと思います。)


米内光政 (新潮文庫)
阿川 弘之
新潮社
1982-05-27




私はこの『米内光政 (新潮文庫) [文庫]』を、1、2年前に読み、久々に回顧しているわけですが、どうして振り返っているかといえば、とある博物館で米内光政という単語を見つけ、感慨に浸ったからであります。ですので、まず先にその話をしたいと思います。先日、たまたま国立公文書館(今話題の公文書ですね...)に立ち寄る機会があり、その1階でたまたま目にしたものがありました。「終戦の詔書」という天皇や内閣総理大臣・国務大臣の署名付きの昭和20年(1945年)のポツダム宣言受諾に際して発布された文書です。この文書の何が(個人的に)面白いのかといえば、副署と呼ばれる国務大臣の署名です。


大日本帝国憲法_副署

終戦の詔書_副署

日本国憲法_副署



上から順に、大日本帝国憲法、終戦の詔書、日本国憲法のそれぞれの文書の国務大臣の署名です。見ていただくとわかるのですが、順番は不規則でバラバラです。実は、これ今のような省庁ごとの建制順とは異なり、各国務大臣の宮中席次つまり位階勲等に依るのだそうです。例えば、大日本帝国憲法の末筆は榎本武揚です。幕府側の人間として明治維新後も政権に採用されたものの、幕府側の人間ですから、そういう順番になるのでしょうね。ちなみに、文部大臣は何て書いてあるのかわからないでしょうが、森有礼です。公文書に限れば、これは森有礼の絶筆だと言われています。というのも、憲法発布の日に森有礼は殺されているのです。ですから、憲法発布の式典には森有礼は参列していないのだそうです(cf. 石渡隆之「大日本帝国憲法と日本国憲法」)。また、日本国憲法の方をみると、内閣総理大臣吉田茂の次に、親米派と言われた幣原喜重郎がきているのも妙な納得があります。
そして、今回注目すべきは、終戦の詔書にて内閣総理大臣の次に米内光政がきていることです。そして、陸軍大臣阿南惟幾が海軍大臣・司法大臣よりも宮中席次が低いことです。これを見るに、米内光政は相当天皇陛下の信任が厚いことが伺えます。そして、そんなエピソードを本書でよく見かけていた私は、この詔書を見て非常な感慨に浸っておりました。

実は米内光政は過剰評価されているとよく言われておりますし、戦争を止めることはできたが、鈍重すぎて止めにまで至らなかったとも言われています。本書の書きぶりは海軍贔屓すぎるところもあるでしょう。米内光政は思い立てば、戦争を止めることのできた位置にいたのかもしれません。ただし、こうした公文書が示すようにやはり米内光政は戦争を最終的に終結させる際には、多大な尽力を尽くした人であったのは確かかと思います。




さて、そろそろ本書の中身を少し紹介しましょう。米内光政は山本五十六と井上成美と共に終戦前後の海軍を背負ったキーマンであり、阿川弘之は彼らを海軍提督三部作と称しています。山本五十六が海軍の顔とすれば、米内光政は海軍を内外で支える屋台骨、井上成美は海軍の教育・理論武装を担当した快刀です。山本五十六が大将として海軍人気を背負えたのも、井上成美が参謀として縦横無尽に動けたのも、米内光政が海軍で居座ってくれたお陰でしょう。それは山本五十六にしても井上成美にしても、お互い様のようなところがあって、海軍のネイビーブルーの伝統を守り、日本を戦後にハードでも着陸させてくれたのは、この3人がいたからこそ、だと思えます。

誰だって、何かを始めるのは好きですが、何かを終わらせる尻拭いは誰もやろうとしないものです。もちろん、これには向き不向きがあって、米内光政は勝ち戦の将としてはあまりに慎重で鈍重すぎます。しかし、敗軍の将軍としてはその粘り腰や綿密な計画性、政治への無関心さが最高の才能として発揮されます。私は戦のようなものの戦い方は二つあると考えています。一つは、「攻撃は最大の防御なり」として、とにかく突破し、成果をあげるタイプ。もう一つは、絶対に負けない・被害を最小限に止められるタイプ。米内光政は明らかに後者ですし、私自身もリスクを背負えば勝てるかもしれないけれども、リスクのある戦いはそもそも参加しないで、確実な勝ち戦だけ参戦するタイプです。その点、普段は適当な受け答えをしていても、どんなに臆病だ、頑固だ、と罵られようと、自分の譲れないところの意見は絶対に曲げず、「流されているようで、流されていない人」という評され方です。そんなエピソードをいくつか紹介しましょう。

連合艦隊旗艦の陸奥の艦長だった時代の米内光政を表した文章には、
「報告をしても、返事は『そうか、うん』だけですが、それでいて親しみやすい。米内さんという人は、上にも下にもおべっかを使いませんでした。我々、当時尊敬というののとも少し違うんです。なんというか、望ましい一つの海軍士官像として皆が評価してましたね」(p.63)
四期後輩の杉坂悌二郎中将は、
「暑くても暑いと言わず、寒くても寒いと言わない。頑固なのか、我慢強いのか、それとも感覚が鈍いのか、到底常人にはできない芸当であった」(p.81)
実松護によれば、
「昭和十二年の秋から十四年の八月まで、副官兼秘書官として大臣の米内さんに仕えましたが、大臣になると書類に花押をしたためねばならない。花押にはみなさんなかなか凝るものですよ。ところが米内さんときたら、光政のみとつを組み合わせて、面倒臭いからこれでいいだろうと、それが大臣の花押でしたね。」(p.81-82)
前田稔中将は、
「面倒くさがり屋とはいうけど、日曜大工など得意で、ちょっとした物を器用に作ってましたね」「ただ、スタンドプレイが嫌いで、無口で、茫洋としているから、深く付き合わないと何だかよくわからない。」(p.82)
こうした「面倒くさがり屋」で「掴みどころのない」、八角中将曰く「出世の全く念頭のない努力家(p.475)」であった米内を評価していたのは誰かと考え、当時の海軍上層部の職名表をみると、藤田尚徳人事局長、山梨勝之進海軍次官、岡田啓介海軍大臣、鈴木貫太郎軍令部長、野村吉三郎軍令部次長と、いずれも海軍の右傾化を嫌い、のちに陸軍や右翼から国賊視される人たちだそうです。

そんな米内光政は遅咲きで、海軍学校時代のクラスでは「グズ政」と呼ばれていたそう。彼自身、
「僕はネ、クラスのものから『グズ政』と言われていたよ。議論をしてもうまく言えないし、議論なんかしても始まらないと考えていたので、議論というものはしなかった」(p.213)
と語ったことがあったそうです。前田中将は
「米内さんは...大きな流れに流されながら、少しも節を曲げず、終始醒めた眼で抵抗し続けていました。『論語は城内の掟、老子は城外の道』と言いますが、前にも申し上げたように、米内さんにはどこか老荘の風があって、カミソリみたいな井上(成美)さんを、参謀長として、のちには次官として、上手に包み込んで使っておられた。一回り大きな軍政家だったと思いますよ」(p.215)
と米内と井上の関係を語っています。

考えていないようで、考えている不思議な人物、面倒くさがりだけど親しみやすい、今どこかで叫ばれているリーダーシップ論とは一線を画したような不思議な人間性が感じられます。無口だけれど、一言一言が重い人間だったことがよく伝わります。そんな彼はポツポツと素晴らしい言葉を残していたりもします。前田中佐に向けた言葉として、
「人にはそれぞれの能力があるからね。物差しでいうと横幅が広いのもあるし、縦に長いのもある。物差しの具合をよく見て、その限度内で働いている間は、僕はほったらかしとくよ。ただ、能力の限界を超えて何かをしそうになったら、気をつけてやらなくちゃいかん。その注意を仕損なって部下が間違いを犯した場合は、注意を怠った方が悪いんだから、こちらで責任を取らなくちゃあね」(p.103)
と人の使い方について話したと言います。


そんな米内光政がどうやって生まれたのかといえば、大臣秘書官の実松護が米内のあまりの博識ぶりに質問したところ、
「鎮海に二年、佐世保に一年、横須賀に一年というように、官舎でやもめ暮らしをしている間に読書の癖がついた。特に鎮海の閑職時代には書物を読むのが何より楽しみであった。そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役に立っているように思われる。人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ」
と言ったそうです。この「人間と言うのものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義あらしめること」というのは言うは易く行うは難し。なかなか不遇を受け入れ、それを楽しめるものはそうはいまい。こういったところも米内光政の凄さと言えるでしょう。それにざっくり教養・知性というのものは、一朝一夕に身につくものではないにせよ、非常に重要なものだと思えるでしょう。みなさんも是非、私と一緒に読書しましょう。

【オススメの三冊】
山本五十六 (上巻) (新潮文庫)
阿川 弘之
新潮社
1973-03-01

(海軍提督三部作の一つ。有名な山本五十六を。海軍を引っ張ったその人柄もよくわかります。)

井上成美 (新潮文庫)
阿川 弘之
新潮社
1992-07-29

(海軍提督三部作の一つ。井上成美編。非常に気難しい人だったようですが、参謀にこの人がいたから、米内光政や山本五十六は安心して戦えたことがよくわかります。)


(読書のすすめとして、一冊。)
 
           
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